ゲルションという名のパリサイ人がカペナウムからナザレへやって来た。彼は博識の学者で、断食をしてはよく祈る習慣を持っていた。その生きざまは、みんなから尊敬され、特に悪霊を追い出す力で有名になった。
パリサイ人の多くは、天国は楽しい所であると教えているが、ゲルションは全く反対であった。彼はいつも仏頂面をして、口を開けば、災害が間もなくやってくると預言をするのであった。悪霊を追い出すことに成功したときだけ顔が輝いた。
エルダトにはメダトという息子がいた。メダトには大変な悪霊がとりついて、どんな者が格闘してもメダトから離れようとはしなかった。父のエルダトは、この長男には人間の霊のかわりに野獣の霊が宿っているのではないかと心配した。
エルダトはイエスに打ち明けて言った。「私には、2人の息子がおりました。1人はヨナタンといって、とてもかわいい子でしたがとても残酷な死にかたでこの世を去りました。もう1人の息子メダトには、悪霊がついていて、かの有名なゲルションに頼んだのですが、追い出すことができませんでした。
悪霊がついてからもう5年にもなるのです。妻はすでに子を産む年齢を過ぎてしまい、私には世継ぎの希望が断たれてしまったのです。生きる望みもありません」
ユダヤ人にとってこれ以上の苦しみは考えられなかった。イエスは心から同情して言った。「あなたの息子と話をさせて下さい。たぶん悪霊を追い出すことができるかもしれませんので」
その頃のイエスは浮浪者だという評判がたっていたので、世間体を考えたのか、エルダトはせっかくのイエスの申し出を断った。エルダトは言った。
「ゲルションというパリサイ人がナザレにいますので、もう1度その方にやっていただこうと思っております。あなたも一緒においで願いたいのです。祈っている間にメダトがあばれまわり、近くに居る人々に怪我をさせないように2人で押えつけておかねばなりませんので」
月の光をたよりに、イエスは非運な親子と共にナザレへ行った。パリサイ人ゲルションは、自分の力を大層自慢して、必ずメダトを正常な人間にしてやると豪語した。村の人々もやってきて、奇跡がいつ起きるかと固唾(かたず)をのんで見ていた。
ゲルションは、屋外に焚火をつくり、生石灰を投げ込んで火力を強くした。悪霊を火中に投げ込んで、2度と人間にもぐりこめないよう焼き殺してしまうのだそうである。この様子を見ていた年老いた律法学者は言った。
「ガリラヤ湖のほとりでは、悪霊は水の中で溺れ死にさせるんだがね。しかし水がないときには、火もまたよく効くもんじゃ」父が息子をゲルションの前に連れていくと、メダトは全然口をきかず、黙っていた。彼はもの静かにふるまい、他の人々とちっとも違うところはなかった。
しかしゲルションが祈りの言葉を発し、悪霊をおいだすための呪文をかけようとしてから、突然口から泡をふきだし、この聖人を呪いだし、焚火の中から燃え盛っている枝木をつかみ取り、大声で笑いながらゲルションの顔をめがけて投げ付けた。
それで3人の男がメダトを地上にねじ伏せ、動けないように押さえこんだ。ゲルションは長い長い呪文の祈りをとなえた。しかし一向に効き目があらわれず、悪霊は前よりもしっかりとメダトに食いついていた。ついにゲルションは父に向かって言った。
「もうわしの手にはおえんわい!こんなひどい奴を追い出せる者は他におらんぞ!」人々はこの大変な怪物を恐れた。父は着ていた衣服を裂いて、嘆き悲しむのであった。しばらくしてからメダトがおとなしくなった頃、ゲルションは腕っ節の強そうな男たちに太い縄でしばり上げるように命じた。
ゲルションは顔に焼けどを負わされ、これ以上他人に危害が及ぶのを防ごうと思った。そのとき、イエスは若者とメダトの間に割って入り、彼の縄をほどいてやり、優しくメダトに向かって話し出した。『兄弟よ!起き上がりなさい!天の御父が私と一緒におられます。天の御父の御名によって汚れた霊に命じる!この人から出て行きなさい!自分たちの住む暗黒の世界に帰りなさい!』
しばらくの間、深いしずけさが続いた。ゆっくりとメダトは立ち上がり、彼の大きな体をイエスの前に突き出した。不思議なことに、彼の肉体は笛のような美しい音を発し、両目からは大粒の涙が流れていた。大きな溜め息を吐いてから、彼はイエスの前にひれ伏し、両手を地にっけて叫んだ。「私をお救い下さった方よ!」
その叫び声はこの世のものとは思えなかった。それはちょうど死者が再び生き返ったときに、肉体をふるわせるような声であった。彼は2度と暴れることはなかった。彼は静かに目を上げながらイエスに向かって言った。「あなたは、どなたでしょうか?預言者ですか?永い間、暗黒の世界に閉じ込められていた私を呼び出して下さった預言者エリヤですか?」
イエスはあわてて言った。「違います、さあ、立ち上がって下さい。そして私と一緒に家に帰りましょう」イエスはさっと振り向き、騒然として見物していた人々を尻目にしながら足早にそこを立ち去った。大きな巨人が、痩せた男の後について歩く様は、主人の後に忠実についていく犬のようであった。
集まっていた人々は、口々に神をほめたたえた。彼らはエルサレムからやってきた誇り高きパリサイ人ができなかった奇跡を、無名なナザレ人が成し遂げたことに感動したからであった。
ゲルションは、ナザレの村に昔からいる律法学者の所に滞在していた。この律法学者こそイエスが育ち盛りの頃、散々いじめぬいた腹黒い教師であった。この律法学者は、もはや年老いて、杖にもたれるように歩き、心は醜い体つき以上にひねくれていた。あちこちをうろついては毒へびのように悪意に満ちたうわさを善良な人々へ吹きこんでいた。
「わしは、奴のことをよく覚えておる。奴は安息日のおきてを何度破ったことか、数えきれぬ程じゃ。この頃では、盗っ人たちと付き合いおって“海の道”とか言う岩山の中で暮らしているそうじゃ。奴が悪霊を追い出せたのは、悪魔の大王ベルゼブルの力にすがったからじゃ。大工のせがれには気を付けなよ!奴は疫病みたいな恐ろしい悪党じゃからな」
このうわさが村中に広がり、腹黒い律法学者は、麦の成育を邪魔するアザミのような種をあちこちにばらまいて歩いた。多くの者はパリサイ人を尊敬していた。
それで人々は「ゲルション様は日ごろからよく断食をなさるそうだ、けれどイエスは断食をしない。ゲルション様は礼拝堂ではとてもすばらしい説教をなさるそうだ」とささやきあっていた。
そんな訳で人々の間では、ゲルション以上に高貴で聖なる人はいないと思われていた。そこで腹黒い教師は、とどめを刺すように言った。「ゲルション様が悪霊を追い出さなかったのは、悪霊同志で相打ちをさせるために、わざと手を出されなかったのじゃ」
悪いうわさ話は、あっという間に狭い村中をかけめぐった。ナザレの人々は単純だったので、事の善しあしはともかく、ただ中央(エルサレム)からやってきたパリサイ人というだけで崇めるのであった。
それから数日たってから、とんでもない事が起こった。みんなから頼まれたと称して例のパリサイ人が、トマスの職場にやってきて隅から隅まで点検を始めた。モーセの律法にどれだけ忠実に従っているかを調べるために、重箱の隅をつつくようないやがらせをしたのである。イエスに対する腹いせのため、トマスの家ばかりではなく、親戚にも手をのばす始末であった。
イエスの方は、実に快適な生活が始まった。大事な息子を癒してくれたというので、一家をあげてイエスに敬意をはらい、イエスも何の束縛もうけず、自由に過ごすことが出来た。殊に癒(い)やされたメダトは、イエスの後にいつもついて歩き、農場では誰よりも熱心に働いた。
メダトはイエスの勧めによって母によく仕えるようになった。水差しを運んであげたり、母のためには何でも喜んで手伝った。以前のような呪いの文句を並べることがなく、とても丁寧な言葉使いをするようになった。そうこうしているうちに、メダトの心はぐんぐん成長し、家族の者や彼に接する人々のすべてから好感をもたれるようになったのである。
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