書籍データを完成させてみたところで、そして復刊が承認されてみたところで復刊実現は15年後という絶望的状況の中「イエスの少年時代」の最終校正を終えました。イヤになるくらい修正箇所がありました。つまり最終校正をやらずに書籍データを作成してたらヤヴァかったという事です。

全然復刊につながらない作業ですのでモチベーションを維持するのが至難の業ですが、これから何とか「復刊者コメント」を撃ってまずはAmazonペーパーバックデータとして完成させます。復刊はできませんので電子書籍データ作成は後回しです。

まずは校正刷りを注文し、それを同梱してあるところに手紙を出します。その校正刷り書籍が手紙送付者の心に響いてお返事が頂ける事を期待してわざわざココまでやるのです。一体僕はいつまで脱出につながらない作業を続けなければならないのでしょうか。恐るべき絶望感が襲ってきます。

「モーゼスの霊訓 上」OCR変換テキストの見直し45%完成中。こちらの作業も急ぎます。この上中下巻は復刊させるつもりの書籍ですのでテキストをしっかり揃えないといけません。地獄の作業がどこまでも続きます全然終わりが見えない。

そしてもう書籍入手、スキャンは終了しているはずなのにまたしても書籍を注文しています。その書籍も復刊できないと思われるので、ただテキスト化を完了させてWordPressにUPするだけとなります。つまり脱出に全くつながらない作業という事になり、やればやるほど僕は苦しい、絶望感が無限に襲い掛かってくるという事になります。

どうやってもこの絶望感を心から取り除く事ができない。克服方法が全くない。もう祈るしかない状況ですが、何しろ僕は霊団に反逆しまくってますので僕の祈りは100%聞き入れられません。それがさらに絶望感を増幅させています。自業自得と言われると言い返せなくて苦しくなる。

書籍のスキャンを開始してから2年が経過しました(2022年5月スタート)これだけ猛烈怒涛に作業しているのにまだ1冊も復刊できていない。このハードルの高さは異常だ、おかしすぎる。

使命遂行と全く関係ない意味不明のところに延々閉じ込められて作業時間が削られている事も復刊できていない要因です。脱出できれば一気に作業時間が捻出できて展望が開けるというのに、なぜ霊団は全力で閉じ込めようとするのか。1億%意味不明。
「何のために霊能やってるんだ」物的手段に訴えるな、霊団に従え、という意味です(祈)†■2024年5月15日UP■
「何のために霊能やってるんだ」物的手段に訴えるな、霊団に従え、という意味です(祈)†
この地球、この宇宙は全て【神】のものです。今僕たちがまとっている肉体さえ僕たちのものではありません。全て神からの賜りものであり、僕たちの所有物などというモノは存在しません。物的金銭を蓄積する事ほど愚かな事はありません。肉体は100%朽ち果てるようにできているのですから人間は自動的に帰幽して物質界を離れます。その時、霊界に物質は持って行けません。100兆円稼いでも1円も霊界に持って行けないのです。物質界での金銭の蓄積は全く無意味である事を物質界生活者が理解するのはまだ1000年以上先の話かも知れません。物質界生活中に僕たちがやるべき事は「心を鍛える」という事です「自分を磨く」という事です。それが帰幽後の霊界生活に役立つのであって、霊界人生に何の役にも立たないおこないは、少なくとも僕、たきざわ彰人のブログをご覧の皆さまには慎んで頂きたい、その悟りの壁を突破して頂きたいと願わずにはいられません…続きを読む→

↑こちらのブログで近藤先生の思念と思われるインスピレーション「霊団の言う事を聞きなさい 別の方法で出られる」を紹介しましたが、この先生の言葉のみが現時点の僕の脱出の願望を叶える言葉となります。霊団は僕の希望を叶える事はひとつも言ってきませんので。

果たして「別の方法で出られる」日が来るのか。たぶん僕の予測では老衰で帰幽するまで物質界に徹底的に閉じ込められて、ようやく帰幽できたら「ホラ脱出できたでしょ、言った通りになったでしょ」っていうストーリーだと予測してまして、つまり最後まで閉じ込められるという意味です。それは認めない。最後の1秒まで脱出をあきらめない。脱出方法が消滅しているのにあきらめない。そう思わなければ生きていけない(祈)†
「簡単に推し測ってはいけません」僕が殺されるのはほぼ決定的、問題はその先です(祈)†■2022年3月9日UP■
「簡単に推し測ってはいけません」僕が殺されるのはほぼ決定的、問題はその先です(祈)†
僕の物的肉眼では全体像が見えませんので、ごく一部だけを見ている僕の意見より全体を俯瞰で眺める事のできる霊団の判断の方が最終的に正しいという事を知識として理解していますので、現在の僕には使命遂行が成功していないように映るとしても、より長いスパンで見た時に、アキトくんの使命遂行によって、あの当時は動きがなかったが、あの活動によって十分に“タネ”が蒔かれ、そのタネがアキトくんの帰幽後に芽を出し花を咲かせ、結果的に「宇宙一のバカ」強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁の滅亡、物質界の邪悪の消滅、奴隷の女の子の強姦殺人容認システムの破壊へとつながったのだ。という風になるのかも知れません…続きを読む→
「みんなイエス様を支持しています」それは当然。霊界側が僕の小我を支持する訳ないでしょ(祈)†■2022年9月14日UP■
「みんなイエス様を支持しています」それは当然。霊界側が僕の小我を支持する訳ないでしょ(祈)†
これは物質界のお話ではありませんよ、霊界上層界のお話ですよ。要するにイエス様側近の天使の方々がイエス様の導きの方向性を支持しているという意味でしょうが、それは別に当たり前の事であり、僕も霊団に対して怒り憎しみを表明してこそいますが、イエス様が間違っているとか主張するほど愚か者ではありません。僕の小我の感情が大局で見た時に間違っているのは火を見るより明らかな事であり語るまでもありませんので、このインスピレーションに対する反論などみじんもありません。ただムカつくムカつかないで言ったらムカつくんですよ。まだ当分この最悪の状況をやらされると思ったらどうしても頭にくるんですよ…続きを読む→

1917年12月20日 木曜日

さて、吾々はいよいよ第2界へ来た。そして最も多く人の集まっている場所を探しました。と言うのも、かつてこの界に滞在した頃とは様子が変っており、習慣や生活様式に関する私の知識を改めざるを得なかったのです。貴殿にも知っておいていただきたいことですが、地上に近い界層の方がはるか彼方(かなた)の進化した界層に較べて細かい点での変化が激しいのです。

いつの時代にも、地上における学問と国際的交流の発展が第2界にまで影響を及ぼし、中間の第1界へはほとんど影響を及ぼしません。また死後に携えてきた地上的思想や偏見が第2界でも色濃く残っておりますが、それも1界また1界と向上して行くうちに次第に中和されて行きます。

かなり進化した界層でもその痕跡(こんせき)を残していることがありますが、進歩の妨げになったり神の子としての兄弟関係を害したりすることはありません。第7界あるいはそれ以上の界へ行くとむしろ地上生活の相違点が興味や魅力を増すところの多様性(バラエティー)となり、不和の要素が消え、他の思想や教義をないがしろにすることにもならない。

さらに光明界へ近づくとその光によって“神の御業の書”の中より教訓を読み取ることになる。そこにはもはや唯一の言語を話す者のための1冊の書があるのみであり、父のもとにおける一大家族となっております。

それは地上のように単なる遠慮や我慢から生まれるものではなく、仕事においても友愛においても心の奥底からの協調関係から、つまり愛において1つであるところから生まれるものです。

うっかりしていました – 私は第2界のことと、そこでの吾々の用事について語るのでした。そこではみんな好きな場所に好きなように集まっている。同じ民族の者といっしょになろうとする者もいれば、血のつながりよりも宗教的つながりで集まる者もいました。

政治的思想によってサークルを作っている者もいました。もっぱらそういうことだけで繋がっている者は、少し考えが似たところがあればちょくちょく顔を出し合っておりました。

たとえばイスラム教徒は国際的な社会主義者の集団と親しく交わり、帝国主義者はキリスト教信仰にもとづく神を信仰する集団と交わるといった具合です。色分けは実にさまざまで、その集団の構成分子も少々の内部変化があっても、大体において地上時代の信仰と政治的思想と民族の違いによる色分けが維持されていました。

それにしても、吾々第10界からの使者が来ることはすでにその地域全体に知れわたっておりました。と言うのも、この界では地上ほど対立関係から出る邪心がなく、かなりの善意が行きわたっているからです。

かつて吾々が学んだことを今彼らも学んでいるところで、それで初めのうち少し集まりが悪いので、もし聞きたければ対立関係を超えていっしょに集まらねばならぬことを告げた。吾々は小さなグループや党派に話すのではなく、全体を1つにまとめて話す必要があったからです。

すると彼らは、そう高くはないが他の丘よりは小高い丘の上や芝生のくぼみなどに集結した。吾々は丘の中腹に立った。そこは全員から見える位置で、背後はてっぺんが平たい高い崖(がけ)になっていた。

吾々はまず父なる神を讃(たた)える祈りを捧げてから、その岩のまわりに腰を下ろした。それからメンバーの1人が聴衆に語りかけた。彼はこの界のことについて最も詳しかった。本来は第7界に所属しているのであるが、この度は使命を受けてから、道中の力をつけるために第10界まで来て修行したのです。

彼は言語的表現においてなかなかの才能を有し、声を高くして、真理についての考えが異なるごとく服装の色彩もさまざまな大聴衆に向かって語りかけた。声は強くかつ魅力に富み、話の内容はおよそ次のようなものでした。

かつて地上界に多くの思想集団に分裂した民族があった。そうした対立を好ましからぬものと考え、互いに手を握り合うようにと心を砕く者が大勢いた。この界(第2界)に“オレの民族、オレの宗派こそ神の御心に近いのだ”と考える、似たようなプライドの頑迷さが見うけられる。

吾々がこうして諸君を1個の民族として集合させ、神からのメッセージを伝えるのも、これよりのちの自由闊達(かつたつ)にして何の妨げもない進化のためには、まずそうした偏狭さを棄て去ってしまわねばならないからである、と。

これを聞いて群集の間に動揺が見られた。が、述べられたことに何1つ誤りがないことは彼らにも判っていた。

その証拠に彼らの目には、吾々のからだから発する光輝が彼らをはるかに凌(しの)いでいることが歴然としており、その吾々もかつては今の彼らと同じ考えを抱いていたこと、そして吾々が当時の考えのうちのあるものはかなぐり捨て、あるものは改めることによって、姿も容貌も今のように光輝を増したことを理解していたからです。だからこそ静かに耳を傾けたのです。

彼はいったんそこで間を置いてから、新たに彼の言わんとすることを次のように切り出しました。

「さて、主の御国への王道を歩んでおられる同志の諸君、私の述べるところを辛抱強く聞いていただきたい。かのカルバリの丘には実は3つの十字架があった。3人の救世主がいたわけではない。救世主は1人だけである。同じ日に3人の男が処刑されたが、父の王国における地位(くらい)が約束できたのは1人だけであった。

王たる資格を具えていたのは1人だけだったということである。3人に死が訪れた。そのあとに憩いが訪れるのであるが、3人のうち安らかな眠りを得たのは1人だけだった。なぜであろうか。

それは父が人間を自己に似せて創造した目的、および洪水のごとき勢いをもって千変万化の宇宙を創造した膨大なエネルギーの作用について理解し得るほどの優しき哀れみと偉大なる愛と聖純なる霊性を身につけていたのはイエスのほかにいなかったからである。

あまりの苦悩に疲れ果てた主に安らかな眠りを与えたのには、邪悪との長き闘いとその憎悪(ぞうお)による圧倒的な重圧の真の意味についての理解があったからであった。主イエスは最高界より物質界へ降りて差別の世界の深奥(しんおう)まで究(きわ)められた。

そして今や物的身体を離れて再び高き天界へと昇って行かれた。そのイエスが最初に心を掛けたのは十字架上でイエスに哀願した盗人のことであり、次は金貨30枚にてイエスを売り死に至らしめたユダのことだった。ここに奇妙な三一関係がある。が、この3者にも、もう1つの三一関係(神学上の三位一体説)と同じく、立派に統一性が見られるのである。

それは、盗人も天国行きを哀願し、ユダも天国へ行きたがっていた。それを主が父への贈物として求めそして見出した。が、地上へ降りてしかもそこに天国を見出し得たのは主のみだった、ということである。

盗人は死にかかった目で今まさに霊の世界への入口に立てる威風堂々たる王者の姿を見てはじめて、天国は地上だけに存在するものでないことを悟った。一方の裏切者はいったん暗黒界への門をくぐったのちに主の飾り気のない童子のごとき純心な美しさを見てはじめて天国を見出した。

それに引きかえ主は地上においてすでに天国を見出し、父なる神の御国がいかなるものであるかを人々に説いた。それは地上のものであると同時に天界のものでもあった。

肉体に宿っている間においてはその心の奥にあり、死してのちは歩み行くその先に存在した。つまるところ神の御国は天と地を包含していたのである。御国は万物の始まりの中にすでに存在し、その時点において神の御心から天と地が誕生したのであった。

そこで私は、人間1人ひとりが自分にとっての兄弟であると考えてほしいと申し上げたいのである。カルバリの丘の3つの十字架上の三人三様の特質に注目していただきたい。つまり完全なる人物すなわち主イエスと、そのイエスが死後に最初に救った2人である。そこにも神の意志が見出されるであろう。

つまり上下の差なく地上の人間のすべてが最後は主イエス・キリストにおいて一体となり、さらに主よりなお偉大なる神のもとで一体となるということである。そこで、さらに私は諸君みずからの中にも主の性格とユダの性格の相違にも似た多様性を見出してほしいのである。

そして、かく考えて行けば父なる神の寛大なる叡智(えいち)によって多様性をもたらされた人類がいずれは再びその栄光の天国の王室の中にて一体となることが判るであろう。何となれば神の栄光の中でも最も大いなる栄光は愛の栄光であり、愛なるものは憎しみが分かつものを結び合わせるものだからである」

「だいたい2まで書けています」新規の霊言が霊界側で2巻分書き上がっているようです(祈)†■2023年11月22日UP■
「だいたい2まで書けています」新規の霊言が霊界側で2巻分書き上がっているようです(祈)†
「イエスが全部おこなうから」これは僕という霊の道具を使用しての霊的使命遂行の全仕事をイエス様がおこなっているという意味ですが、皆さまにくれぐれもお間違えのないようにして頂きたいのは、イエス様は「スピリチュアリズム普及の総指揮官」であり、個的形態をまとって物質圏付近に降下などできるはずもないはるかはるか向上を果たした超高級霊のお方です。そのイエス様が僕などというグズるお子ちゃまの面倒を見るためにアレコレ手を焼く事は絶対にありません。全体を計画し、想像もつかないほどの大人数の部下(天使)を従えて、指示を与えて仕事を推進するのであり、イエス様が直々に手を動かして仕事をするという事は有り得ないのです。しかし「スピリチュアリズムの真髄」の中に、イエス様が天使の大軍勢を従えて霊媒マッカロウ氏のところまで降下してこられ、実際に霊言を語ったという事が紹介されています。ですのでイエス様が僕という霊媒を使用して霊言を語るという可能性は絶無ではないのかも知れませんが、限りなくゼロに近いでしょう…続きを読む→
「目に見えぬ者によって動かされている、その事実を知る事です」僕もそうありたいと思ってますよ(祈)†■2023年11月8日UP■
「目に見えぬ者によって動かされている、その事実を知る事です」僕もそうありたいと思ってますよ(祈)†
この間部詮敦氏という霊能者が時代を抜きん出たずば抜けた人格者だったという事が分かるのです。近藤先生がこれから物質界生活中になされる仕事の重大さをいち早く見抜き、大学在学中に何と毎週近藤先生のもと(キャンパス内)に足を運んであれこれ教えておられたそうなのです。実の子でもないのにまるで自分の息子のように面倒を見ていたという事です。そして近藤先生が書籍の中で予測で書いていた事ですが、間部詮敦氏は若き日の近藤先生の守護霊および指導霊の存在が当然霊視で見えていたはずですが、それを結局一言も言わず帰幽したのだそうです。どういう事かと言いますと、近藤先生にはその仕事の重大性からとてつもない高級霊団が付いていた事が容易に想像できるのですが、それを若き日の近藤先生に伝えてしまったら近藤先生がのぼせ上ってしまう(霊団に言わないようにクギを刺されていたという事もあるかも知れませんが)ので間部詮敦氏は近藤先生の霊団の事を一言も言わなかった。これはとてつもない事だと思うのです。見えてるんだからフツー言うだろう。隠し通したって本当にスゴイ…続きを読む→
「懐疑の念は消え」僕の霊団に対する憎しみが消えるという意味、僕だってそうあって欲しいですよ(祈)†■2023年10月25日UP■
「懐疑の念は消え」僕の霊団に対する憎しみが消えるという意味、僕だってそうあって欲しいですよ(祈)†
物理霊媒の場合は単純にエクトプラズム量が多い人間を霊媒として使用し、その人間の性格、霊格は関係しないという事なのだそうですが、霊言霊媒という事になるとその霊媒の人間性、人格、霊格が降らせる霊言のクオリティに大きく影響するのだそうです。つまり霊媒の霊格が低ければ降らせる霊言も程度の低い、クオリティの落ちたものになる、イヤ、そもそも支配霊とその人間との間に霊格の差がありすぎて融合する事ができず霊媒として使用できないという事もあります。逆に霊媒の霊格が高ければ高いほど支配霊は語りたい事を自由に語れるようになり、霊言のクオリティが上がるという事になります。支配霊をリーダーとした交霊会運営のための霊団側は高いレベルの霊言を降らせる準備が常に整っています。しかしそのクオリティを維持しながら物質界に霊言を降らせる事は至難の業で、霊媒側の受容能力、信頼感の欠如、霊格の低さ等が障害となって、だいたいにおいて霊側が犠牲を強いられる事になり、当初予定していたものよりクオリティの低い霊言を降らさざるを得なくさせられるのが常のようなのです…続きを読む→

幽体離脱時にヨハネ氏のお姿の顕現こそありませんでしたがヨハネ氏の存在が存分に感じられる状態でメッセージを受け取りました。現在の僕の状況が物質界生活時のヨハネ氏に近いという事なのかも知れません。詳細は長文ブログのタイミングで書く事になるかも知れませんが平たく言えば「危機回避」で僕を閉じ込めているという事のようです。

僕は聖書を全く読んだ事がありませんので知りませんが、イエス様の磔刑後、ヨハネ氏も死刑1歩手前まで追い詰められてかろうじて死刑を回避し、それ以後は隠れるようにひとりで過ごした、僕が幽体離脱時に拝した映像はそういう感じでしたが、僕の使命遂行になぞらえた映像であってヨハネ氏の地上時代とは関係ないかも知れません。

「汝の見ることろを書に記せよ」パトモス島にいた時にヨハネ氏が天使にこのように告げられて書籍を書き残し、それを仲間に託したそうですが、僕の残された物質界生活もこういう感じになるのかも知れません。「宇宙一のバカ」大量強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁の事は完全にホッポラカシという事です。そこだけが永遠に釈然としませんが。

「イエスの少年時代」最終校正75%完成中。そして案の定というか何というか、もう書籍入手は終わったはずなのにまた1冊注文してしまいました。到着次第またスキャンに入ります。この書籍も復刊できないものと思われますが、テキスト化だけは完成させてWordPressにUPしたいと思います。

ヨハネ氏の映像のような人生をやらされるというのか。最低最悪。こんな煮え切らない人生は耐えられない。何かしらの結果に到達させてくれよ。全てがグダグダの中途半端。モノスンゴイやだ(祈)†

「イエスの少年時代」最終校正はとっくに終わっているのですが、あるところにAmazonの校正刷り書籍を同梱して手紙を出そうとしている関係で再び最終校正をしているのですが、まだ修正箇所がある。この最終校正という作業も絶望感を増幅させるなぁ。しかしやるしかない。

以前も書きましたが、どうガンバっても復刊できそうな冊数は10~17ほどになりそうで、その程度の冊数では全く脱出につながらない事は確実で、つまりこの復刊の作業をやっても僕的に全然意味がないという事になってしまうのですが、それを言ったら霊的使命遂行が完全にブッ飛んでしまいますので、自分を捨ててやるしかないという開き直りの心境です。

なぜDreamworkをやめさせられたのか、なぜ絵を描けなくさせられたのか(まぁ十分描いているといえば描いてますが)なぜこんな人生をやらされねばならないのか。どれだけ考えても納得できる回答は見いだせない。ヘタしたら帰幽後も見いだせないかも知れない、イヤさすがにそれはないかな、ムービーで全部見せられて納得するんだろうな。スンゴイ自己嫌悪に陥るんだろうな。

2通目のメールの返信が来ないので復刊事務作業がストップしています。たぶんこのまま無視されると思われます。別に今回に始まった事ではありません、他にいくつも無視されてきた経緯がありますので。(スピリチュアリズム関連の団体などに)

まさか本当にこの絶望的状態のまま一生を過ごさせるつもりじゃないだろうな霊団。仕事してくれよ、事態を前進、進展させてくれよ、じゃなきゃ物質界に残されてる意味がないだろう。無目的に何十年も残されるなんて断固拒否するぞ。

しかし事実上脱出方法が皆無の状態なので手元の復刊用の作業に集中するより他にどうしようもありません。物質界生活中にこの絶望感が解消される日は果たしてくるのか。このまま絶望状態で終わるのか。それは死んでも拒否するけど霊団の手の上で踊らされているのでどうしようもできない(祈)†

1917年12月19日 水曜日

さて吾々は急がずゆっくりと歩を進めました。と言うのは、そろそろ吾々の霊的波長が容易に馴染(なじ)まぬ境涯に近づきつつあったからです。が、どうにか環境に合わせることができました。そしてついに地上から数えて2番目の界の始まる境界域に到達した。便宜上地上界をゼロ界としておきます。

– 話を進められる前にお尋ねしておきたいことがあります。あなたがある種の悩みを抱えていたために他の界よりも長期間滞在されたというのは第5界だったのではありませんか。

貴殿の要求は、私を悩ませしばらくその界に引き留めることになった問題の中身を説明してほしいということのようですな。よろしい。それはこういうことでした。

私はすべての人間が最後は神が万物の主(ぬし)であることを理解すること、そしてその神より出でた高級神霊がそのことを御座(みくら)の聖域より遠く離れた存在にも告げているものと確信していた。

しかしそうなると、吾々のはるか下界の暗黒界 – 悲劇と煩悶が渦巻き、すべての愛が裏切られ、その普遍性と矛盾するように思える境涯に無数の哀れな霊が存在するのはなぜか。

それが私の疑問でした。昔からある“悪の存在”の問題です。私には善と悪という2つの勢力の対立関係が理解できないし、それを両立させることは少なくとも私の頭の中ではできなかった。つまり、もしも神が全能であるならば、なぜ一瞬たりとも、そして僅かたりとも悪の存在を許されたのであろうか、ということでした。

私は久しくそのことに思いをめぐらしていた。そして結果的に大いに困惑を増すことになった。なぜなら“神の王国”の内部でのこうした矛盾から生まれる不信感が、目も眩(くら)まんばかりの天界の高地へ向上していく自信を私から奪ってしまったからです。

私はもしかしたらその高地で心の平静を失い、これまで降りたこともない深淵(しんえん)へ落ちて深いキズを負うことになりはせぬかと恐れたのです。

煩悶(はんもん)しているうちに私は、いつも“ここ”という時に授かる援助をこの時も授かる用意ができていたようです。自分では気づかないのですが、啓発を受けるときはいつもそれに値するだけの考えが熟するまで私は論理的思考においてずっと指導を受け、その段階において直感的認識がひらめき、それまでの疑念のすべてが忘却の彼方へと一掃され、2度と疑わなくなるのでした。

ある日のこと – 貴殿らの言い方で述べればのことですが – 私は小さな赤い花の密生する土手の上で東屋(あずまや)に似た木蔭で腰を下ろしていた。さきの難問を考えていたわけではありません。他にもいろいろと楽しい考えごとはあるものです。

私はすっかり辺りの美しさ – 花、木木、小鳥、そのさえずりに浸(ひた)っていた。その時ふと振り返ると、すぐそばに落着いた魅力あふれる容貌(ようぼう)の男性が腰を下ろしていた。濃い紫のマントをつけ、その下からゴースのチュニック(*)が見える。

そしてそのチュニックを透(す)かして、まるで水晶の心臓に反射して放たれたような光が身体から輝いて見えた。肩に付けられた宝石は濃い緑とすみれ色に輝き、髪は茶色をしていた。が、目は貴殿のご存知ない種類の色をしていた。

(* ゴースはクモの糸のような繊細な布地。チュニックは首からかぶる昔の簡単な胴衣。なおこの人物が誰であるかはどこにも説明が出てこないが、多分このリーダー霊の守護霊であろう。訳者)

その方は前方に目をやっておられる。私はお姿に目をやり、その何とも言えない優雅さにしばし見とれていた。するとこう口を開かれた。「いかがであろう。ここは実に座り心地が良く、休息するには持ってこいの場所であるとは思われぬかな?」

「はい、いかにも…」私にはこれ以上の言葉が出なかった。「がしかし、貴殿がそこに座る気になられたのは、きれいな花が敷きつめられているからであろう?」そう言われて私は返答に窮した。するとさらにこう続けられた。

「さながら幼な子を思わせるつぼみの如き生命と愛らしさに満ちたこれらの赤い花の数々は、こうして吾々が楽しんでいるような目的のために創造されたと思われるかな?」

これにも私はただ「そこまで考えたことはございませんでした」と答えるしかなかった。「そうであろう。吾々は大方みなそうである。しかも吾々が1人の例外もなく、片時も思考をお止めにならず理性からはずれたことを何1つなさらぬ神の子孫であることを思うと、それは不思議と言うべきです。

吾々がいくら泳ぎ続けてもなおそこは神の生命の海の中であり、決してその外に出ることがない。それほど偉大な神の子でありながら、無分別な行為をしても赦(ゆる)されるということは不思議なことです」

そこでいったん話を止められた。私は恥を覚えて顔を赤らめた。その声と話しぶりには少しも酷(きび)しさはなく、あたかも親が子をたしなめるごとく、優しさと愛敬に満ちていた。が、言われていることは分かった。自分は今うかつにも愛らしく生命にあふれた、しかし、か弱い小さな花を押しつぶしているということです。そこで私はこう述べた。

「お放ちになられた矢が何を狙われたか、より分かりました。私の胸ふかく突きささっております。これ以上ここに座っていることは良くありません。吾々のからだの重みでか弱い花に息苦しい思いをさせております」

「では立ち上がって、いっしょにあちらへ参りましょう」そうおっしゃってお立ちになり、私も立ち上がってその場を離れた。「この道へはたびたび参られるのかな?」並んで歩きながらその方が聞かれた。

「ここは私の大好きな散策のコースです。難しい問題が生じた時はここへ来て考えることにしております」

「なるほど。よそに較べてここは悩みごとを考えるには良いところです。そして貴殿はここに来て土手のどこかに座って考えに耽(ふけ)る、と言うよりは、その悩みの中に深く入り込んでしまわれるのではないかと思うが、ま、そのことは今はわきへ置いて、前回こちらへ来られた時はどこに座られましたか」

そう聞いて足を止められた。私はその方のすぐ前の土手を指さして言った。「前回こちらへ来た時に座ったのはここでした」「それもつい最近のことであろう?」「そうです」

「それにしては貴殿のからだの跡形がここの植物にも花にも見当たらない。嫌な重圧をすぐさまはね返したとみえますな」

確かにこの地域ではそうなのである。その点が地上とは違う。花も草も芝生もすぐさま元の美しさを取り戻すので、立ち上がったすぐあとでも、どこに座っていたかが見分けがつけにくいほどである。これは第5界での話で、すべての界層がそうとはかぎらない。地上に近い界層ではまずそういう傾向は見られない。

その方は続けてこう言われた。「これは真価においても評価においても、創造主による人間の魂の傷に対する配剤とまったく同じものです。現象界に起きるものは何であろうとすべて神のものであり神お1人のものだからです。では私に付いてこられるがよい。

貴殿が信仰心の欠如のために見落しているものをお見せしよう。貴殿は今ご自分が想像していた叡智(えいち)の正しさを疑い始めておられるが、その疑念の中にこそ愛と叡智の神の配剤への信仰の核心が存在するのです」

それから私たち2人は森の脇道を通り丘の麓(ふもと)へ来た。その丘を登り頂上まで来てみると森を見下ろす高さにいた。はるか遠い彼方まで景色が望める。

私は例の聖堂のさらに向こうまで目をやっていると、その聖堂の屋根の開口部を通って複数の光の柱が上空へ伸びて行き、それが中央のドームのあたりで1本にまとまっているのが見えた。それは聖堂内に集合した天使の霊的行事によって発生しているものだった。

その時である。ドームに光り輝く天使の像が出現し、その頂上に立った。それは純白に身を包んだキリストの顕現であった。衣装は肩から足もとまで下りていたが足は隠れていない。そしてその立ち姿のまま衣装が赤味を帯びはじめ、それが次第に濃さを増して、ついに深紅となった。

まゆのすぐ上には血の色にも似た真っ赤なルビーの飾り輪があり、足先のサンダルにも同じくルビーが輝いていた。やがて両手を高く広げると、両方の甲に大きな赤い宝石が1つずつ輝いていた。

私にはこの顕現の私にとっての意味が読み取れた。最初の純白の美しさは美事であった。が今は深紅の魅力と美しさに輝き、そのあまりの神々しさに私は恍惚(こうこつ)となって息を呑(の)んだ。喘(あえ)ぎつつなおも見ていると、その姿のまわりにサファイヤとエメラルドの縞(しま)模様をした黄金色の雲が集結しはじめた。

が、像のすぐ背後には頭部から下へ向けて血のような赤い色をした幅広いベルト状のものが立っており、さらにもう1本、同じような色彩をしたものが胸のうしろあたりで十文字に交わっている。その十字架の前に立たれるキリストの姿にまさに相応しい燦爛(さんらん)たる光輝に輝いていた。

平地へ目をやると、そこにはこの荘厳な顕現をひと目見んものと大勢の群集が集まっていた。その顔と衣服がキリストの像から放たれる光を受けて明るく輝き、その像にはあたかも全幅の信頼を必要とするところの犠牲と奉仕を求める呼びかけのようなものが漂(ただよ)っているように思えた。

それに応えて申し出る者は、待ちうける苦難のすべてを知らずとも、みずから進んでその苦難に身を曝(さら)す覚悟ができていなければならないからである。が、その覚悟のできた者も、多くはただ跪(ひざまず)き頭を垂れているのみであった。

もとより主はそれを察し、その者たちに聖堂の中に入るよう命じられ、中にて使命を申しつけると仰せられた。そしてみずからもドームを通って堂内に入られた。そこで私の視界から消えた。

私はそばに例の方がいらっしゃることをすっかり忘れていた。そして顕現が終ったあとも少しの間その方の存在に気づかずにいた。やっと気づいて目をやった時、そのお顔に苦難の体験のあとが数多い深い筋となって刻まれているのを見て取った。

もとよりそれは現在のものではなく遠い昔のものであるが、その名残りがかえって魅力を増しているのだった。しかし私から声をお掛けできずに黙って立っていると、こうおっしゃった。

「私は貴殿に悲哀の人イエスの顕現をお見せするためにこの界のはるか上方から参っております。主はこうしてみずからお出になっては悲哀を集めて我がものとされる。それは、その悲哀なくしては今拝見したごとき麗しさを欠くことになるからです。

主にあれほどの優しさを付加する悲哀は、その未発達の粗野な状態にあっては苦痛を伴って地上を襲い、激痛をもって地獄を襲うものと同一です。この界においては各自その影を通過するときに一瞬のものとして体験する。吾々とて神の御心のすべてには通暁し得ない。

しかし今目(ま)のあたりにした如く、時おり御心のすべてに流れる“苦の意義”を垣間(かいま)見ることができる。その時吾々が抱く悩みから不快な要素が消え、いつの日かはより深い理解が得られるとの希望が湧(わ)き出てきます。

しかし、その日が訪れるまでは主イエスが純白の姿にて父の御胸より出て不動の目的をもって地上へ赴(おもむ)いたこと、そこは罪悪と憎悪の暗雲に包まれていたことを知ることで満足しています。

さよう、イエスはさらに死後には地獄へまでも赴き、そこで悶(もだ)え苦しむ者にまで救いの手を差しのべられた。そしてみずからも苦しみを味わわれた。かくして悲哀の人イエスは父の玉座の上り段へと戻り、そこで使命を成就された。

が、戻られた時のイエスはもはや地上へ向かわれた時のイエスではあられなかった。聖なる純白の姿で出発し深紅の勝利者となって帰られた。が流した血はみずからの“おん血”のみであった。敵陣へ乗り込んだ兵士がその刃(やいば)を己れの胸に突きさし、しかもその流血ゆえに勝者として迎えられるとは、これはいかにも奇妙な闘いであり、地上の歴史においても空前絶後のことであろう。

かくして王冠に新たなルビーを加え、御身に真っ赤な犠牲の色彩を一段と加えられて、出発の時より美しさを増して帰られた。そして今や、主イエスにとりて物質界への下降の苦しみは、貴殿が軽卒にも腰を下ろしても変わらぬ生長力と開花力によっていささかも傷められることのなかった草花のごとく、一瞬の出来ごとでしかなかった。

主イエスは吾々の想像を絶する高き光と力の神界より降りて来られて、自己犠牲の崇高さを身をもってお示しになった – まさに主は私にとって神の奇(く)しき叡智(えいち)の保証人でもあるのです。

では罪悪の悲劇と地獄の狂乱はどうなるか。これも、その暗黒界を旅してきた者は何ものかを持ち帰る。神とその子イエスの愛により、摂理への従順の正道を踏みはずして我が儘(まま)の道を歩める者も、その暗黒より向上してくる時、貴重にして美妙なる何ものかを身につけている。

それが神と密接に結びつけるのです。さよう、貴殿もいずれその奇(く)しき叡智(えいち)を悟ることになるであろう。それまで辛抱強く待つことです。が、それには永き時を要するでしょう。貴殿がその神秘の深奥(しんおう)を悟るのは私より容易でなく、私ほど早くもないかも知れません。

なぜなら貴殿はかの悔恨(かいこん)と苦悶(くもん)の洞窟の奥深く沈んだ体験の持ち合わせがないからです。私にはそれがあるのです。私はそこから這(は)い上がって来た者です」

「36の材料組み合わせてお菓子ができる」とにかくイエス様はお喜びという意味です(祈)†■2023年12月6日UP■
「36の材料組み合わせてお菓子ができる」とにかくイエス様はお喜びという意味です(祈)†
2000年前のイエス様の磔刑を思い出してみて下さい。この物質界はとにかく嫉妬、嫉妬、嫉妬であふれかえっています。イエス様も多くの霊能を発揮した事によって当時の律法学者どもの嫉妬をかって磔刑にされて殺されました。この地球圏物質界は一見進歩が進んでいるように見えますが、それは物質面のみが異常に発達しているだけであり、精神面はまだ全然進歩していないと思います。霊的知識がまるっきり理解されていない事がその証左といえるでしょう。僕がある状態になる事をおもしろくなく思っている人間がそれはそれはたくさんいるのです、そいつらが僕をそういう状態にさせないよう陰湿極まる妨害をしてくるに決まっています。それが世の常です。僕に関する言われなき悪い噂をメディアを駆使して広めたりして国民に僕という人間の悪印象を植え付けようとイメージ操作をしてくるでしょう。(例えば守護霊様の背の低さを悪用するなどして)そういう事を絶対にやってくるはずです…続きを読む→
「この道の方が正しかった」強姦殺人魔を滅ぼさない、人生破壊が正解という意味、断じて許せぬ(祈)†■2023年11月29日UP■
「この道の方が正しかった」強姦殺人魔を滅ぼさない、人生破壊が正解という意味、断じて許せぬ(祈)†
間もなく僕が公言している内容を一般の方々が恐怖に縮こまる事もなく暗殺の危機におびえる事もなく当たり前のように公言する時代がやってきます。なぜなら人々を永遠に脅迫で押さえつける事は絶対にできないからです。最終的には正義が必ず勝利を収めるようになっているのです。なぜなら僕たちの心には【神】がプレゼントして下さった「理性、良心」が具わっているからです。その理性、良心がイヤでも人々を正しい行動に駆り立て、遅かれ早かれ邪悪は滅ぼされるのです、単なる時間の問題です。ただ僕の希望としては「いつか皆さまも「宇宙一のバカ」大量強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁の邪悪の正体を公言するようになる」のではなく、できれば今すぐに公言して頂きたい気持ちです。僕の使命遂行をご覧の方々の多くが「たきざわ彰人ガンバレ、強姦殺人魔をやっつけてくれ」と他力本願的に思っておられるかも知れませんが、イエイエ僕という人間には全く何のチカラもありません。社会は個人が集まってできています。ひとりひとりが行動を起こす事によって大きなムーブメントになっていきます…続きを読む→
「言う事を聞きなさい」んーイエス様のお言葉のようにも聞こえる、耳がイタイ(祈)†■2023年11月15日UP■
「言う事を聞きなさい」んーイエス様のお言葉のようにも聞こえる、耳がイタイ(祈)†
肉体は自動的に朽ち果てるようにできていますから、その肉体をまとっての人生で幸福を得ようと考える事がそもそも本末転倒であり近視眼の極致であり、歳をとる事もなく傷つく事もない永遠の若さを保っている霊体をまとっての霊界人生の方に真実の幸福があるのは至極当然の事であり、その霊界生活に備えて物質界で自分を鍛えなければならないのです。「宇宙一のバカ」大量強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁、コイツらはその「物質界の学び」を全てキャンセルしてワガママ放題で生活し、仕事もせず奴隷の女の子を四肢切断、強姦殺人しまくって遊んでいます。つまり物質界で学ぶべき事を一切学ばずに帰幽する、霊界生活に何の備えもできていない人間という事になるのです。何の備えもできていませんからもちろん霊界生活に順応もできません、高級霊の方々から仕事を言いつけられる事もありません資格がないのですから。全く役立たずの人間、何の使い道もありませんから当然暗黒の底の底に落ちてそこで反省させられる訳です。それも物質界での苦しい期間をはるかに超える長い年月にわたって暗黒の中で悶絶する事になるので…続きを読む→

「モーゼスの霊訓 下」OCR変換完了中。あとは上中下のテキスト見直しをおこなえば書籍データ制作に入れます。しかし復刊しても全く脱出につながらない、どれだけ努力しても最悪の状況に延々閉じ込められる事に何の変わりもない。この絶望感を一体どう克服したらいいのだろうか、想像もつかない。

霊団が少しインスピレーションを降らせていますが、いつもの事ですがふたつの意味に受け取れる内容で(霊性発現以来12年一貫して複数の意味に受け取れる降らせ方をしてくるのです、それで僕はいつもイライラ悩まされる事になるのです)どちらの意味で言ってきたのかが分かりませんが、一方の意味は霊団がいよいよ僕から離れると受け取れそうな内容でした。

イヤ、それによって事態が前進するならもうそれでイイ、自動書記やってくれ、とにかく脱出の糸口をつかみたい、このまま閉じ込められ続けたらちょっと心がもちそうにないので。2通目のメールの返信は来ません、信じて待つより他にどうしようもありませんが、復刊実現のハードルの高さは異常すぎる。これはおかしい。

この絶望感を克服する日は来るのか、克服方法は何なのか、今のところ方法が思いつかない。霊団に物的手段ヤメレ言われているが物的手段に訴える以外に脱出できないような気がスゴクしていて、ある姑息な手段のアイデアがずっと頭にこびりついています。それに手を出せば脱出できる可能性が少しある。

いつまでもこの精神状態で過ごすのはムリ。何とか絶望感を解消する方法を見出さないといけない。しかし手だけは止めちゃいけない。さぁどう克服する、この絶望感(祈)†

「全て殺されてきました」3000年にわたり使命遂行者は殺され続けてきたという意味です(祈)†■2024年3月27日UP■
「全て殺されてきました」3000年にわたり使命遂行者は殺され続けてきたという意味です(祈)†
「イエスの成年時代」の復刊書籍の表紙の線画を描くにあたってどうしてもそういうたぐいのモノを見ざるを得ない状況になってしまい、イエス様の磔刑(はりつけ)の宗教画とかを見ていたのです。するとイエス様が十字架を運ばされている絵が複数出てきます。自分が間もなく磔刑にされて殺される十字架を自分で背負って運ばされているのです。要するにイエス様が当時の民衆の人気者で、霊能がずば抜けていたために、それを当時の聖職者だの律法学者だのといった、自分の事をエライと勘違いしているバカヤロウどもが嫉妬して、イエス様にイヤガラセしてイジメて殺したと、そういう事だと思います。※「イエスの成年時代」の中に、逮捕、連行したイエス様を律法学者どもが取り囲んで取り調べをしている最中に、その中のひとりがイエス様に野獣のように飛び掛かって殴り倒すというシーンがあります。皆さまがどのようにお感じになられるか分かりませんが僕の考えをストレートに書きますと、聖職者だの律法学者だのといった人間は「原始人」です「原始的微生物」です。そういうおこないをして帰幽した先に、自分にどれほどの地獄が待ち受けているかを全く理解していない、宇宙最大級の近視眼の愚か者という事になります…続きを読む→
「なぜ地獄行きを命じたか」現在閉じ込められている状況がやはり地獄なのだそうです(祈)†■2024年2月21日UP■
「なぜ地獄行きを命じたか」現在閉じ込められている状況がやはり地獄なのだそうです(祈)†
しかし僕の心が完全に霊団に対する怒り憎しみに包まれてしまっていて(絶対ムリと分かっていますが)地球圏を離れたいと切望するほどになっています。つまり僕は帰幽後に地球圏の仕事をやるのに適さない人間になってしまったという事になり、それで霊団がしょっちゅう「ゴメンね」とか「残念だ」とか言ってくるのではないか、という予測もあったりなかったり。ただ、仮にこの最後の予測が正解だったとしても、僕をそうさせたのは他でもないあんたたちだろ。守護霊様の管轄内で生活していた時は僕は現在のような精神状態には全くならなかった。Dreamwork一直線で迷いなど全くなく、山に行き続けてはシカちゃん鳥ちゃんに話しかけるような人間でしたので(純粋だったという事)100の光の霊団も守護霊様と同じような導き方をしていれば僕をこんな精神状態にしてしまう事もなかったはずなのです。100の光の霊団、特に支配霊バーバネル氏に僕が言いたい事は「守護霊様を見習えよ」という事です。霊性発現前は全てがうまくいっていた。そして超速的に霊性発現に到達した。守護霊様の導きは空前絶後の大成功だったと僕は思うのです。…続きを読む→
「他人のために」僕という霊媒から新規の霊言が降れば人々のお役にも立てると思いますが(祈)†■2024年2月14日UP■
「他人のために」僕という霊媒から新規の霊言が降れば人々のお役にも立てると思いますが(祈)†
これまで物質界で犠牲の使命遂行をおこなってきた無数の霊覚者たちも、全体から見た時に無限分の1といえる極小の活動をしていたと言えます。ひとりの人間が永遠の中の一瞬である物質界生活中にできる仕事量など、宇宙の永遠の営みの中のホンの些細な出来事でしかありませんが、それをひとりひとりがおこなって積み重ねていく以外に地球圏全体を霊的に向上させる方法はないのかも知れません。恐ろしく気の遠くなる話ですが。で、霊団が僕にやらせようとしているのが「霊媒として機能して新規の霊言を物質界にもたらす事」のようなのですが(「宇宙一のバカ」大量強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁を滅亡させる事、奴隷の女の子を救出する事じゃネィのかよ、だったら霊性発現以降のこの11年は一体何だったんだよ、と言いたくて仕方ありませんが)確かに霊言を降らせてそれを拡散させる事ができれば、多くの方々のお役に立つ事ができるのでしょう。僕もぜひその状況になって欲しいと思っています。拡散の準備ならすっかり整っています。書籍復刊のための作業を経てAffinityPublisherへの苦手意識もだいぶ克服されており、書籍をガンガン作るスキルがかなり身に付いてきていますので、霊言さえ降れば、それを余す事なく書籍化して皆さまにお読み頂ける状態にする事ができます…続きを読む→

復刊関連でさらに2通メールを出し、先ほど1通返信が来て速攻で「分からない」との回答を得ました。手紙は数えきれないくらい出した、メールももう覚えていないくらい出した、いつまでこんな作業をやらねばならないというのか。いつになったら本のカタチになって世に出せるというのか。ハードルが高すぎる、絶望感がスゴすぎる。

「モーゼスの霊訓 上」のテキスト見直し25%完成中、「イエスの少年時代」最終校正15%完成中、「モーゼスの霊訓 下」OCR変換80%完成中。とにかく作業だけは続けていますが、どうやっても心の中の絶望感を取り去る事につながらない。どうやったらこの絶望感から脱出できるんだ。

さらによくよく考えるのですが、もう脱出方法は「ない」と断言していいような状態で、あ、イヤ、使命遂行を完全にやめて金儲けに走れば脱出できると思います。しかし霊性発現した人間がそれをやるのはアフォの極致でしょう。霊団に本気で反逆している僕でもさすがにそこまではできません。

となるといよいよ本当に脱出不可能、完全にイヤでどうしようもないところに閉じ込められるという事になり、このイヤがっている気持ちは変更できないと思いますので(昨日今日イヤになったのではなく10年以上前から脱出するつもりでいたところですので)あと救いを求めるとしたら「身体は脱出できなくても心の絶望感は解消する」という事ぐらいしか思いつきません。

霊団の動きを見ているとまるで僕の事をフヌケ人間にしようとしているかのようで、僕の性格を完全に書き換えるつもりでいるのかという気さえしますが、僕の性格は「1歩も退く気はない」だ。無目的にボンヤリよだれ垂らして生きるなどという事ができる訳ないだろ。何かに燃えなければ生きていけない、心の中に炎がなければ物質界に残される意味がない。

で、その炎の燃料は霊的なモノ以外にないと思うのです。物的手段では脱出できないのですから霊的燃料で炎を燃やす事で心を維持するぐらいしか思いつかない。で、完全に反逆している僕が今さら霊団に祈ってもその祈りは聞き入れられませんが、しかしそれでも祈るしかないような気がしつつあります。

まずは自動書記をやって下さい、で、できればそれが脱出につながるようにして下さい、そう祈るしかないのかも知れない。自動書記は聞き入れられるかも知れませんが脱出は聞き入れられないでしょう。それでも祈るしかないのかも。もう心の救いをそういうところに求めるしかないくらいの絶望的状態なのです。

この絶望感を何とかしないといけない。ちょ…っとこのまま生き続けるのはムリ…だと思う。何か考えないと。考えつつ手だけは動かし続けましょう、手を止めるのはNG。一体どうすればいいんだ(祈)†
「何のために霊能やってるんだ」物的手段に訴えるな、霊団に従え、という意味です(祈)†■2024年5月15日UP■
「何のために霊能やってるんだ」物的手段に訴えるな、霊団に従え、という意味です(祈)†
この地球、この宇宙は全て【神】のものです。今僕たちがまとっている肉体さえ僕たちのものではありません。全て神からの賜りものであり、僕たちの所有物などというモノは存在しません。物的金銭を蓄積する事ほど愚かな事はありません。肉体は100%朽ち果てるようにできているのですから人間は自動的に帰幽して物質界を離れます。その時、霊界に物質は持って行けません。100兆円稼いでも1円も霊界に持って行けないのです。物質界での金銭の蓄積は全く無意味である事を物質界生活者が理解するのはまだ1000年以上先の話かも知れません。物質界生活中に僕たちがやるべき事は「心を鍛える」という事です「自分を磨く」という事です。それが帰幽後の霊界生活に役立つのであって、霊界人生に何の役にも立たないおこないは、少なくとも僕、たきざわ彰人のブログをご覧の皆さまには慎んで頂きたい、その悟りの壁を突破して頂きたいと願わずにはいられません…続きを読む→
「4000文字を一気に書く」自動書記、やるならやって下さい、書籍化の準備は整ってます(祈)†■2024年5月8日UP■
「4000文字を一気に書く」自動書記、やるならやって下さい、書籍化の準備は整ってます(祈)†
初期の頃に「隔離フィールド」という霊現象が僕の身に起こりました。どの霊関連書籍にも全く同様の記述がない、全く未知の霊現象のためやむなく自分でこのように命名した霊現象となります。この隔離フィールドの詳細説明は諸事情で割愛させて頂きますが、実はこの隔離フィールド時に「地縛霊、低級霊のジャマを一切無視する修行」のような事をずっとやらされていたのです。半強制的に地縛どもの声を霊聴に流されて、寝ている時以外はずっとその地縛どもにムカつく事を言われ続けながら生活する、という状態を延々やらされていたのです(ちょうどセブンで仕事を始めた頃です)それはもう最初は大変な精神的苦痛を味わわされました。しかしその修行の成果もあって、低級な声のほとんどを無視する事ができるようになっています。2度とあの「隔離フィールド」の状態にさせられるのはゴメンですが、僕がもし自動書記霊媒として機能するようになったら、あの時と似たような状態にさせられるから覚悟しておきなさいと霊団が言っているのかも知れません…続きを読む→

※アナログ絵トップページ更新しています↓

1917年12月18日 火曜日

お話を給わった拝謁(はいえつ)の間(ま)を出て、吾々はその高き聖所を後にした。お話は私がお伝えしたよりもっと多かった。それを愛をこめて話してくださり、吾々は使命へ向けて大いに勇気づけられた。ポーチまで進み、やがて立ち止まって広い視界に目をやった。

下方には草原地帯が横たわり、左右のはるか彼方まで広がっている。その先に丘が聖所を取り巻くように連なっており、そこから幾すじかの渓流が平野へ向けて流れ、吾々から見て左方向にある湖で合流している。それがさらに左方向へ流出し、その行く手に第10界と第9界との間に聳(そび)える山脈が見える。

そう見ているうちに、さきほど話をされた方が吾々の中央に立たれ、ご自身の霊力で吾々を包んで視力をお貸しくださり、ふだんの視力では見えない先、これから赴かねばならない低い界層をのぞかせてくださった。初め明るく見えるものが次第に明るさが薄れ、かすんで見えるものが次第におぼろげに見え、ついには完全なモヤとなった。

その先は吾々が位置した最も見えやすい位置からでも見透すことは不可能だった。と言うのも、そこはすでに地球に隣接する界層およびそれ以下の境涯であり、地上界へ行きたい者はひとまずその境涯から脱出しなければならず、一方地上で正しい道を踏みはずした者は自然の親和力の作用によってその境涯へと降りて行く。地獄と呼んでいるのがそれである。

なるほど、もし地獄を苦痛と煩悶と、魂を張り裂ける思いをさせることを意味するのであれば、そこを地獄と呼ぶのも結構であろう。さて必要な持ち物と、これより先に控える仕事を吟味し終えると、吾々はその方(かた)に向かって跪き、祝福をいただくとすぐに出発した。

まず左手の坂道を下り、山間(あい)を通り抜けて、そこからまっしぐらの長い旅なので、4つの界層を山腹に沿って一気に空中を飛翔(ひしょう)した。そして第5界まで来て降下し、そこでしばし滞在し、そこの住民が抱える悩みごとの解決にとって参考になるように、入念に言葉を選んで話をした。

– 旅の話をすすめられる前に第5界でのお仕事の成果をお話ねがえませんか。

吾々の仕事は各界で集会を開いて講演をすることでしたが、そこでの話がその最初となりました。まずそこの領主 – 第5界の統率者の招きにあずかりました。その領主は、どの界でもそうですが、本来はその界よりも高い霊格を具えた方です。

が、吾々が滞在したのは行政官の公舎でした。行政官はその界でいつまでも向上できずにいる者たちの問題点に通暁しておられ、吾々がいかなる立場に立っていかなる点に話題をしぼって講演すべきかについて、よきアドバイスを与えてくださる。

さて、そういう悩みを抱えた人々が公舎の大ホールに集まった。実に大きなホールで、形は長円形をしています。ただし、片方の端がもう一方より圧縮された格好をしています。

– 西洋ナシのようにですか。

はて、これはもう、ほとんど忘れかけた果物ですので“しか”とは申せませんが、さよう、大体の格好は似ていましょう。ただし、あれほど尖(とが)った形ではありません。その細い方の外側には大きなポーチがかぶさるように付いており、会衆はそこから入りました。

演壇は左右の壁から等距離の位置にあり、吾々はそこに上がりました。実は吾々の霊団の中に歌手が1人いて、まず初めにその時のために自分で作曲した魅力あふれる曲を歌いました。

その内容は – すでにお話したものも含まれていますが – 究極の実在である神がいかなる過程でその霊力を具象化し、愛がいかにして誕生し、神の子等(造化に携わる高級神霊のこと – 訳者)がその妙味にふれてそこから美が誕生するに至ったかを物語り、それ故にこそすべての美に愛が宿り、すべての愛が純朴であり、いかなる形で表現されても美にあふれていること。

しかし現象界の発展のために働く者の意志が愛に駆られた美の主流に逆らう方向へと働いた時、そこに元来の至純さと調和しない意志から生まれる或る種の要素が生じ、そのあとに創造される存在は美しくはあっても完全なる美とは言えず、また、ますます激しさを増す混沌たる流れに巻き込まれてさらに美的要素を欠く存在が出現したが、それでも根源より一気に一直線に下降を続けた者の目には見えない美しさを、おぼろげながら具えていた…そう歌いました。

会衆は身じろぎ1つせず聴き入っていた。それほどその曲が美と愛の根源から流れ出てくるような雰囲気を帯びていたのです。またその言葉そのものが“究極にして絶対”の存在とは“統一”であり、それ自体に多様性はあり得ず、それまでに生じた多様性は“てこ”的存在としての意義をもつ – つまり多様性の中に表現されたものが抵抗によって再び高揚され統一へ向かうという哲学を暗示しておりました。

さて、歌が終ると会場を重厚な静けさが支配し、全員が静粛にしていた。身じろぎ1つする者がいない。立っている者は立ったまま、ベンチあるいはスツールに腰を下ろしている者もそのまま黙しており、何かに寄り掛かってしゃがみ込んでいる者もそのままの気楽な姿勢でいた。そのことをはっきりと見てとった。

誰ひとり位置を変える者もいなかった。それは、はるか彼方の生命とエネルギーの力強い脈動の中に生まれた歌の魔力が彼らを虜(とりこ)にし、今の境涯と知識とで精一杯頑張ろうという決意を秘めさせたからです。

ややあって、いよいよ私が語る段取りとなった。すでにさきの歌い手が、抑えぎみに、しかし甘美な声で歌い始めていた。それでも、天体の誕生の産みの痛みの時代の物語に至るとその痛みに声が激しさを増し、勢いとエネルギーが魂の中で激しく高まり、痛ましいほどの壮大な声量となってほとばしり出るかの如くであった。

それからカオス(混沌)がみずから形を整えコスモス(宇宙)となり、さらに創造主の想像の中から各種の生命体が誕生する段階になると、声と用語の落着いたリズムが整然たる進行の中で次第に平穏となり、最後は単一音で終った。それはあたかも永遠の創造活動が今始まったばかりで未だ終局していないことを暗示するために、そのテーマを意図的に中天で停止させたかのようでした。

そのあとを継いで語り始める前に私は一呼吸の間を置いた。それは私の話に備えて頭の中を整理させ、あたりに漂(ただよ)う発光性の雲の中でその考えをマントのごとく身にまとわせ、話をしている私の目に各自の性格と要求とが読み取れ、私の能力において出来うるかぎりの援助を与えるためでした。

それからいよいよ講演に入った。全員に語りかけながら同時に個々の求めるものを順々に満たしていった。多様性となって顕現し虚空に散らばったものを再び1点に集約し、美そのもの、愛そのものである究極の実在からの熱と光りとを吸収しそして発散するところの大いなる霊的太陽について語った。

また、ペテロとユダの背信行為と裏切りとその後の後悔の話 – 一方は地上において束の間の地獄を味わい、1千年もの悔恨を1か月で済ませて潔白の身となった。そこに秩序ある神の家族内での寛恕と復権の可能性が見られること。

もう一方は最後まで懺悔(ざんげ)の念が生じず、自分が絶望の狂乱の中で金(かね)で売った人物(イエス)が死を迎えた時に、いつもの自暴自棄的気性のために早まって(首を吊(つ)って)この世から逃げた。が、これで消えてしまったと思い込んだ思惑とはうらはらに彼は生き続けていた。

しかし彼はなおも懺悔の念は生じず、イエスみずからが、迷える小羊を探し求めるごとくに、奥深き地獄の峡谷へユダその他の罪人に会いに赴(おもむ)いた。そして陰気さと、触れられるほどの真実味のある暗闇の中にいる彼らに光と愛そのものである神の存在と、その聖なる御子を通じて愛の輝きが想像を絶した宇宙の果てまで、そしてその地獄の世界までも投射されている事実を語って聞かせた。

彼らは最後に光を見てから何十年何百年ものあいだ光というものを見ておらず、今では光とは何か、どのように目に映じるものかもほとんど忘れている。その彼らの目に久しぶりに一条(ひとすじ)の光が見えてきた。

もとよりイエスは彼らの視力に合わせてご自分の身体を柔らかい、優しい、ほのかな光輝で包みこんでおられた。その足もとへ1人また1人と這い寄ってくる。その目から涙がこぼれ落ちている。それがイエスの光に照らされてダイヤモンドのしずくのごとく輝いて見える。

その中の1人に裏切り者のユダもいた。そしてイエスから赦(ゆる)しの言葉を聞かされた。ペテロがのちにイエスに会ったとき主の寛恕の愛を聞かされたごとくにであった。

聴衆はじっと聞き入り、そして私の述べていることが、宇宙の君主であり愛そのものであるところの神への一体化についてであり、そして又その神への従順さが生み出すところの産物 – それは人間から見れば難問でありながら実はその一体化を促すための“てこ”的意義をもつものであることを理解しはじめていた。

私は静寂のうちに講演を終り、同じく静寂のうちに他の者とともに演壇を下り、ホールを出て公舎を後にし、次の旅へ向かった。行政官が総出で吾々をていねいな感謝の言葉とともに見送ってくださり、吾々も祈りでもってこれに応えた。かくしてその界を後にしたのであった。

「進歩に重大な障害をもたらす」これが霊団が僕を閉じ込める理由です、永遠に許さぬ(祈)†■2024年4月17日UP■
「進歩に重大な障害をもたらす」これが霊団が僕を閉じ込める理由です、永遠に許さぬ(祈)†
訳者、近藤千雄先生が著書の中で何度も書いておられる事ですが、そもそも「守護霊」という言葉が間違いなのだそうです。この言葉はさも「人間を守ってくれる」かのような印象を与える言葉ですが、実際の守護霊の役割は全く逆で、守護を任された人間の罪障消滅をキッチリ完了させるために試練に立ち向かわせるのが仕事であり、守るどころか苦しめるのが仕事と言ってもいいくらいなのです。そういう意味では「守護霊」という名称より「監督霊」と言った方が正しいと近藤先生は仰っていました。僕も自分の体験からそのように思います。僕の守護霊様は僕が自発的に試練に立ち向かうようにウマく、本当にウマく仕向けました。そして僕は画家の試練Dreamworkと、山での修行というダブルの試練を自分に課す生活に突入し(イヤイヤやらされたのではなく自分の意思でノリノリで始めたのです)急速に向上を果たして一気に霊性発現にまで到達したのです。僕は守護霊様の事を「導きのプロ」と公言していますが、とにかく守護霊様は「やり方がウマすぎた」大大大Dai成功だった、という事です。それで霊団はムカついているが守護霊様は尊敬し永遠の恭順を誓うと言っているのです…続きを読む→
「ちょっとでも匂わせる事言ったらたちまち死刑」つまりもう何もしないという意味です(祈)†■2024年4月3日UP■
「ちょっとでも匂わせる事言ったらたちまち死刑」つまりもう何もしないという意味です(祈)†
僕に情報拡散をさせてきっかけを作るところまでは許されたが、それ以上の干渉は許されていないという事なのではないか。で「今回では達成されません」というインスピレーションもありますように「宇宙一のバカ」大量強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁の邪悪の正体に関する情報拡散は進み、人々の洗脳は相当に破られて真実の理解が浸透するが、僕の物質界生活中に邪悪の滅亡までは到達しない。その実現は僕の帰幽後に別の使命遂行者によっておこなわれるか、もしくは特定の人物によるものではなく人々の認識の広まりによって自動的にそういう風になっていくとか、そういう事を霊界側は考えているのかも知れません。平たく言うと「無血解決」1滴も血を流さずに邪悪を滅ぼすという事です。僕の物質界生活中に「宇宙一のバカ」大量強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁を滅ぼそうとすると僕なり誰かなりの血が流されてしまうので霊界側はそこまでゴリ押ししようとしない。何しろ霊界には時間の概念がありませんので僕だろうが次の使命遂行者だろうがそんなモノは大した問題ではないはずです。が、僕から言わせてもらえればその生ぬるい考えがムカつくんだよ。決める時にバシッと決めろよ…続きを読む→
「魂の成長のためなんだよ」霊団が僕に苦難をやらせる理由です、もう聞き飽きた(祈)†■2024年3月20日UP■
「魂の成長のためなんだよ」霊団が僕に苦難をやらせる理由です、もう聞き飽きた(祈)†
「宇宙一のバカ」大量強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁に鉄槌を喰らわせる事もしなければ奴隷の女の子たちを助けてあげる事もせず、ただ半笑いで僕が苦しむところを見ているだけで終わらせるつもりなんじゃないだろうな。で、次世代降下チーム(霊界側で同じ時代に同じ地域に降下するチームがあらかじめ結成されるという事)が、僕が一生かけて蒔いたタネを活用してそこでようやく物質界の諸問題が解決されるとか(つまり僕の帰幽後のお話、今から50年後、100年後とか)そういうストーリーか。僕は前座か。本当に損な役回りだな。フゥゥ、僕なりに霊的知識を果てしなくお勉強していますが、確かに偉大な功績を残した先駆者の方々というのは、物質界では認められず帰幽後に霊界にて真の評価を下され、向上を果たし上層界に召されていると理解しています。※つまり逆に物質界で偉人とされて歴史に名を残している人物というのは霊界では全く評価されておらず暗黒の底に落ちているという事です。戦争勝利将軍とか、慈善家とか、富豪とか、そういうたぐいの人間です。「後なるものが先に」これは偉大な真理なのですが、物質界ではこの意味が全く理解されていません…続きを読む→

 

「イエスの少年時代」「イエスの成年時代」「イエスの弟子達」の3冊の復刊用に自動書記霊媒「ジェラルディン・カミンズ女史」の著作権および肖像権対策の絵を描きました。しかし、もし想像を絶する高いハードルを根性で突破して復刊を実現できたとしても、この3冊の復刊はカミンズ女史の没後70年が経過した15年後となります。

努力してもしても全く結果に結びつかない、明けても暮れても自分が望まない状態に閉じ込められる、何をどうやっても脱出できない。なぜこんな状態にさせられなければならないのか、思い当たるフシが全くない。苦しい、苦しすぎる。

本当に絶望感で心が撃ちのめされています。もうどうしようもない。どうやったらこの心を立て直す事ができるんだろう。イヤ方法はひとつしかない、霊団の言う通りにする事だ。しかしそれをやったら完全に閉じ込められる事が決定してしまう。イヤ、もう現時点で閉じ込められているんだから同じか、と開き直るしかないのかも知れない。

スンゴイ絶望感だ、これは今まで生きてきて経験ない、自分でもビックリする。克服方法が全く分からない。インペレーター霊の言葉を借りれば「祈る」しかないのかも。今日書いたブログのタイトルとつながっている感じもしますね。

とにかく手だけは止めちゃいけない。止まったら終わりだ。僕の残された物質界人生、心の救いは果たしてどこにあるのか。帰幽後にしか救いはないと考えるのが正解でしょうたぶん。最悪、物質界人生最悪。僕の人生を返せ。Dreamwork(画家の人生)に燃えていた、あの頃の気持ちを返せ(祈)†

返信がきてますが、とにかくハードルが高すぎる、さらにアレコレ作業しないといけない旨、書かれていまして、そのメンドクサイ壁を突破してみたところで脱出につながりませんので、もう心が挫けまくっています。で、さらにひとつかなり絶望的な壁がある事が判明してしまいまして、本当に復刊冊数0冊になる可能性が出てきました。(詳細説明できない壁なのです)

2年がかりでスキャンしてきた今までの努力は一体何だったんだ、恐るべき絶望感に襲われています。僕は書籍データを制作する事に集中したい、事務作業は誰かやってくれ、という気持ちでイッパイです。もうヤダ、ホントにヤダ。このハードルの高さは一体何だというのか。これはあきらめさせるため、やらせないための制度なのかも知れない。

アナログ絵375をUPさせます、少々お待ち下さい。って、この絵を完成させてみたところで復刊できないかも知れない。どうすればこの絶望感を解消できるんだろう、もう全く思いつかない。霊団の言う通りにしたら一生最悪に閉じ込められる事が決定してしまう。僕は一体どうすればいいんだ。人生最大の絶望感(祈)†

「何のために霊能やってるんだ」物的手段に訴えるな、霊団に従え、という意味です(祈)†■2024年5月15日UP■
「何のために霊能やってるんだ」物的手段に訴えるな、霊団に従え、という意味です(祈)†
この地球、この宇宙は全て【神】のものです。今僕たちがまとっている肉体さえ僕たちのものではありません。全て神からの賜りものであり、僕たちの所有物などというモノは存在しません。物的金銭を蓄積する事ほど愚かな事はありません。肉体は100%朽ち果てるようにできているのですから人間は自動的に帰幽して物質界を離れます。その時、霊界に物質は持って行けません。100兆円稼いでも1円も霊界に持って行けないのです。物質界での金銭の蓄積は全く無意味である事を物質界生活者が理解するのはまだ1000年以上先の話かも知れません。物質界生活中に僕たちがやるべき事は「心を鍛える」という事です「自分を磨く」という事です。それが帰幽後の霊界生活に役立つのであって、霊界人生に何の役にも立たないおこないは、少なくとも僕、たきざわ彰人のブログをご覧の皆さまには慎んで頂きたい、その悟りの壁を突破して頂きたいと願わずにはいられません…続きを読む→
■アナログ絵374「イエスの少年時代」の表紙として描きたかった「ヘリ」です(祈)†■2024年5月12日UP■
■アナログ絵374「イエスの少年時代」の表紙として描きたかった「ヘリ」です(祈)†
はい、また事実に反する絵を描いてしまいました。ヘリについては何をどうググっても一切何の資料も出てきません。それはそうです聖書にも登場しない人物「イエスの少年時代」の中でのみ語られている人物ですから画像が残っている訳がありません。ですのでヘリの外見を想像する事は一切できないのですが、当時の成人男性は大抵ヒゲもじゃの感じでしょうから、たぶんヘリもそういう感じだったのだろうと予測しますが、どうにもそのヒゲもじゃが描きたくなかったので、僕の勝手なイメージでこのようなキャラに描かせて頂きました。少年期のイエス様の真実の兄貴、みたいなイメージです。本当はこのヘリを表紙に採用したかったのですが、事実に反する絵を表紙にする訳にはいかなかったので無難なところでももちゃん、シルキーの絵とし、ヘリはこのように「ボツ絵」というカタチで巻末に掲載する事としました…続きを読む→