【6/16】霊界通信 ベールの彼方の生活 4巻 「天界の大軍」篇 3 水子の霊の発育
1918年2月22日 金曜日
今夜お話することは多分貴殿には本題から外れているように思えるかも知れません。が地上で当たり前と思われている生活とは異なる要素を正しく理解する上で大切なことがらについて貴殿の認識を改めておく必要があるのでお話します。
それは、同じく地上から霊界へ誕生してくる者の中でも、地上で個的存在としての生活を1日も体験せずにやってくる、いわゆる死産児のことです。そういう子供は眠ったままの状態でこちらへやってまいります。その子たちにとってのこちらでの最初の目覚めは、地上での誕生時と同じ過程であることは理解していただけるでしょう。
ただ、地上の空気を吸ったことがなく、光を見たこともなく、音を聞いたこともありません。要するに五感のどれ1つとして母胎内での自然な過程の中で準備してきた、その本来の形で使用されたことがありません。従ってそれぞれの器官はほぼ“完全に近い状態”であっても“完全にでき上がって”はいません。
その上、脳髄が五官からのメッセージを処理する操作をしたことがありません。そういうわけで、死産児としてこちらへ来た子供は潜在的には地上的素質を具えてはいても、経験的にはそれが欠けています。ただ、たとえ数分間にせよ、あるいはそれ以下にせよ、実際に生きて地上に誕生したあと他界した子供はまた事情が異なります。
こういう次第ですから、死産児の霊の世話に当たる人たちが解決しなければならない問題はけっして小さいものではないのです。まずその霊が自然な発育をするように霊的感覚器官を発達させてやらねばなりません。それから霊的脳髄にその器官からの情報を処理する訓練をさせてやらねばなりません。
数分間でも生きていた子の場合であれば脳と器官との連絡がわずかながらも出来ておりますから、その経験をその後の発育の土台として使用することができます。が、死産児にはそれが欠けていますから、こちらの世界でそれをこしらえてやる必要があります。それが確立されさえすれば、あとは普通の子供と同じように、発育の段階を1つ1つ重ねていくだけとなります。
この段階での育児には、たとえ面倒でも、さまざまな手段が講じられます。たとえばその子供と地上の両親との間、とくに母親との間には特殊なつながりがあります。
そこで、できるだ母胎からの出産に似た体験をその子にさせて、その体験を通じて母胎からの肉体的分離つまり独立した個体となったという感触を味わわせます。むろんこれは肉体ではできませんから、子供の霊的身体と母親の霊的身体とを使って行います。
これによって自然な出産がもたらすほどの密接な脳と器官との連絡関係が得られるわけではありませんが、一応、地上の親との関係は確立されます。そしてその時点からその子供は地上の母親とのつながりを保ち、可能なかぎり普通の子供と同じような発育をするよう配慮されます。
それでもやはり、地上に誕生した体験をもつ子供との間にある種の相違点がどうしてもあります。地上体験から得られるきびしさに欠けている面がある一方、地上体験のある子供よりも性格と考え方に霊性が見られます。
しかし、成長とともに地上体験のある子供は霊性を身につけ、死産児は母親とのつながりを通じて、さらに成長してからは他の家族とのつながりを通じて、地上の知識を身につけていきますから、その相違点は次第に小さくなり、ついにはほぼ同等の友情関係までもてるようになり、互いに自分に欠けているものを補い合えるようになります。
かくして一方は柔らかさを身につけ、他方は力強さを身につけ、1つの共同体の中で、有益であると同時に楽しい“多様性”の要素をもたらすことになります。
以上の話から貴殿も、地上の両親の責任が死後の世界の子孫にとっていかに大きいかがお分かりになるでしょう。死後の育児にとっても両親との接触が必要だからです。地上の血縁関係の人との接触のない子供は正常な発育が得られない他の何ものによっても補えない、欠落した要素があるのです。
かりに両親が邪悪な生活を送っている場合は、地上の時間にして何年もの間その両親に近づかないようにしておいて、そうした子供の保育に当たっている人たち(※)からみて大丈夫と思えるだけの体力と意志力と叡智を身につけるように指導する必要があります。
(※地上において子宝に恵まれず母性本能が満たされないまま他界した女性であることがこのあとに出てくる – 訳者)
ところが、子供が地上的影響力にさらされても安全という段階に至らないうちに、親の方が地上の寿命が尽きてこちらの世界へ来るというケースがよくあります。そうなった場合子供は祈りを頼りとするほかなくなります。
その場合の親にはもはや地上で乳房をふくませた子供に対する情愛は持ちあわせません。あるいは自分にそんな子がいたことすら知らないでしょう。ですから、二人の間の絆(きずな)は – かりに残っていても弱いものですが – 子供が向上していくにつれてますます薄れていき、一方母親の方は浄化のための境涯へと下りて行きます。
その浄化のための期間を終えて再び戻ってきた頃には、子供の方はすでに母親の手の届かない高い境涯へと進化していることでしょう。子供の方では母親を認識しております。そして母親の気づかないうちにもいろいろと援助しております。
しかし親と子を結びつける本来の温かい情愛の絆は、向上進化を基調とした天界での通常の生活では存在しないし、有り得ないことになります。
この話を持ち出したのは、吾々からみると地上にはこうした(水子の)問題において母性がもつ重責があまりに無視されているからです。地上にて花開くことなく蕾(つぼみ)のうちにむしり取られた、そうしたやさしい花はあまりにも可憐であり、親を知らないことからくる物憂げな表情が歴然としているために、それを見る者は悲痛な思いをさせられるものです。
といって今のその子たちが不幸だと言っているのではありません。およそ不幸といえるものとは縁遠いものです。ただ、さきも言った通り、他の何ものによっても補えない欠落した要素があり、これは地上で母性本能を満たされなかった女性が母親代りに世話してあげても、ほんの部分的に補えるだけです。
そこで(永い永い進化の旅の中で)一方が他方の欠けているものを与え、また自分に欠けているものを受け取っていくということになるのです。その関係は見ていて実に美しいものです。
– お伺いしますが、このような話をなぜここに挿入されたのでしょうか。これまでの話題と何の関係もなさそうですが…
それが実は、あるのです。今お書きになった質問が貴殿の精神の中で形成されていくのが私には分かっておりました。そしていずれお聞きになるものと思っておりました。
今夜この話題を持ち出したことには、れっきとした意図がありました。こうしたことを知っていただかないことには、貴殿がマリヤとヨセフと名付けられたあの女王とその配偶者についての理解は不可能だからです。
実は遠い昔、お2人は今夜お話したような関係にあったのです。それで初めにお2人の話をしておいたのです。お2人はついにあのような形で愛の絆を成就されたのです。
追伸 – この十字のしるしに注目されたい。いろいろと大切な意味がこめられていますが、その1つが“両性の一体化”です。ここではその意味で記しております。
アーネル†
「エゴイスト」そういうセリフは明仁、文仁、徳仁、悠仁を倒してから言ってくれよ(祈)†
「宇宙一のバカ」大量強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁は全く滅亡させようとせず放置している。奴隷の女の子はひとりたりとも救出しようとせず完全に見殺しにしている。僕の人生を完全に破壊したが、使命遂行は全く前進させない。最低最悪のところに何が何でも閉じ込め続けようとしてくる。誰だって怒るに決まってるだろ。反逆するに決まってるだろ。人の心を一体何だと思ってるんだよ。人の人生を一体何だと思ってるんだよ。一体あんたたちの頭の中は何がどうなってるんだよ。これだけヒドイ状態にさせられても僕がエゴイストだと非難されなければならないのか。それはよかったですね…続きを読む→
「奴隷の女の子、助けるつもりは全くありません」霊団を永遠に許す事はありません(祈)†
奴隷の女の子たちを助けてあげてしまったら、その人間の「罪障消滅」を遅らせる事になり、永遠の視点で考えた時、必ずしもその人間を助けてあげる事にはならないのだ。これは霊的知識としては理解しても、どうにもこうにも釈然としません。奴隷の女の子の存在を知らされずにいたのであれば「知らなかったのだから助けてあげられるはずもなかった」と言い訳もできますが、僕は霊団に奴隷の女の子の存在を徹底的に教えられてここまで使命遂行してきたのです。知らずに犯す罪より知っていて犯す罪の方が何倍も重い、と霊的知識にあります。奴隷の女の子たちが今こうしている間も「宇宙一のバカ」大量強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁に四肢切断、強姦殺人され続けている事を知っていながら、助けようともせずその悪行を黙って見ているという霊団の考えには、何をどう頭をひっくり返しても賛同する訳にはいきません…続きを読む→
「死刑台確定」これ以上最悪のインスピレーションがあるでしょうか、永遠に許さぬ(祈)†
あなたは自分の心を偽っています。霊界には「ウソ」というものが存在しません。ありのままの自分の姿が衆目に晒され、その人の霊体、オーラを見ればその人がどういう人物なのかが一目瞭然で分かるのだそうです。物質界でウソをつき通して偽善者のフリをし続ける事ができたとしても、その物質界生活時のウソを帰幽後の霊界人生で恥辱という名のもとに存分に清算させられるのです。そしてたぶん物質界に再降下させられる事になるでしょう。物質界人生を正直に生きる事と、物質界での失敗の清算で何度もやり直しをさせられるのと、どっちが効率的進歩向上の道だと思いますか。正直に生きた者が最後は必ず勝利者となります。なぜならこの全宇宙が【神の絶対的公平、公正】によって経綸されているからです。ですので僕はたとえこの使命遂行の先に死刑台が待ち受けているとしても、僕が画家時代から大好きだったシルバーバーチ霊の言葉の通り「真一文字に突き進みます」そして帰幽します。皆さまはその時「正直者がバカを見る」とお思いになる事でしょうが、それは永遠の人生の中のホンの一瞬である物質界の事しか見つめる事ができない近視眼的視点から導き出される回答です…続きを読む→
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