僕が撃つコメント(文章)をインペレーター霊の霊言と並べて書籍に掲載するのがどうにも気が引けるものの(僕のテキストがペライため)書かない訳にもいきませんのでその作業をおこなっています。「インペレーターの霊訓」書籍データほぼ完成しています。
霊団がまた気になる事を言ってきてますが詳細はのちほど、時間がありませんので。復刊させずにココで作業が止まっちゃったりなんかして。霊団が言っている事を見るとそういう予測もあったりなかったり。イヤ、やる。まずはココまで。作業続行中、ほとんど終了中(祈)†
「皇族は強姦殺人魔」山を愛する霊覚者・たきざわ彰人です(祈)†
皇族などと自称する明仁、文仁、徳仁、悠仁は「処刑遊び」と称して奴隷の女の子を四肢切断、強姦殺人しまくっています。死刑にしましょう(祈)†
僕が撃つコメント(文章)をインペレーター霊の霊言と並べて書籍に掲載するのがどうにも気が引けるものの(僕のテキストがペライため)書かない訳にもいきませんのでその作業をおこなっています。「インペレーターの霊訓」書籍データほぼ完成しています。
霊団がまた気になる事を言ってきてますが詳細はのちほど、時間がありませんので。復刊させずにココで作業が止まっちゃったりなんかして。霊団が言っている事を見るとそういう予測もあったりなかったり。イヤ、やる。まずはココまで。作業続行中、ほとんど終了中(祈)†
そのボツった方のカラーリングはお見せできないのですが、かなりヤヴァイ空気感が漂っていたのです。僕の目にはそれはまるで「新興宗教の小冊子の表紙」のように見えたのです。コイツァーマズイ、胡散臭ささえにじみ出ている、何としても雰囲気を変えなければ、という事で思い切った事をやってみました。
スキャン画像のドアップですのでどうもインペレーター霊の顔がボケた感じになってしまっていますよね、これは宜しくないという事で新たに線画を描き起こしたという事なのです。見る人によって感じ方はそれぞれだと思いますが、一応「インペレーター霊の重厚感」をイメージして描きました。
あと書籍本文中に少し変更点がありますのでそちらの作業をおこなったのち、テスト刷りをおこないつつ電子書籍用データの作成にも入りつつ、いよいよスーパーメンドクサイ「オーファンワークス」の事務作業に入るつもりです。ヤダ、本気でやりたくないけどもうしょうがない。
寿命が尽き、いよいよ死期が近づくと、一種の緊張の強みを感じる。永遠なる生命の書の第1巻を閉じつつあることが分ってくる。
心霊治療家となって以来、私は大勢の人が死を迎えるのを手伝ってきた。安らかに死を迎えさせてあげるのも心霊治療家の重要な任務の1つと心得ているからである。
その一生は苦労と不愉快なことの連続だったのかも知れない。が、死期が近づくと誰しも安らかさと落着きを覚え、完全な無痛状態と快く運命に身をゆだねる心境になるもののようだ。
無論そうとはいえない死に方もある。戦場で死ぬ兵士がいる。自動車事故や飛行機事故で死ぬ人がいる。殺されて死ぬ人もいる。死刑によって死ぬ者もいる。また同じく死ぬ人でも、霊的に目覚めて死ぬ人と、目覚めないまま死ぬ人とがいる。
死にたくないと必死に抵抗しながら死んでいく人もいる。こういう人は死の自覚の芽生えが遅い。死んでから尚も自覚が芽生えずに、霊界の指導者による看護と再教育を要する人がいる。が数から言えばそういう人はそう多くはない。
大体において死を迎える直前には静寂が訪れる。やっと終った、地上での勉強が終った、これで試練と苦痛から解放される、という認識が、安らぎと受容の心境を生む。何となく身が軽くなってくる。
肉体感覚が薄らぎ、自分のものでないように思えてくる。やがてふわっと上昇しはじめる。アドバルーンのように浮いてくる感じがする。見下ろすと、1人の人間がベッドに横になっている。自分だ。自分のからだだ。
そのからだと本当の自分とが銀色をした細い紐のようなものでつながっている。その紐が光線を発しながら息づいているのが見える。これがいわゆる“生命の糸”(玉の緒)だ。自分が上昇するにつれてその紐が細く長く伸びている。次第に輝きが薄らぎ、やがて消える。と同時に紐も無くなっている。その時あなたは“死んだ”のである。
地上と縁の切れたあなたは、なおもしばらく生命の灯の消えた異様な姿の“なきがら”を見下ろしながら、その辺りを漂っている。すっかり寛ぎ、気分が爽快だ。からだが軽い。ちょうどぐっすりと寝て起きた時のあの気分だ。何やらいい夢を見ていたらしい。その1つ1つは思い出せないが、とにかく気分がいい。あなたは、しばし、その陶酔に身をまかせる。
やがてその気分のまま銀白色のモヤの中を上昇しはじめる。その動きはゆっくりとしていて、しかも快適である。上へ昇るというよりは、外へ出て行くと言ったほうが当っているかも知れない。
そのうち指導霊が姿を見せる。ニッコリと笑顔で迎えてくれる。その指導霊といっしょになおも上昇していく。いっしょに上昇しながら指導霊との再会のよろこびをしみじみと味わう。地上の苦労の数々も今では楽しい思い出だ。
やがてモヤが晴れる。気がつくと、そこには先立った肉親縁者や友人、知人がいる。みんなニコニコして労をねぎらうように温かく迎えてくれる。そこが霊界である。あなたはようやく故郷へ帰ってきたのだ。
みんなはつらつとして幸せそうだ。そしてそれぞれが最盛期の容姿をしている。1人1人みな違う。40代の働き盛りの姿をした者もいれば、20代の魅力あふれる女性もいる。死後彼らは老齢と病を象徴するあのみすぼらしい痛々しい特徴をかなぐり捨て、それぞれが最高の容姿に変わっていく。
老人は腰が真っすぐになり、顔のシワも消え、働き盛りの元気はつらつとした男性となる。そしてその相をその後もずっと維持する。変化するのは霊的成長とともにオーラの輝きが増すことである。
子供は霊界でも徐々に成長する。徐々にと言っても、その度合いは地上の時間的観念と同一ではない。だから、その子の幼少時代しか知らない肉身や友人は現在の成長した姿ではもう認識できないまでになっている。そこで一時的にかつての他界した当時の容姿をまとい、新参者がすっかり落着いてから、本来の容姿に戻していく。
こうして愛と輝きの雰囲気の中で、あなたは旧知を温め、友情を確かめ、再会のよろこびを心ゆくまで味わう。時の経過と共に、代ってこんどはあなたが新参者を迎え、新たな環境への適応を手助けしてあげることになる。
さらに時が経つ。どのくらいかは分らない。地球の長い歴史の観念をもってすれば、われわれにとって長いと思われる時間も、永遠の時を大海に譬えればその1滴にも相当しないであろう。
が、ともかく幾ばくかの時が経ち、あなたはすっかり新しい環境に馴染み、そろそろ地上生活のおさらいをしてもいい時期が来る。そこで指導霊といっしょに1つ1つ点検し反省する。
その結果さらに1段高い次元の世界へ進む資格があると判断するかも知れないし、まだまだ経験が足らないと判断するかも知れない。他人への思いやり、謙虚さ、奉仕の精神等が不足しているかも知れない。そうなると再び地上へ戻ったほうがよいという結論になるであろう。そしてその機の熟するのを待ちながら準備にかかる。
こんどの人生ではあなたは身障者としての生涯を選ぶかも知れない。れん性麻痺患者として生きることになるかも知れない。聾唖者となるかも知れない。あるいは億万長者となるかも知れないし、天才に生まれ変わるかも知れない。みんなそうやって自分で選んで生まれてくるのだ。
私の父は87歳で他界した。その日私は、ダブルベッドでようやく起き上がっている父のわきに腰かけ、妻のジーンが片手を握っていた。白髪の老紳士である。2週間前から病気が出て、私は直接と間接(遠隔)両方の治療を施した。がやはり寿命だった。死ぬ間際には痛みも消え、安らかに寝入ったまま静かに他界した。
父は自分でも死期が近づいていることを自覚していた。そして私と長々と最後の話をした。父はいい生涯だったと言い、何も思い残すことはないと言った。ただ、自分の葬儀について、人様に迷惑を掛けたくないから余計な儀式は一切やめにして密葬にし、死体は火葬にしてほしいと言った。自分の死を悲しんでほしくないとも言った。最後まで陽気で寛いだ雰囲気だった。
父はあまり口やかましい人間ではなかった。教育も普通教育だけだった。子供の頃から正統派のキリスト教で育てられ、その他のことは本で読むこともあまりしなかった。人生哲学などについては1冊も読んだことがないのではないかと思う。
しかし静かに物思いに耽るタイプで、時おりパイプを口にし、一言居士的なところもあったようだ。スピリチュアリズムには関心がなかった。1、2度誘ってみたが、どの宗教でも似たようなことを言ってるよ、といって取り合ってくれなかった。
その“宗教”に関しても、父は本を読んだわけでもなく、誰かと議論したわけでもなく、挑発されたわけでもなく、思い知らされるような体験をしたわけでもないのに、すでに40年以上も前からすべての伝統的教義をかなぐり捨てていた。
固苦しい掟やタブー、儀式、迷信の類いから完全に解脱していた。そして1日わずか2、3シリングで事足りる実に質素な生活に甘んじていた。心は優しくて思いやりがあり、他人の弱点に対して寛大だった。まさに「汝の人にせられんと思うところを人に施せ」というキリストの黄金律が父の唯一の人生哲学だったようだ。
父はどうやってそこまで辿り着いたのだろうか。心霊能力は何1つなかった。物が見えたとか声が聞こえたとかの体験もなかった。私の知るかぎりでは霊媒や心霊治療家のところへ行ったこともない。交友関係にも霊能者はいなかった。
多分どこかでうまく背後霊と連絡が取れていたに違いない。自分では自覚していなくても、外部から見る者には、父が人間的に成熟した人間であることは明白に読み取れた。
同じく霊的真実に目覚めるのにも、私のように心霊治療を施したり、私から治療を受けたり、交霊会で霊と会話を交わしたり、霊の姿を見たり手で物質化霊に触わったり、写真に撮ったりといった、いわゆる心霊的体験を通して目覚める人と、そうした体験を何1つせずに自然に目覚めている人とがいる。
前者にとってそれは当然の帰結といってよいが、後者にとっては余ほどの魂の純粋さを必要とすることではないかと思われるのである。
死の2時間前から父は軽い昏睡状態に陥った。その瞬間から生命力が次第に抜け始めた。と同時に、霊魂が身体から脱け出て、生命の系でつながったまま漂っていた。糸は霊が遠ざかるにつれて細くなっていった。が、まだ息づいている。
父がわれわれを見下ろしているのがわかる。妻は父の片手を握りしめ、私はそばで静かに腰かけている。安らかな死を迎えさせてあげるために、力と平静さとを与えたのである。
その間にも父の身体は急速に変化を見せていた。頰は落ち込み、目は無限の彼方を凝視しているかのようだった。そこにはもはや父の面影はなかった。やがて生命の糸の息づきが止まり分解しはじめた。父の霊魂は急速に上昇しはじめた。そして多分、大勢の縁者と再会することだろう。父はついに死んだ。
翌日、私は例の『死とは何か – 悩める人へのガイドブック』をもう1度始めから読み直してみた。20ページ余りの薄い本なので読み通すのに時間はかからなかった。読み終えた時、妻のジーンが「どこか書き直さなくてはいけない箇所がありますか」と尋ねた。
どこにも書き直すべきところはなかった。実は本書の第10章からはその小冊子を敷衍しながら書いている。言わんとしていることはまったく同じである。若い頃の私は父を“悩める人”と見ていた。確かにそういう時期もあったに違いない。
が大事な時期に多分父の背後霊が、“知識”によってではなく、霊的に悟らせる形でうまく指導したのだろう。その後私は交霊会で父と何度か話を交わし、今でも助言を求める時がある。新たな環境への適応の一時期を経て、今では背後から私を援助してくれている。
その雰囲気は地上時代と同じく優しさと純粋さにあふれている。私も父に見習わなくてはと思っている。私が地上を去って霊界で父と再会した時、父が誇りをもって私を迎えることが出来るように。