【12/24】私は霊力の証(あかし)を見た 奇跡の心霊治療 第16章 葬儀は本当に必要か

人間の死にまつわる儀式とタブーには民族によって色々とあって、見様によっては実に興味ぶかい。

たとえばタイのカレン族は葬儀の最中は子供たちを家の片隅に縛りつけておく。これは子供の魂が死者の肉体の中に入るといけないという信仰から来ているのであるが、そのためには特殊な紐で特定の場所に縛る必要がある。

オーストラリア東方のロイアルティ諸島の住民は死者が生者の魂を盗むという信仰がある。そこで、病人の死期が近づくと住民は埋葬予定地へ行っていっせいに口笛を鳴らし、病人の家まで列を作って口笛を鳴らしながら戻ってくる。これは、死ぬということはその人間の魂が死の世界へ誘惑されるということだから、口笛で呼び戻すことも出来るはずだという信仰から来ている。

中国ではいよいよ棺の蓋が閉められる時はまわりにいる人々が2、3歩棺から離れる。別の部屋に逃げ込む者もいる。これは、影が棺の中に入ると、この人も遠からず死ぬという信仰があるからである。葬儀屋は自分の影が墓穴の中に入らない位置に立つ。墓掘り人と棺をかつぐ人は、影が身体から離れないように、腰のまわりに特殊な布を巻きつける。

ベーリング海峡周辺のエスキモーは、死者の出た日はすべての仕事を休む。親戚縁者は3日間休む。その間はナイフのような刃物類は一切使用してはいけない。死者の魂を傷つけるという信仰から来ている。大声を出してもいけない。霊魂がびっくりするといけないからである。

ルーマニアにも似たようなタブーがある。死者が出たあとは鋭いナイフを使ってはいけないし、刃をむき出しのまま放っておいてもいけない。中国でも同じ信仰があり、ハシも使わない。7日間は手で食べることになる。

バルト海に臨むリトアニアの住民は死後3日目と6日目と9日目と40日目に死者に食事を用意し、入口のところに立って死者を呼び戻す。そして12分に食べ存分に飲んだと思う頃に帰ってもらう。その近くのプロイセン(プロシャ)にも似たような風習がある。

南インドのバタガス族には死者の罪を水牛の仔牛にのり移らせるという奇習がある。部族の長または長老の1人が死者の頭のそばに立って、その人間の犯した(と思われる)罪の数々を並べ立てる。

次にその死者の手を仔牛に当てがうとその罪のすべてが仔牛にのり移る。仔牛はその村から遠く離れたところに死ぬまで隔離される。その牛にはむやみに近づくことを禁じられる。ある意味では“神聖”と考えられるのである。

古代エジプト人の信仰は実に混み入っていた。彼らは“蘇生”ということを信じた。が、もともとは死を司る神オシリスの蘇生だった。つまりエジプト人はオシリスが蘇生することが自分たちの死後の存続の約束となると考え、神々がオシリスにしたのと同じことを死者にしてあげれば死者も永遠の生命を授かると信じたのである。

そこでオシリスの子アヌビスやホラスなどがオシリスにした葬儀と同じことを人間にもした。その結果がミイラの作製となった。ナイルの渓谷から発掘される無数の墓から蘇生のための秘法を記したものが出ている。

当時は1人1人の死者に同じことを行っていたことが明らかとなっている。彼らはオシリスが蘇生したように自分たちも蘇生し永遠の生命を得るのだと信じたのだった。

ひるがえって、われわれ英国人の葬儀はどうだろうか。私の手もとに『国教会祈祷書』というのがある。教会の儀式の文句や聖書からの抜粋をまとめたもので、一般の書店でも手に入るが、最も読まれていない本の部類に入るのではなかろうか。

それはともかくとして、その中に「死者埋葬次第」という項目がある。まず冒頭に「牧師心得」があって、本書の祈祷は「洗礼を受けざりし者、除名されし者、並びにこれに不自然なる行為をせし者(自殺者)には使用するべからず」とある。

いまその全てを紹介するわけにはいかない。非常に混みいっていて、しかも長い。ぜひ知りたい方は直接お読みいただくことにして、ここではその全体の主旨だけを述べておこう。といっても、それは私が改めて説くまでもなかろう。

死者の霊を安らかに眠りにつかせ、主イエス・キリストの仲介によって“復活の日”に無事永遠の生命を授かり神のみもとに行けるように、ということである。儀式には数曲の似通った讃美歌が伴う。祈祷も讃美歌も古めかしい言葉で表現されているが、言わんとしていることは明白である。

それは2種類に分類できる。1つは死者へのはなむけの言葉だ。この者は本当は悪い人間ではなかった。だから“われらの1人”として真摯に待遇してやるべきだ、と。“われらの1人”とは要するに“神の恩寵を受け永遠の生命を拾いし者”のことである。もう1つは直接神へ向かっての願いごとである。

儀式は死者が“選ばれし者”の1人として復活の日に神に見落されることのないようにとの配慮が見られる。これで大丈夫、といった感じである。すべてが規定どおりに行われると、教会の名簿の氏名の頭に印がつけられる。

もしもあなたが教会の会員でなかったら、つまり洗礼を受けていなかったら、あるいは、かつては会員だったが脱会していたら、その儀式は受けられない。自殺しても受けられない。他の宗派の会員でもいけない。この永遠の生命を給わるチャンスは“選ばれし少数”の者にしか与えられないのである。

さて、こうしたことは面白いと言えば面白いが、的はずれなことばかりである。死後への恐怖心と迷信から生まれることばかりである。水牛の仔牛へ人間の罪をのり移らせることなど出来るわけがないのと同様に、教会の手で洗礼を受け埋葬されたからといって永遠の生命を授かるわけがない。

すでに今日ではその理不尽さに気がついて教会に背を向ける風潮が出てきつつある。今どき永遠の断罪をまともに信じる人はほとんどいない。そして霊的な真理を求める人が増えている。霊的成熟のしるしである。そのうち全ての迷信が理性と置きかえられ、恐怖心が愛と置きかえられ、イエス・キリストの説いた本当の意味が理解される日が来よう。

これからは死者が出た時は葬儀屋を呼んでこう言えばよい。「この者の霊はいま身体だけを残してあの世へ逝った。このからだはよくこの者に尽くしたのだから手厚く葬ってほしい。儀式は何もしなくてよい。ただ、ていねいに焼却してくれればよい」と。

そう述べてから親族及び友人知人で簡単なパーティを開き、故人の生涯の労をねぎらい、最後にみんなで別れの挨拶をする。“さようなら”ではなく「ではまたね」の挨拶だ。出来ることなら霊能者を呼んで故人の霊が霊界で歓迎される様子を見届けてもらうのもいいだろう。喪服など着てはいけない。黒は禁物だ。あなたは今すばらしい第2の人生に旅立つ人を見送っているのだから。

「ゾウです」永遠の視点では勝者だが物質界生活中は最悪をやらされるという意味です(祈)†■2023年3月22日UP■
「ゾウです」永遠の視点では勝者だが物質界生活中は最悪をやらされるという意味です(祈)†
聖書には真実でない事がたくさん書かれています。人類史上最大の汚辱と言っても過言ではない「ニケーア会議」の時に様々なウソが聖書に書き加えられ、そのウソが世界中に広まっていき、イエス様の2000年の苦悩へとつながっていったのです。キリスト者はイエス様の御名を悪用して私腹を肥やす事を2000年にわたって続けてきました。特に中世ヨーロッパの暗黒時代が最悪で、キリスト教の要職についていた人間たちは、自分たちの地位、生活を守るために真実を公言する人間を徹底的に処刑してきました。キリスト教の人間が「主よ、主よ」とイエス様の御名を連呼する時、それはイエス様に対する最大級の侮辱であり、イエス様の悲しみをさらに増幅させ、積年の誤謬(ごびゅう)を払拭するどころかさらに加速させ続ける、イエス様をさらに十字架にかけ続ける許されざる呪いの行為となります。僕、たきざわ彰人からお願いしたい事としましては、間違いだらけの聖書を読むのはやめましょう。「シルバーバーチの霊訓」を筆頭とした正真正銘の霊関連書籍に目を通すようにしましょう。そして教会に足を運ぶのもやめた方がイイでしょう…続きを読む→
「メッセージだけを見て欲しい」霊団が物質界の邪悪に目をつぶろうとしているのです(祈)†■2023年3月15日UP■
「メッセージだけを見て欲しい」霊団が物質界の邪悪に目をつぶろうとしているのです(祈)†
しかしそれは「順番が逆だろ」まず奴隷の女の子たちを助けてあげて、それから交霊会だろ、と僕は思うのです。というのも、奴隷の女の子たちを完全に見殺しにした状態で僕という霊媒を霊団が使用して霊言を降らせたとしましょう。その降ってきた内容がさながら「シルバーバーチの霊訓」を彷彿とさせるような高尚な内容だったとしましょう。その霊団が降らせてきた内容が、人類を救うとか、世界を救うとか、人間は国家も肌の色も関係なく全員が神から神性の火花を賜って個的存在を与えられた、神を共通の親とした霊的兄弟、霊的大家族であり、戦争で敵国の兵士を撃ち殺す事は自分の家族を殺す事と同義であり愚かな事であり、したがって全世界が助け合っていかなければならないとか、そういう心を撃つ美しい内容だったとしましょう…続きを読む→
「我々の言葉を信じなさい」帰幽後に全ての埋め合わせがおこなわれるという意味です(祈)†■2023年3月8日UP■
「我々の言葉を信じなさい」帰幽後に全ての埋め合わせがおこなわれるという意味です(祈)†
2000年前のイエス様が物質界に降下しておこなった仕事はもちろん「霊的知識普及」であり「神のご意志遂行」であり、それが現在も「スピリチュアリズム普及」というカタチで継続しているのです。このスピリチュアリズム普及の霊界での総指揮官はイエス様です。どうか霊関連書籍でお勉強して頂きたいです。そのイエス様が、一体何がどうなっているのか僕などというよく分からない画家に「怒涛の連続顕現」で霊的仕事を猛烈にお願いしてきたのです。僕は激しく拒絶しましたが1週間近くイエス様に何とも言えない表情で怒涛にお願いされ続けて僕は根負けしてしまい、この使命遂行をやる“ハメに”なってしまったのです。それから10年(霊性発現が2012年6月、隔離フィールド発動(事実上の使命遂行開始合図)が2014年7月ですから正確にはほぼ9年という事になるでしょうか)僕はずっとそのイエス様と約束した仕事を続けてきたのです…続きを読む→

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Posted by たきざわ彰人(霊覚者)祈†