1913年11月15日 土曜日
さて、もう1つ私の立場から見てもらいたいものがある。地上の科学者は天体について彼らなりに観察し、その結果をまとめ、他の情報と統合して推論を下し、それにある程度の直感力と叡智とを加味して生成の原理を系統だてているが、その天体の生成過程に霊的存在と霊的エネルギーとがどう関わっているか、その真相について述べてみたい。
そもそも“天体”という用語には二重の意味があり、その理解も個人の能力と人間性の程度によって異る。ある者にとってはそうした球体は物質的創造物に過ぎず、ある者にとっては霊的生命力の顕現の結果以外の何ものでもない。が、その霊的生命力の働きについても、皆がみな同じように理解しているわけではない。
霊的生命力という用語をきわめて曖昧な意味に使用している者もいる。“神が万物を創造した”と簡単に言う者がいるが、その意味するところは途轍(とてつ)もなく深遠である。
地上という薄暗い世界を超越して、より明るい世界を知る者にとっては、多分その言い方では真理を“表現している”よりむしろ“埋葬している”と言いたいところであろう。
最も偉大なものも、最も単純な叡智から生まれる。絶え間なく運動を続ける天体の見事な連動関係(コンビネーション)も、最も基本的な幾何学的計算から生まれる。何となれば、1つの縺(もつ)れもなく自由自在の使用に耐え得るものは、最も純粋にして最も単純なものしかないからである。
その至純にして単純な状態こそ恒久性の保証である。それは地球のみに限らない。遥か彼方の星辰の世界においても永遠に変らぬ真理である。何となれば、完璧なる理法のもとに統制されているからである。
さて、それら天体組織の各軌道は2種類の原理によって定められると言っても過言ではない。すなわち直線と曲線である。否、根源的にはたった1つの原理すなわち直線からできあがると述べた方がより正確かも知れない。
つまり全ての天体は本来直線軌道の上を直進している。ところが突き進むうちに例外なく曲線を画くことになる。その道理の説明は地上の天文学者にも出来るであろう。が、1つだけ例を挙げて説明しておこう。
地球を例にとり、それが今軌道上を発進したとしよう。すると先ず直線コースを辿る。それが本来の動きなのである。ところが間もなく太陽の方角へ曲りはじめる。そしてやがて楕円状に動いていることが判る。
結果的には直線は1本もない。曲線の連続によって楕円を画いたのであり、それが地球の軌道なのである。一方、太陽の引力は決して曲線状に働いたわけではない。やはり一直線なのである。
結局地球の軌道を直線から楕円へと変えたのは2種類のエネルギーの直線的作用 – 地球の推進力と太陽の引力 – だったのであり、その中に多種類の曲線の要素が入り、それが完全な楕円をこしらえたのである。
実はこれには他に多くの影響力が働いているが、貴殿の注意力を逸(そ)らさぬよう、1つの原理にしぼっている。これを定義づければこういうことになろう – 2本の直線的エネルギー作用が働き合って楕円軌道を形成する、と。
太陽の引力も地球の推進力も完全な理法に沿って働き、そこには美しさと驚異的な力がある。物体が自ら働くということ自体が驚異というべきであり、真実、驚異なのである。
その両者が互いに動きを修正し合い、また大なるものが小なるものを支配しつつ、しかも小なるものの本来の力と自由を奪うことなく、連動作用により – 明らかに対立した動きをしながらも – 2本の直線よりも遥かに美しい楕円を画く。これはまさに親と子の関係にも似ている。
貴殿はまさか両者が対立した運動をするからにはこの機構は誤っており“悪”の根源より出たものである、などとは思うまい。考えてもみるがよい。この両者は虚空の中を来る日も来る日も変わることなく連繋運動を幾星霜となく続け、今なお続けている。
それを思えば、侮蔑どころか畏敬と崇敬の念を抱くべき事柄である。美しさと偉大さとを併せもつ叡智の存在を示している。これを考案された神へ讃仰の念を抱かずにはおれないであろう。偉大な叡智と偉大な力とを兼ね備えた存在であるに相違ないからである。むべなるかなである。
人間は神の御業をこのように正しく理解せず、見た目に映じた皮相な見解のもとに神および神の働きを安易に疑い過ぎる傾向がある。人間生活の中にさきの例のような対立関係を見ると、すぐに神が不完全であるかの如く言う。もっと良い方法があるはずであると思い、神の叡智と愛を疑う。
人間生活の画く大きな軌道の僅かな曲線のみ見て、あたかも全てが破滅に向かっているかの如く思いつめる。そうまで思いつめなくても、少なくとも全てが直線的、つまりは悲劇もなく苦難もないコースこそが正しい人生であると思い、対立的勢力の連動作用によって軌道を修正されることを好まない。
もとより、仮定の問題とすればそれ以外の働き方もあるかも知れない。が、もしそうなれば、神がその霊力によって実現させたところの、かの完璧な星辰の動きには及びもつかぬものとなるであろう。
人生における軋轢(あつれき)や悩み事や苦痛を生じさせるところの対立関係は、地球を無事軌道上に運行させているエネルギーの対立関係と同じなのである。完全なる全体像を見通す神の目から見ればそれで良いのであり、その成就へ向けて忍耐強く待つのである。
吾々とて全てが判るわけではなく、これから辿る道もさして遠い先まで見通せるわけでもない。ただ貴殿よりは遠くが見える。少なくとも現在の自分の置かれた事情に得心し、同じ道を歩む同胞に援助の手を伸ばし、これより先いかに遠く進もうとも、全てがうまく出来ているとの信念をもって向上へ励むのである。
と言うのも、こうして地上の霧に包まれ視野を閉ざされた状態においては、吾々はその道程について“しつこく”その価値を詮索することをせず、天界に戻って煌々たる光の中において全体を眺める。
その高き視野より眺めると、完成へ向けて進む人生の軌道は実に美事なものである。あまりに美事であるために吾々はしばしば愛と叡智の神の尊厳に驚嘆と畏敬の念を覚え、思わず足を止めるのである。その威容の前にひれ伏す時の讃仰の念は最早や私の言葉では表現できない。ただ魂の憧れの中に表現するのみである。
アーメン。私からの祝福を。勇気をもって怖れることなく歩むがよい。先のことは私が全て佳きに計らうであろう。†
■2021年11月24日UP■「何であたしがこんな重荷を背負わなきゃいけないの?」シルキーが悪用されるという意味です(祈)†僕を殺して口を利けないようにしてからシルキーを盗む、という意味で間違いないものと思われます。この「家族の一員に」というのは「デ〇〇ニー」の事を言っているような気がしてなりませんが。つまりデ〇〇ニーが僕の反論がない状態でシルキーのキャラクターを完全に書き換え霊的意味を完全に抜け落ちさせ、シルキーが我々のキャラであると世界中を洗脳する作品を発表する事によって僕、たきざわ彰人の存在を世界中の人間の脳内から消させる、という意味ではないかと思われます。そしてトランス時に霊団が見せてきた映像で、シルキーが「何であたしがこんな重荷を背負わなきゃいけないの?」とすごいイヤそうにしていたのです…続きを読む→ ■2021年9月22日UP■「実際に戦争に送ろうと思ってるんだよ」明仁、文仁、徳仁、悠仁が僕を体よく殺そうとしているのです(祈)†皆さまは「戦争」というものを「勃発してしまったら国民は戦争に赴かなければならないものなんだ、イヤでもやらなければならないものなんだ」みたいに考えておられますか。皆さま霊的知識をお勉強して下さい。その考えは1億%間違っています。僕たち人間は年齢、性別、人種等に関係なく全員が【神】から「神性の火花」を賜って個的存在を獲得した「神を共通の父(親)とした霊的同胞、霊的兄弟、霊的大家族」です。霊的知識を正しく理解すると、戦争で敵国の兵士を殺す事は「自分の家族を殺す事と同義」という事が理解できます。戦争というものは無知から生じる大変愚かな行為という事になります。そして僕は以前「コロナウソ」に関してこのような事を書いた事がありますが…続きを読む→ ■2024年2月14日UP■■アナログ絵360「ベールの彼方の生活2巻」復刊書籍表紙UP。どうしても復刊できない(祈)†「ヨーロッパの妖精物語と東洋の魔法の物語」こちらは現代の人間にも広く知られているモチーフですよね。RPGゲーム等でよくみられる「剣と魔法のファンタジー」の世界観です。ファイ〇ルファン〇ジー等で多くの方がこのモチーフに親しんでいますが、この世界観も元はといえば過去の霊能者が見せてきた霊現象が元ネタなのだそうです。その霊能者の最大の人物がもちろん聖書に登場するイエス様、という事になります。RPGゲーム等で遊んでいる方がたくさんいらっしゃる事と思いますが、その時に頭のホンのかたすみにでも「あぁ、この剣と魔法の世界観は霊現象が元ネタなんだよなぁ」と思い出してもらえると、そして少しでも霊的なモノに興味を持ってもらえると僕的にはうれしいのですがどうでしょう。もっとも、歪められ具合がタダ事ではありません、長い世紀にわたって霊的な事を理解していない人間たちの手によって実際の霊的事象とは似ても似つかない物的商売臭の漂う世界観に完全に書き換えられてしまっており、もはや全く別物と言った方がいいのでしょう。「人間は本来が霊であり肉体はタダの衣服に過ぎない」という霊的真理などは完全に抜け落ちて形骸すら残っていません。だからこそ絶版状態の霊関連書籍の復刊が急務だと僕は思っているのですが……続きを読む→