えーNew45分ノートに大問題発生中で、問題解決のためのアクションを先ほど起こしました(メモリ増設)たぶんこれで多少サクサク動いてくれると思いますが数日かかりますので、その間はNew45分ノートでフラー23カラーリング以外の作業をやらねばなりません。
で、近々でやるべきと思われる作業は「霊関連書籍のページのスキャン、スキャン画像をAffinityPhotoでキレイに大きく書き出す、OCR変換」および「○○社さんに出す手紙のドラフト(テキスト)撃ち」となりますが、手紙テキストを撃とうかと思っています。手紙を出してみたところで絶対にお返事は頂けないものと予測されますが。
霊団が紙の書籍を制作するのをまるで容認するかのような幽体離脱時映像を降らせてきた真の意図は、書籍オケーと言っているのではなく、霊団がずっと言い続けている「スピードダウンに都合がいいから」だと思われます。霊的知識の拡散につながりそうなスピードダウンという意味でしょうたぶん。
えー、すでに入手していた書籍に合わせて、近々で古書を買い足しており、現在机の横に渦高く書籍が積まれている状態です。これら全てをテキストデータ化するのは地獄の作業となりますので、慌ててやるのはNG、気楽に長いスパンで考えないと絶対に続けられないでしょう。
ちなみに今日OCR変換を完了させたテキストをUPさせて頂きます↓
シルバー・バーチの霊訓 2巻
シルビア・バーバネル編
近藤千雄訳
12章 病気とカルマ(宿業) – エドワーズ夫妻を迎えて –
心霊治療家として世界的に知られているハリー・エドワーズ氏が夫人とともに招かれた。まずエドワーズ氏が次のような謙虚な質問をした。
「私がいつも関心を抱いているのは私たち治療家に何が治せるかではなくて、どうしても治せずにいる病気のことです。どうすればより多くの病を治し、どうすればそちらの世界の人との協力関係を深めることができるでしょうか」
「私たちは偉大にして遠大な目的に向かって協力し合っております。その目的とは薄幸の人々、虚弱な人々、苦痛にあえぐ人々、寄るべなき人々、悲嘆に首をうなだれ胸を塞がれる思いをしている人々に少しでも援助の手を差しのべてあげることです。霊の力は人間を媒体として注ぎ込む機を窺っております。その機を見つけると、病気の場合であれば治癒力を見せつけることによって、人間の協力さえ得られれば見えざる世界の威力と光明とをもたらすことができることを示します。
霊の力はすなわち生命力です。生命があるのは霊があるからこそです。霊は生命であり生命は霊です。この壮厳にして途徹もなく広大な宇宙を創造した力も、あなた方を生かしめ、これから後もずっと生かしめていく力と同じものです。又、あなた方が愛し合い、物を思い、心を遣い、判断し、反省し、決断し、勘案し、熟考し、霊感を受け、人間的情感の絶頂からドン底までの全てを体験させる力、それは霊の力なのです。
あなた方の一人一人が神であり、神はあなた方一人一人であると言えます。程度の差があるだけで、その本質、実質においては同じです。人間は言わばミクロの神です。その神の力が病人を癒すのです。その力を分析してお見せすることはできません。何で出来ているかを説明することもできません。私に言えることは、それが無限の形態をとって顕現している – なぜなら生命は無限だから、ということだけです。
霊媒現象の全てに共通した問題は、その霊的エネルギーのコントロールです。どのエネルギーがどれだけ発現できるかはその時の条件一つに掛かっています。言いかえれば、その霊媒の有する資質と、それをより大きくより効果的にするための修行をどこまで心掛けるかに掛かっています。私たちの側においても常に新しいエネルギー、新しい放射線、新しい可能性を徐々に導入しては実験(ため)しております。
ですが、そうしたものも霊媒の身体的、精神的、霊的適性によって規制を受けます。受容力が大きければ、それだけ多くのものが導入されます。小さければ、それだけ制限されることになります。
霊力そのものは自然法則によるもの以外には何一つ制約はありません。自然法則の枠(わく)組みから離れて働くことだけはできないのです。が、その枠組みというのが途方もなく広範囲に亘っており、これまで地上の霊媒を通じて顕現されてきたものよりはるかに多くのものが、いまだに顕現されずに残されております。
私が指摘しておきたいのは、多くのまじめで信心深い人々が神の力がバイブルに記録されている古い時代にその全てが顕現され尽くしたと思い込んでいるのは間違いだということです。啓示もそれ以来ずっと進歩し続けております。現代の霊媒を通して顕現されている霊力の方が過去の時代のものに較べてはるかに偉大です。
さてあなた(エドワーズ氏)は豊かな恩恵に浴しておられるお一人です。あなたのすぐ身のまわりで働いている霊の姿をご覧になる視力があればよいのにと思われてなりません。背後霊の存在に確信を抱き、あなたを導く霊力に不動の信頼を置いておられますが、その背後霊が誰でありどんな人物であるかをご覧になれたら、もっともっと自信をもたれることでしょう。
(エドワーズ氏の背後霊団の中心的指導霊は一九世紀の英国の外科医で消毒殺菌法の完成者J・リスターとフランスの化学者で狂犬病予防接種法の発見者L・パスツールであると言われる。なおエドワーズは一九七六年に他界している – 訳者)
私のような古い霊が確信をもって言えるのは、あなたの地上生活は今日の絶頂期を迎えるベく、ずっと導かれてきているということです。意図された通りのものを今まさに成就されつつあります。今まさにその目的地に辿り着かれました。背後霊団があなたの協力を得てはじめて成就できる仕事に携わっていることを喜ぶべきです。以上の私の話に納得がいかれましたか」
「よくわかります。ただ、そうなると二つの疑問が生じます。一つは、背後霊団はもう少し私たち治療家を効果的に改良できないものかということです。たとえば両足とも不自由な子供がいるとします。一方の足は良くなったのに、もう一方の足は良くならないことがあります。どこに問題があるのでしょうか。私は治療家の側に問題があるに違いないと思うのです。なぜなら、一方の足が治せれば当然もう一方も治せなければならないからです」
「治療家が望むとおりの結果、あるいは治療霊団がその時に目標としたとおりの成果が得られるとはかぎりません。霊媒(治療家)を通して得られる限られた治癒エネルギーでもって最大限の治療効果をあげなければなりません。一つの治療に全部のエネルギーを集中すれば一気に効果があげられるかも知れません。が、次の治療のためのエネルギーを溜めるのに長い時間を要することになります。
一つ一つが実験だと私は言っているのです。治療霊団も前もってこれはこうなるという保証はできません。効果が出ることはわかっても、どこまで治るかはわかりません。前もって知ることのできない要素がいくつもあるからです。それは治療活動を制約することになるかも知れません。ですが、それまで少しも治らなかったものに治る兆しが見えるだけでも喜ぶべきことです。
それは立派な貢献と言えます。それだけでもあなたは堂々と背後霊団に向かって“さあ、この私を使ってください。みなさんを信じています。あなた方の言う通りにいたします”と公言する資格があります。もちろんあなたのもとに連れて来られた患者が魔法のように即座に治ればこんなにうれしいことはありません。が、それは有り得ないことです。
問題がいろいろとあるのです。この仕事も言わば開拓者(パイオニア)的な分野に属します。あなたに協力している霊団は一つ一つの症状の変化を知った上で、さらにテクニックを改良し効果をあげるために他の要素を導入しようと急がしく立ち働いております。治療に当るたびに症状が改善されているのを観察されているはずです」
「おっしゃるとおりです」
「協力関係が密接であるほど、多くの霊力が伝達されるのが道理なのですが、それを制約する要素としてもう一つの問題が絡んできます。議論の多い問題に踏み込むことになるのは百も承知ですが、それが事実であるからには黙って見過すわけには行きませんので敢えて申し上げますが、どうしても避けられない要素の一つに患者のカルマ(宿業)の問題があります。当人の霊的成長の度合によって決められる精神と身体の関係です。お分りでしょうか」
「どうぞその先をお話ください」
「そうおっしゃると思っていました。これは実に重大な問題であり、あなたにとっても意外に思われることも含まれております。心霊治療の仕事の大切な要素は身体を治すことではなくて魂の琴線にふれさせることです。魂を目覚めさせ、身体への支配力を大きくさせ、生きる目的を自覚させ、霊的存在としての本来の自我を表現させることに成功すれば、これは治療家として最大の貢献をしたことになります。
そのことの方が身体を治すことより大切です。それが治療家としてのあなたの努力として、永遠に残る要素です。人間は精神と肉体と魂とが一体となったものです。これに、その三者が互いに絡み合って生じる要素もあります。その影響を無視してはいけません。
病気というのはその大半は主として精神と肉体と魂との間の連絡が正しく行われていないことに起因しています。正しく行われていれば、つまり完全な一体関係にあれば完全な健康と安定性と落着きと機敏性を具えています。もっとも、そういう人物は地上では滅多にお目にかかれません。
さて、あなたのもとを訪れる患者はその人なりの霊的成長段階にあります。人生という梯子(はしご)の一つの段の上に立っているわけです。それがどの段であるかが、その人に注がれる治癒力の分量を決します。それが私のいうカルマ的負債です。
(その負債があまりに大きくて)あなたにも手の施しようのない人がいます。肉体を犠牲にする、つまり死ぬこと以外に返済の方法がない人もいます。もう一度チャンスが与えられる人もいます。そんな人があなたとの縁で完治するということになる場合もあります。精神的要素のために治らない人もいます。そんな場合は一時的に快方に向かっても、また別の症状となってぶり返すでしょう」
「ということは、カルマ的負債の方がその人に注がれる治癒力より大きいのだと思います」
「おっしゃるとおりです。私はぜひその点を強調したいのです。それが当人に賦課された税金であり、自分で綴っている物語(ストーリー)であり、その筋書きは他の何ものによっても書き変えることはできないということです。初めに私は全ては法則のワクの中に存在すると申し上げました。何ごともそれを前提として働きます。人間のいう奇跡は生じません。自然法則の停止も変更も廃止もありません。全てが原因と結果から成り立っております。そこに自由への制約があります。もしも因果関係がキャンセルできるとしたら、神の公正が崩れます。治療家にできることは魂を解放し、精神に自由を与えてあげることです。その結果が自然に身体に現われます」
「それがカルマ的負債を返済する手助けをしてあげることになるのでしょうか」
「そのとおりです。私が心霊治療家はその患者の魂の琴線にふれ、自我に目覚めさせ、生きる目的を自覚させることが一ばん重要な役目であると申し上げる理由はそこにあります」
「私たち治療家が例外なく体験することですが、心の奥底からのよろこび、高揚、崇高な情感、崇高な理念が湧き出るのを感じることがあります。あなたがおっしゃるのはその時のことだと思います」
「天と地とが融合した極限の瞬間あっという間の一瞬でありながら全ての障壁が取り除かれたとき、人間は自分本来の霊性を自覚します。すべての束縛を押しやぶり、霊の本来の感覚であるところの法悦(エクスタシー)の状態に達するのです」
ここでエドワーズ氏が再びカルマ的負債の問題を持ち出すと、シルバーバーチはスピリチュアリズムの本来の大きな使命にまで敷衍(ふえん)してこう述べた。
「あなたも私も、そしてこれに携わる人のすべてがそれぞれに役割分担を担っているスピリチュアリズムの全目的は、人類の魂を呼び醒まして一人でも多くの人間に本当の自分に気づかせること、自分とは一体なにか、誰なのかを知ることによって、ふだんの日常生活の中において霊の本性と属性を発揮することができるように導いてあげることです。
それによって地上生活のすべてが姿を一変し、利己主義という名の雑草の生い繁る荒野から理想の花咲くパラダイスへと変わることでしょう。われわれは今それを目標として努力しているのであり、まずまずの成功を収めつつあります。光明を見出す人、真の自我に目覚める人、物的な居睡りの生活から目覚める人 – こうした人は人間本来の道を見出し、確信と知識とを携えて巡礼の旅に出る魂であると言えましょう」
この言葉に感動したエドワーズ氏が「これだけお教えいただけば十分です。治るということ自体は重要ではないということですね」と述べると、
「私たちスピリットが人間の苦しみに無関心であるという意味ではありません。病を抱えた人々の悲劇や苦痛や忙(わび)しさに無頓着でいるわけではありません。が、そうした問題の究極の原因に手をつければ、精神と身体と霊との間の不調和に終止符をうつことができ、そうなれば地上生活が必要としている光輝がふんだんに注がれるのです。神の子が享受すべく意図されている本来のもの – 気高かさ、崇高さ、威厳、豊かさ、光輝、美しさを見出すことでしょう。
こうした生活の末に死を迎えれば、来世に備えるための地上生活の大役を果たした肉体を何の苦痛もなく脱ぎ棄てて、らくに霊界への門をくぐり抜けることができます」
そのあとエドワーズ氏の奥さんの方を向いてこう述べた。
「これまでに成就されたことを奥さんも大いによろこんでください。今この場に集まっている霊界の(エドワーズ氏の)治療霊団の方が、奥さんの果たされた犠牲的な役割に対して抱いている感謝の気持をぜひ私の口から伝えて欲しいと頼んでおられますよ」
これを聞いて奥さんが「自分はこんなことで良いのだろうかと時に迷ったこともありました」と述べると、シルバーバーチはさらにこう述べた。
「私は、私よりはるかに奥さんを知り尽くしているスピリットから頼まれて申し上げているだけです。霊団の人たちはあなたの心、あなたの精神、あなたの魂を知り尽くし、さらにあなたが捧げられた忠誠心と愛の強さもよく知っております。
その人たちが言っているのです – ご主人の使命達成を可能にした蔭からのあなたの助力に対する感謝の気持をぜひ伝えてほしいと。一方が脚光を浴びる立場にあれば他方はその蔭にいなければなりません。蔭の存在なくしては脚光を浴びる人もいないでしょう。私たちの目から見れば、人のために為された貢献は、黙って人知れず為されたものであろうと大勢の観衆を前にして華々しく為されたものであろうと、その評価にいささかの違いもありません」