【5/13】霊界通信 ベールの彼方の生活 3巻 「天界の政庁」篇 7章 善悪を超えて 1 聖堂へ招かれる
1917年12月17日 日曜日
これまで吾々は物的宇宙の創造と進化、および、程度においては劣るが、霊的宇宙の神秘について吾々の理解したかぎりにおいて述べました。そこには吾々の想像、そして貴殿の想像もはるかに超えた境涯があり、それはこれより永い永い年月をかけて1歩1歩、より完全へ向けて向上していく中で徐々に明らかにされて行くことでしょう。
吾々がそのはるか彼方の生命と存在へ向けて想像の翼を広げうるかぎりにおいて言えば、向上進化の道に究極を見届けることはできません。それはあたかも山頂に源を発する小川の行先をその山頂から眺めるのにも似て、生命の流れは永遠に続いて見える。
流れは次第に大きく広がり、広がりつつその容積の中に水源を異にするさまざまな性質の他の流れをも摂り入れていく。人間の生命も同じです。その個性の中に異質の性格を摂り入れ、それらを融合させて自己と一体化させていく。
川はなおも広がりつつ最後は海へ流れ込んで独立性を失って見分けがつかなくなるごとく、人間も次第に個性を広げていくうちに、誕生の地である地上からは見きわめることの出来ない大きな光の海の中へ没入してしまう。
が、海水が川の水の性分を根本から変えてしまうのではなく、むしろその本質を豊かにし新たなものを加えるにすぎないように、人間も一方には個別性を、他方には個性を具えて生命の大海へと没入しても、相変らず個的存在を留め、それまでに蓄積してきた豊かな性格を、初めであり終りであるところの無限なるもの、動と静の、エネルギーの無限の循環作用の中の究極の存在と融合していきます。
また、川にいかなる魚類や水棲動物がいても、海にはさらに大きくかつ強力な生命力をもつ生物を宿す余裕があるごとく、その究極の境涯における個性とエネルギーの巨大さは、吾々の想像を絶した壮観を極めたものでしょう。
それゆえ吾々としては差し当たっての目標を吾々の先輩霊に置き、吾々の方から目をそらさぬかぎり、たとえ遠くかけ離れてはいても吾々のために心を配ってくれていると知ることで足りましょう。
生命の流れの淵源は究極の実在にあるが、それが吾々の界そして地上へと届けられるのは事実上その先輩霊が中継に当たっている。そう知るだけで十分です。吾々は宿命という名の聖杯からほんの一口をすすり、身も心も爽(さわ)やかに、そして充実させて、次なる仕事に取りかかるのです。
– どんなお仕事なのか、いくつか紹介していただけませんか。
それは大変です。数も多いし内容も複雑なので…。では最近吾々が言いつけられ首尾よく完遂した仕事を紹介しましょう。吾々の本来の界(第10界)の丘の上に聖堂が聳(そび)えています。
– それはザブディエル霊の話に出た聖堂“聖なる山”の寺院のことですか。(第2巻8章4参照)
同じものです。“聖なる山”に聳(そび)える寺院です。何ゆえに聖なる山と呼ぶかと言えば、その10界をはじめとする下の界のためのさまざまな使命を帯びて降りてこられる霊が格別に神聖だからであり、又、10界の住民の中で次の11界に不快感なしに安住できるだけの神聖さと叡智とを身につけた者が通過して行くところでもあるからです。
それには長い修行と同時に、11界と同じ大気の漂うその聖堂と麓(ふもと)の平野をたびたび訪れて、いずれの日にか永遠の住処(すみか)となるべき境涯を体験し資格を身につける努力を要します。
吾々はまずその平野まで来た。そして山腹をめぐって続いている歩道を登り、やがて正門の前の柱廊玄関(ポーチ)に近づいた。
– 向上するための資格を身につけるためですか。
今のべた目的のためではありません。そうではない。11界の大気は“いつも”そこに漂っているわけではなく、向上の時が近づいた者が集まる時節にかぎってのことです。
さてポーチまで来てそこで暫く待機していた。するとその聖地の光輝あふれる住民のお1人で聖堂を管理しておられる方が姿を現わし、自分といっしょに中に入るようにと命じられた。吾々は一瞬ためらいました。吾々の霊団には誰1人として中に入ったことのある者はいなかったからです。
するとその方がにっこりと微笑(ほほえ)まれ、その笑顔の中に“大丈夫”という安心感を読み取り、何の不安もなく後について入った。その時点まで何ら儀式らしいものは無かった。そして又、真昼の太陽を肉眼で直視するにも似た、あまりの光輝に近づきすぎる危険にも遭遇しなかった。
入ってみるとそこは長い柱廊になっており、両側に立ち並ぶ柱はポーチから聖堂の中心部へ一直線に走っている梁(はり)を支えている。ところが吾々の真上には屋根は付いておらず無限空間そのもの – 貴殿らのいう青空天井になってる。
柱は太さも高さも雄大で、そのてっぺんに載(の)っている梁(はり)には、吾々に理解できないさまざまなシンボルの飾りが施してある。中でも私が自分でなるほどと理解できたことが1つだけある。
それはぶどうの葉と巻きひげはあっても実が1つも付いていないことで、これは、その聖堂全体が1つの界と次の界との通路にすぎず、実りの場ではないことを思えば、いかにもそれらしいシンボルのように思えました。その長くて広い柱廊を一ばん奥まで行くとカーテンが下りていた。
そこでいったん足を止めて案内の方だけがカーテンの中に入り、すぐまた出て来て吾々に入るように命じられた。が、そのカーテンの中に入ってもまだ中央の大ホールの内部に入ったのではなく、ようやく控の間にたどりついたばかりだった。
その控の間は柱廊を横切るように位置し、吾々はその側面から入ったのだった。これまた実に広くかつ高く、吾々が入ったドアの前の真上の屋根が正方形に青空天井になっていた。が、他の部分はすべて屋根でおおわれている。
吾々はその部屋に入ってから右へ折れ、その場まで来て、そこで案内の方から止まるように言われた。すぐ目の前の高い位置に玉座のような立派な椅子が置いてある。それを前にして案内の方がこう申された。
「皆さん、この度あなたがた霊団をこの聖堂へお招きしたのは、これより下層界のための仕事をしていただく、その全権を委任するためです。これよりその仕事について詳しい説明をしてくださる方がここへお出でになるまで暫(しばら)くお待ちください」
言われるまま待っていると、その椅子の後方から別の方が姿を見せられた。さきほどの方より背が高く、歩かれる身体のまわりに青と黄金色の霧状のものがサファイアを散りばめたように漂っていた。やがて吾々に近づかれると手を差し出され、1人ひとりと握手をされた。
そのとき(あとで互いに語り合ったことですが)吾々は身は第10界にありながら、第11界への近親感のようなものを感じ取った。それは第11界の凝縮(ぎょうしゅく)されたエッセンスのようなもので、隣接した境界内にあってその内奥で進行する生命活動のすべてに触れる思いがしたことでした。
吾々は玉座のまわりの上り段に腰を下ろし、その方は吾々の前で玉座の方へ向かって立たれた。それからある事柄について話されたのであるが、それは残念ながら貴殿に語れる性質のものではない。
秘密というのではありません。人間の体験を超えたものであり、吾々にとってすら、これから理解していくべき種類のものだからです。が、そのあと貴殿にも有益な事柄を話された。
お話によると、ナザレのイエスが十字架上にあった時、それを見物していた群集の中にイエスを売り死に至らしめた人物がいたということです。
– 生身の人間ですか。
さよう、生身の人間です。あまり遠くにいるのも忍びず、さりとて近づきすぎるのも耐え切れず、死にゆく“悲哀(かなしみ)の人”イエス・キリストの顔だちが見えるところまで近づいて見物していたというのです。すでに茨の冠は取られていた。が、額には血のしたたりが見え、頭髪もそこかしこに血のりが付いていた。その顔と姿に見入っていた裏切り者(ユダ)の心に次のような揶揄(からかい)の声が聞こえてきた –
“これ、お前もイエスといっしょに天国へ行って権力の座を奪いたければ今すぐに悪魔の王国へ行くことだ。お前なら権力をほしいままに出来る。イエスでさえお前には敵(かな)わなかったではないか。さ、今すぐ行くがよい。今ならお前がやったようにはイエスもお前に仕返しはできぬであろうよ”と。
その言葉が彼の耳から離れない。彼は必死にそれを信じようとした。そして十字架上のイエスに目をやった。彼は真剣だった。しかし同時に、かつて1度も安らぎの気持で見つめたことのないイエスの目がやはり気がかりだった。が、死に瀕(ひん)しているイエスの目はおぼろげであった。
もはやユダを見る力はない。唆(そそのか)しの声はなおも鳴りひびき、嘲(あざけ)るかと思えば優しくおだてる。彼はついに脱兎のごとく駆け出し、人気(ひとけ)のない場所でみずから命を捨てた。帯をはずして首に巻き、木に吊って死んだのである。かくして2人は同じ日に同じ“木”で死んだ。地上での生命は奇しくも同じ時刻に消えたのでした。
さて、霊界へ赴いた2人は意識を取り戻した。そして再び相見(まみ)えた。が2人とも言葉は交わさなかった。ただしイエスはペテロを見守ったごとく(*)、今はユダを同じ目で見守った。そして“赦”しを携えて再び訪れるべき時機(とき)がくるまで、後悔と苦悶に身をゆだねさせた。
つまりペテロが闇夜の中に走り出て後悔の涙にくれるにまかせたようにイエスは、ユダが自分に背を向け目をおおって地獄の闇の中へよろめきつつ消えて行くのを見守ったのでした。
(* イエスの使徒でありながら、イエスが捕えられたあと“お前もイエスの一味であろう”と問われて“そんな人間は知らぬ”と偽って逃れたが、イエスはそのことをあらかじめ予見していて“あなたは今夜鶏の鳴く前に3度わたしを知らないと言うだろう”と忠告しておいた。訳者)
しかしイエスは後悔と悲しみと苦悶の中にあるペテロを赦したごとく、自分に孤独の寂しさを味わわせたユダにも赦しを与えた。いつまでも苦悶の中に置き去りにはしなかった。その後みずから地獄に赴いて探し出し、赦しの祝福を与えたのです。(後注)
以上がその方のお話です。実際はもっと多くを語られました。そしてしばらく聖堂に留まって今の話を吟味し、同時にそれを(他の話といっしょに)持ち帰って罪を犯せる者に語り聞かせるべく、エネルギーを蓄えて行われるがよいと仰せられた。
犯せる罪ゆえに絶望の暗黒に沈める者は裏切られた主イエス・キリストによる赦しへの希望を失っているものです。げに、罪とは背信行為なのです。
さて吾々が仰せつかった使命については又の機会に述べるとしましょう。貴殿はそろそろ疲れてこられた。ここまで持ちこたえさせるのにも吾々はいささか難儀したほどです。
願わくは罪を犯せる者の救い主、哀れみ深きイエス・キリストが暗闇にいるすべての者と共にいまさんことを。友よ、霊界と同じく地上にも主の慰めを深刻に求めている者が実に多いのです。貴殿にも主の慈悲を給わらんことを。
訳者注 – ここに言う“赦し”とはいわゆる“罪を憎んで人を憎まず”の理念からくる赦しであって、罪を免じるという意味とは異なる。イエスもいったんはユダを地獄での後悔と苦悶に身をゆだねさせている。
因果律は絶対であり“自分が蒔いたタネは自分で刈り取る”のが絶対的原則であることには変わりないが、ただ、被害者の立場にある者が加害者を慈悲の心でもって赦すという心情は霊的進化の大きな顕れであり、誤った自己主張の観念からすべてを利害関係で片づけようとする現代の風潮の中で急速に風化して行きつつある美徳の1つであろう。
「我々の言葉を信じなさい」帰幽後に全ての埋め合わせがおこなわれるという意味です(祈)†
2000年前のイエス様が物質界に降下しておこなった仕事はもちろん「霊的知識普及」であり「神のご意志遂行」であり、それが現在も「スピリチュアリズム普及」というカタチで継続しているのです。このスピリチュアリズム普及の霊界での総指揮官はイエス様です。どうか霊関連書籍でお勉強して頂きたいです。そのイエス様が、一体何がどうなっているのか僕などというよく分からない画家に「怒涛の連続顕現」で霊的仕事を猛烈にお願いしてきたのです。僕は激しく拒絶しましたが1週間近くイエス様に何とも言えない表情で怒涛にお願いされ続けて僕は根負けしてしまい、この使命遂行をやる“ハメに”なってしまったのです。それから10年(霊性発現が2012年6月、隔離フィールド発動(事実上の使命遂行開始合図)が2014年7月ですから正確にはほぼ9年という事になるでしょうか)僕はずっとそのイエス様と約束した仕事を続けてきたのです…続きを読む→
「背後霊の言う事を聞く」もちろんその通り、それは重々承知しているのですが(祈)†
物質界の評価に1ミリも興味はありませんので僕が物質界レベルで軽蔑嘲笑を受ける事になろうと知った事ではないのですが、ただ悲しいのは「僕が自分の人生を犠牲にしてこれほどの活動をしても、それでも皆さまの眼は開かれないのか」という事です。僕が殺されたあと、僕という人間を侮辱する、僕の人格を全く別物に書き換えるインチキ書籍が「宇宙一のバカ」大量強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁の手により複数出回ったとして、それをアッサリコロッと皆さまは信じてしまうというのでしょうか。物質界に興味がないと言っている僕でさえ悲しくなる眼の閉じっぷりです。僕の事は何とでも思って頂いて構わないとして、少なくとも「宇宙一のバカ」大量強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁の洗脳だけは撃ち破ってもらわないと皆さまが帰幽後に恥ずかしくて居たたまれなくなると思うのですがいかがでしょう。帰幽後の霊界人生が人間の本当の人生です。そちらに照準を合わせて日々の生活を送らないといけないんですよ…続きを読む→
ディスカッション
コメント一覧
まだ、コメントがありません