私のところを訪れる人のほとんどが、どうしてよいのかわけがわからなくなっている。言うことが支離滅裂でつじつまが合わない。情緒が不安定である。その根源にあるものは、これまで度々指摘したとおり、幼少時代からの宗教的思想のゆがみである。
そこで私の治療によって痛みが取れてラクになると色々と質問しはじめる。次に紹介するのは私が患者からいちばんよく受ける質問とそれに対する私の答えである。
「私はなぜこんな目に遭うのでしょう。」
こんな目に遭うという言い方のウラには、その災難を何かのバチと受けとめている心理が働いている。しかし事実はそうではなく、その原因はみずから呼び寄せている場合が多い。信念のない人間には迷いとイライラがつきまとう。それだけで潰瘍が生じることもある。
ではその潰瘍は迷いとイライラのバチかというと、それは観方1つだ。バチが当ったのではなく、イライラの心が潰瘍を生じることを知らずに間違った心の姿勢を続けたその結果にすぎないと受けとめれば、単なる因果律の働きにすぎない。
人間の悩みの大半は、存外、人間みずからが引き寄せているものだ。つまり悩みとして受けとめているにすぎない。実際は悩みでも何でもないことなのだ。といって私は人間に悩みや苦しみはないと言っているのではない。確かにある。がそれは悩みではなくて神が与える試練なのだ。つまりそれにどう対処するかであなたの真価が問われる重大な時なのだ。
神は人間を深みに連れて行くことがある
おぼれさせようとするのではない
魂の洗濯をさせるためだ
これは私がよく患者に引用して聞かせる言葉である。挫けてはいけない。勇気をもって事に当ることだ。なぜこんな目に、という疑問をもつということは、あなたが真理を求めようとしはじめた1つの表れでもあるのだ。
「癇癪をおこすのはいけないことでしょうか。」
怒りは神学でいう7つの大罪つまり致命的な罪悪の1つに数えられている。あなたにとって致命的という意味である。これは生理的にも致命的であることがわかっている。腹を立てるとアドレナリンというホルモンが多量に血液中に流れ込む。
すると脈拍が上がり、血圧が上がり、凝血度が上がる。そして、こんなことがあまりひんぱんに繰り返されると、あなた自身も天へ上がる – 血栓症か脳出血で。冷静を失うと運命のコントロールを失い、友を失い、健康を失い、そして生命まで失いかねない。癇癪の代償は少し高すぎないだろうか。
「菜食主義にすべきでしょうか。」
人間は動物ではない。動物以上の存在であり、動物を庇護すべき立場にある。人間のエゴイズムから動物を食糧とするのは間違っている。私はそう信じるのである。このことは同時に娯楽のための狩猟、医学の名のもとに行われる動物実験、食用のための飼育も許されるべきことでないということである。
もしもあなたが私のこの考えに賛成されるのであれば、あなたは肉食をやめて菜食中心にすべきである。もし賛成されなくても、霊的に成長された時になるほどと思われるはずである。どちらでもない、よく分からない状態であれば、1度屠殺場へ行って現場をご覧になることである。はっきりとお分かりになるはずである。
「神の存在を信じますか。」
私は信じる。どこを見ても自然界には見事な意匠(デザイン)がある。その全てを見ることは不可能であり、これからのちも不可能であるが、わずかではあっても、これまでに見ることを得たかぎりでも、ただただ驚異というほかはない。
その見事なデザインがあるからには、それを拵えたデザイナーがいるはずである。それをゴッドと呼んでもいいし、アラーと呼んでもいいし、大霊と呼んでもいいし、生命力と呼んでもいい。『ガリバー旅行記』で有名なスイフトの次の言葉に私も賛成である。
「アルファベットの寄せ集めによって哲学の大論文が出来るわけがないのと同様に、宇宙が原子の偶然の集合によって出来あがったとは信じられない。」
「心配することはいけないことですか。」
心配の程度があなたの信念の欠如の程度を表わす。心配の念は判断力を曇らせ、身体機能を鈍らせ、不審と不機嫌の雰囲気を作る。よく寝られない。寝起きが悪い。その不愉快の雰囲気はやがてまわりの人へも伝染していく。
問題が生じたらじっくりと考え、分析し、あなたなりに最善を尽くし、やるだけのことをやったら、あとは何も考えず全てを背後霊にまかせることだ。あとのことはあなたにはどうしようもないからだ。
「どこかの慈善団体に加入すべきでしょうか。」
慈善事業を目的とする団体に加入すればもう個人的な善意の行為をしなくてもいいということにはならない。確かに慈善団体はコンサート、舞踊会、宝くじ、等々の仕事を通じて大いに人の為に奉仕しているが、その組織力の威力が個人的な小さな善意の施しを無意味であるかに思わせている点も見逃せない。
どんな小さな施しでもよい。心のこもったものを寄付するということでよい。私はこの施しの精神は人生哲学の中において大切な意味をもっていると信じている。日常生活における“当然の行い”の一つとすべきだと思う。「施すは受くるより幸いなり」という聖書の言葉を知らぬ者はないが、自分みずから何かを人に施すべきであることを、みんな忘れてはいないだろうか。
「アルコールはいけないでしょうか。」
アルコールも一種の麻薬である。テレビのコマーシャルで宣伝されてるとか、自由に手に入るからといって、それで飲むことが正当化されると思ってはいけない。一種の麻薬であるから中毒になる危険性がある。
出来ることならアルコール類とは一切縁を切るほうがいいが、どうしてもダメという方は、ほどほどにということを心がけることである。本当の寛ぎとか気晴らしは霊的な修養から来るもので、麻薬や薬品、アルコール等にたよるのは邪道である。
「たばこはやめるべきでしょうか。」
もちろんである。たばこの害は科学的にもはっきりとした結果が出ていて、百害あって一利なしのいちばんの見本である。吸い込んだ煙が気管支から肺へかけてどんな影響を及ぼしているかを1度見たら、いっぺんに気分が悪くなり吸うのが怖くなるはずである。
そのことならよく知っている。命を縮めることも知っている。肺を傷めることも知っている。金のムダであることも知っている。でも、だからといってたばこをやめようとは思わないという方は、吸えばいいのである。知らずにやっているのならムリにも止めるが、百も承知の上なら自由にやるがよろしい。所詮は自分自身の問題なのだから。
「磁気療法や信仰療法は心霊治療とどこが違うのですか。」
治療法には大きく分けて磁気療法と心霊療法の2つがある。磁気療法は治療家自身の身体に蓄積している磁気エネルギーを注入することによって患者の衰弱した身体を回復させるもので、従ってあまり多くの患者を治療すると疲労を覚える。エネルギーの蓄えが無くなるわけである。
実はこの磁気による影響は一般の人もいろんな形で体験しているはずである。馬丁が興奮しているサラブレッドを鎮めるのも、看護婦が深夜に病棟をまわって患者に声をかけたり枕を直してあげたりしたあと、患者が心の落着きを感じてよく寝られるのも、あるいは、わいわい騒いでいる教室に先生が入ってくると水を打ったように静まり返るのも、医者が回診してベッドのわきに来ただけで病状が好転するといったことも、ある庭師が手入れすると不思議に生育がよくなるといったことも、あるいはその人に会っただけで心の重みが軽くなるといった体験も、みな、その人のもつ磁気力の影響である。
そういう人はみな例外なく強烈な個性の持ち主である。ただしその個性を支えるものとして、楽天的精神構造と信念がある。積極性と楽天性と信念とが相まって強力なオーラを作り出し、そのオーラが人間はもとより動物や植物、時には偶然と思われる出来ごとの展開にさえ影響を及ぼす。
その人に会うと、会っている間だけはその人の徳性を身にまとう。すると当然その徳性はその人の魂に影響を及ぼす。魂が洗われ、身体との自然な調和が取り戻され、不思議に元気が出てくる。一種の磁気治療を受けたのと同じことになる。
いわゆる信仰治療家も実はこの磁気の作用を大いに活用している。元来信仰治療家も強力な個性の持ち主である。そして人間の身体に自然治癒力つまり自分みずから治す力が具わっていることを知っているので、まず患者にそのことを認識させる。
さらにその強力な個性の力で患者を何となく良くなったような気持にさせ、その調子でどんどん良くなっていくという信念をもたせる。その信念が信仰心にも似た自信を生む。この自信というのが実はすごい威力を発揮するのである。
心身症なども改善し、あるいは完治させる。結局信仰治療家の武器はまず治療家自身の強烈な個性であり、次に患者にもたせる“治る”という自信であり、そしてその自信を生む温床となる感動的ムードである。
私は信仰治療家ではない。磁気療法も用いない。もちろん磁気が作用していないことはない。心理的な作用もあるだろう。私のところに来ただけで良くなったり、極端な場合は来る途中で治ったりすることがあるのをみても分る。
が私の場合の磁気作用は私の霊的エネルギーを受け易い状態に誘導する程度の作用であって、それ自体が治癒をもたらすことはない。私はあくまで心霊治療家なのである。
私たちの身のまわりには私が“生命エネルギー”と呼んでいる莫大なエネルギーが潜在している。私が、と言ったが、最初にその用語を用いたのはバーナード・ショウで、私はいい呼び方だと思う。特別なエネルギーではない。春になると木々が芽を出し花を咲かせるそのエネルギー。
四季をめぐらせ、秋になると作物や果物を実らせるエネルギー。精子と卵子の結合から赤ん坊となり1人前の成人へと成長させるエネルギー。そうした自然界の隅々まで動かしているエネルギーとまったく同じものが病気を治し元気を回復させるのである。
病気の人はそのエネルギーを必要としている。全身にまんべんなく注ぐ必要がある人もいるし、患部に集中的に注ぐ必要がある場合もある。いずれにせよ、その注入には道具がいる。コンデンサーのようにエネルギーを集積し、トランスのように波長を患者に応じて変化させ、それを患者の全身、時には器官や関節などに集中的に照射する。
その道具は機械ではなく、私のような人間である。生まれつきコンデンサーやトランスのような働きを具えた人間であり、そう多くはいない。それだけに極めて貴重であり、重大な任務を背負っていることになる。だから、こうした才能に恵まれた人はつとめて精進する必要があるが、同時にその人間を最大限有効に活用するために、それ専門の背後霊(スピリット)が付いている。
この場合のスピリットは、霊界での生活体験の中で病気に苦しむ地上の人間を救うという使命を帯びて一時的に私のような治療家を援助する。それがそのスピリットの霊的向上にとっての必須体験となるわけである。といっても、一時の思い付きでそうするのではない。
実際には治療家が地上に生を享ける以前から、あらかたの準備は出来ているのである。そしていよいよ地上へ生を享けた瞬間から人間としての生長を見守り、治療としての必要な体験を積ませ、これでよしとみた時期から治療力を発現させる。つまり指導霊(ガイド)なのである。
患者によってはいちばん悪い箇所をいきなり治療できないことがある。全身の衰弱がひどくて治療に耐え切れないからである。そこでスピリットは治療の手順を変え、患部はそのままにしておいて、まず全身にエネルギーを注入する。
これで新陳代謝が活発になり動きがラクになる。これを二、三回繰り返すうちにすっかり体力が回復してくる。その段階でいよいよ患部に向けて、ほんのわずかな時間だが、集中的にエネルギーを照射する。それであっさりと治る。
その点信仰治療家は患者自身の信念や自信で治すのであるから、そういう信念や自信をもたせるように、治療家自身をはじめとして治療室全体のムードを盛り上げるように飾り立てる必要がある。
たとえば治療室として教会のような“聖なる場所”を選び、香を焚き、大きなローソクを並べ立て、“聖なる音楽”を流し、治療家は何やら神秘的なムードのする衣服をまとい、九字を切ったりして仰々しい儀式を行う。
私はそうしたこととは一切無縁である。明るい普通の部屋でワイシャツ姿で治療する。私にとって場所はどこでもいいのである。請われれば病院でも自宅でも、その人の都合のいいところへ出向いて治療してあげる。
治癒エネルギーは私から出るのではない。霊界の医師が操作して、私の身体を通して患者へ注入する。私はその通路にすぎない。通路にすぎないから、治療によって私から奪われるものは何もない。
むしろ私の身体を通過する際に少しずつエネルギーの“おこぼれ”が残っていくらしく、1日の治療 – 20人も治療することがある – が終ったあと、疲れが残らないどころか、逆に元気はつらつとなるのだ。
「完全に離れさせる」僕を使命遂行から離す、危機を回避させるという意味です(祈)†
奴隷の女の子たちの悲劇の惨状の認知、そして霊的知識普及活動がだいぶ進行した事に対する、霊団の一定の評価の言葉と受け取っていいのかも知れません。もっと突っ込んで言えば「宇宙一のバカ」大量強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁の邪悪の正体を公言する仕事は、霊界側からすれば「どの霊能者にお願いしてもやってくれなかった仕事」なのでしょう。それを僕がやってくれたので感謝しているという意味もたぶん含まれているのではないでしょうか。もっとも「そう言うセリフは結果に到達させてから言ってくれ」と僕は言いたいですが。霊界上層界から霊眼で物質界を見下ろした時、今まで「宇宙一のバカ」大量強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁の洗脳に完全にやられていた多くの人間が真実に目覚めていく様子がつぶさに観察できるのでしょう、それで「感謝」という言葉が出てくるのだと思いますが、物的肉眼には全く何の変化も映りません…続きを読む→
「無限なるものを有限なるもので判断してはいけません」苦しみが続くという意味です(祈)†
僕たち人間は霊的身体(幽体、霊体等)をまとって霊界で生活している状態が通常であり、霊界で進歩向上を果たすための人生勉強の場、もっと言うと苦しい、悲しい、ヒドイ目に遭わされて心を魂を鍛える場として物質界は存在し、現在の自分に足りないものを自覚して自ら志願して苦難の人生を体験するために物質界というトレーニングセンターに降下してきているのです。物質というものは本来が腐食性のものであり、物質そのものには存在はありません。霊という生命力によって形態を維持しているだけのものであり、霊が引っ込めばたちまち分解して地球を構成する元の成分(土くれ)に帰っていきます。死体が腐敗していくのを見ればそれが一目瞭然でしょう。しかしそれは衣服が腐っているだけで本人は霊的身体に着替えて意気揚々としているのです…続きを読む→
「続けられなくさせられる」霊的使命遂行を続けられなくさせられるという意味です(祈)†
人の夢を破壊して、全然違う人生をやらせて、あげくの果てに何の結果にも到達せず元に戻れだと?だったら時間を返せ。お前らのちょっかいのせいで描けるはずだったのに描けなくさせられた作品の責任を取れ。何より奴隷の女の子を見殺しにする事を決定した、それを納得させる説明をしてみろ、できるものならやってみろ。おかしい、コイツら(霊団)完全におかしい。しかし霊団がこれほどおかしい事を言ってくるその理由は、それくらい僕に危機が迫っているという事の裏返しでもあるのです。普通なら自分を守ってくれているのですから感謝すべきなのでしょうが、僕は「帰幽カモン」です。この狂った腐った物質界に1秒たりとも残っていたくない男です。僕の生き死にはどうでもいいから仕事を達成させろよ!…続きを読む→