【6/8】霊界通信 ベールの彼方の生活 4巻 「天界の大軍」篇 3 コロニーのその後

1918年1月28日 月曜日

かくして吾々の旅と使命はこれまで叙述したごとくにして終了しました。吾々の話について何かご質問があれば…実はさきほどから貴殿の精神の中にいくつか質問が形成されつつあるのが見えるのです。今お答えしておいた方が都合がよいでしょう。

– ええ、2、3お尋ねしたいことがあります。まず第1は、前回の通信で“礼拝の冠”でしたか、何かそんな用語を使っておられましたが、あれはどんなものでしょう。

こちらの世界では情緒も思念も、何ひとつとして外部に形体をとって現れないものはありません。貴殿が身のまわりにご覧になる地上のものも、元はといえばすべて思念の表現体です。思念はことごとく、全生命の根源である究極の実在すなわち神に発しています。

現象界の思念はすべてその神という焦点へ向けて内向していきます。つまり、すべての思念の根源は神で、そこから発したものが再び神に回帰していくという、果てしない循環運動をしております。

その途中の過程において思念の流れはさまざまな序列の権威、忠誠心、ないしは神との一体性を有する存在の精神的操作を経てゆく。つまり大天使、中天使、小天使、そして普通のスピリットの影響を受けて、あるものは天国、あるものは地獄、あるものは星雲、あるものは太陽系、その他、民族、国家、動物、植物、要するに貴殿らが“もの”と呼ぶものすべてとなって顕現されている。

それらはみな個性を具えた存在による外部へ向けての思念操作によって“生産”され、その想念が同じ界に住む者ないしは連絡を取り合っている界の住民の感覚に反応する表現形態を取ります。

それのみではありません。あらゆる界層の想念は、地上であろうと地獄であろうと天国であろうと、それなりの能力を有する者には明瞭に感得することができます。

ですから、たとえば貴殿のすべての思念は吾々が住んでいる言わば天国の下層界においても、至聖至高の絶対神の心臓の鼓動の中に存在する実在界においても感識されているといっても決して過言ではありません。

壮厳をきわめる事柄においても、些細な事柄においても、原理は同じということです。かくして吾々の界層の一団が発する思念は、その大気の温度にも色合いにも反映します。(地上的用語を用いていますが、それ以外に表現方法がないのです)

それで一人物の性格と霊格は衣服の生地、形、色彩、身体の姿かたち、背丈、肌ざわり、身につけている宝石の色彩と光沢等々、さまざまな形で顕現されていることになります。

そういう次第で彼の地での使命を終えて帰ってきたときの吾々は以前には欠けていた性質を個性の中に吸収していたために、冠帯に宝石が1つ加えられていたのです。

主お1人の独断でおやりになったのではありません。こちらの世界ではすべてが厳正にして精密な理法の働きによって決定され、しかも神の恵みにあふれた形で実施されます。私があの頭飾りを“礼拝の冠帯”と呼んだのは、それがいつも目に見えているわけではなくて、吾々の思念が礼拝に集中している時にのみ目に映じるからです。

その時になると吾々の頭髪の上に形体を現し、髪を束ねて耳の後ろで留めてくれるのです。それを飾っている数々の宝石は吾々に相応しいものとして選んで付けられたのではなくて、吾々が1界また1界と降りていきながら身につけた資質が自然に生み出したものです。

今それに加えてもう1つの宝石が、最終的使命を託されていた暗黒界での功績のしるしとして与えられたという次第です。そうした宝石や珠玉に関しては、たとえ私には何とか意味だけは言葉に移し得ても、貴殿に理解していただけそうにないことが多々あります。

貴殿もいつの日かその美しさ、それが象徴しているもの、そしてそれに生命を賦与しているもの、さらにはその威力について知ることになるでしょうが、今はまだ無理です。一応この程度にさせていただいて、次の質問に移りましょうか。

– どうも。ではあなたが大ぜいの人を救出して小キリスト(とお呼びしたい方)に預けたというコロニーについて、何かお話しねがえませんか。

あの方を小キリストとお呼びになられて結構です。そうお呼びするに相応しい方ですから。よろしい。ではお話いたしましょう。あのとき私に同行した一団のうちの2、3名とともに、私はあのコロニーをその後数回にわたって訪ねております。小キリスト殿にそう約束してあったのです。

そして彼が私の期待に背かずよくやってくれていることを知りました。まずその点をよく銘記しておかれたいのです。私は彼の仕事ぶりに100パーセント満足しております。が、実はそれがある意味で彼にとっての試金石となりました。最終的には私が期待していたとおりにならなかったからです。

そのコロニーを時おり訪問したり、私の名代として派遣した者から報告を聞いたりすることは私にとってきわめて興味ぶかいことです。最初に訪ねたとき市街はなかなか整然としておりました。しかし、その境涯で手に入れる材料ではやむを得ないのでしょうが、建物そのものが粗末で優美さに欠けておりました。完全性に欠けているようでした。

でも私は称賛と激励の言葉を述べ、さらに一層の計画の推進に邁進するように言い残して帰りました。そうやって何度か訪ねているうちに私は、小キリスト殿 – この呼び方では不便ですから名前を付けましょう。取りあえずバーナバス(※)と呼んでおきましょう – そのバーナバス殿が“指導性をもった”人物ではあっても“指揮命令を下す”タイプではないことが判ってきたのです。

彼の場合は愛によって説得するタイプでした。それはそれなりに影響力はありました。理解する者が増え、成長とともにその愛に応えることができるようになっていったからです。彼は叡智に富んだ人物ですが指揮統率力に欠けるのです。

そのうち彼自身もそのことに気づきはじめ、例の謙虚さから素直に、そして何の恥じらいもなく、それを認めることができました。そういう次第で、内面的に深い問題や霊的なことがらに関しては彼が指導し、今も指導に当たっておりますが、組織全体の管理の面では、少しずつでしたが、例のキャプテンに譲っていきました。

この男は実に強力な個性の持ち主で、いつの日か光明界においてもきらびやかな存在、強力な指導者となって、果敢に大きな仕事を成し遂げていくことになるでしょう。なかなか豪胆な人物です。

(※ Barnabas は聖書の使徒行伝4・36その他数か所でバルナバという呼び方で登場する人物と綴りが同じで“慰めの子”“訓戒”などの意味があるという。パウロの友人で使徒の1人に数えられており、断定はできないが、これが小キリストと同一人物であってもおかしくはない – 訳者)

彼は徐々に住民たちの閉ざされた記憶の層から地上での曽ての自分の仕事で使用した技能(うで)を思い出させ、それを今の仕事に使用させていきました。金細工人だった者、木細工人だった者、彫り師だった者、石工だった者、建築家だった者、画家だった者、音楽家だった者等、それぞれの仕事に従事させたのです。

私が訪ねる毎にその都市が秩序と外観に改善のあとが窺われ住民が一段と明るくなっておりました。そしてそれ以外にもう1つ別のことを発見しました。私があの鉱山から彼らを連れ出してその土地へ来た当初、そこに見られた明りはせいぜい“薄明り”といったところで、およそ“光”と言えるものではありませんでした。

ところが私が訪れる毎に一段と“光”と言えるものに近づいていき、可視性の度合がその市街全体に行きわたり、さらに広がって周辺の土地一帯にも微光が射しておりました。これは1つにはバーナバス殿の地道な精神的指導の結果です。と言うのも、各自に本来の正しい精神的方向づけをしたのは彼なのです。

つまり愛の力によって強烈な霊的憧憬を抱かせ、それが真剣味を帯びるにつれてまず内部の光が増し、それが次第に外部へと放散されて、結果的にその土地の大気が明るさを増していったのです。

かくして2人はそれぞれの特質を発揮して忠実に協力し合いながら、これまで立派な仕事を為しとげ、これからもなお為しとげていくことでしょう。それは私にとって大いなるよろこびであると同時に、道を見失える魂を求めて私と共に暗黒の道なき道を分け入って苦を共にした霊団の者たちすべてにとってもよろこびでした」

– 周辺の土地にいる者は何も悪いことはしないのですか。

その問いに対してのみ答えれば「ノー」です。今はしなくなりました。しようとする様子もありません。が、心身とも弱り果て、とても敵と戦えない状態でそこへきた当初は大いに悩まされました。

その前に大事なことをお話しましょう。まずはじめに多分貴殿が不思議に思うであろうことをお話しましょう。貴殿はヨハネが(黙示録に)書いている12の部族から12000人ずつ(計144000人)の者が救われた話を憶えておられるであろう。

さよう、吾々が救出し人数もそれと同じだったのです。なぜ、どうしてそうなったのかと聞かれることでしょう。それは、あの仕事を計画された上層界の方々が目論(もくろ)まれたことです。吾々よりはるか高い世界のことなので、なぜかということは私にも分かりません。

ただ、これから先の永い進化の道程に関わることであることは確かです。いま貴殿は吾々の救出した数とヨハネの記録にある数字とが何か関係があるのだろうかと考えておられる。少なくとも“明瞭な”関係はありません。が、暗示的な意味はあります。

それは、あの集団の発達していく過程の中に具体化されていくことでしょう。そして、いずれ彼らは天界において新しい、そして自己充足の – どう言えば貴殿に分かっていただけようか – そういう領域を形成することでしょう。“新しい界層”ではありません。天界の中の“新しい領域”です。

さてご質問の件ですが、初めのうちは周辺の部族の者がやってきて、真面目に働いている者たちに侮辱的な言葉を吐き棄てては去っていくということを繰りかえすので大いに困りました。彼らは別の部族にも通報するので、そういう嫌がらせがひんぱんになりました。そのうち嫌がらせが当分なくなりました。

が、キャプテンはかつての用心深さと才覚を取り戻していて、周辺の丘や見張所に見張番を置いて警戒させました。そのうち分かったことは、周辺の部族が一団となって軍隊を組織し、あれやこれやと隊員たちの士気をあおるようなことをやりながら教練をしているということでした。こうした、言うなれば似非(えせ)実在界ではよくあることなのです。

しかし、そうするうちにも吾々の救出した者たちは力と光輝とを増していき、いよいよ彼らが攻めてきた時にはどうにか撃退することができました。戦力と意志の総力をあげた長く烈しい戦いでしたが、ついに撃退しました。

それは彼らが – 奇妙で矛盾しているように聞こえるかも知れませんが – 真実の戦いとなったら絶対に負けないだけのものをすでに身につけていたからです。その最大の武器となったのは身体と大気から出る光輝でした。

今なお暗黒の闇の中に浸っている敵にとってはそれが大変な苦痛なのです。その光輝の届く範囲に入った敵はコロニー全体のオーラのもつ進歩性に富んだ性質が苦痛に感じられ、身を悶えて叫び声を上げるのでした。

その後もそのコロニーは向上しつつあります。そして増加する光輝の強さに比例して少しずつその位置が光明界へと移動しております。これは天界における霊的状態と場所との相互関係の原理に触れる事柄で、貴殿には理解が困難 – 否、不可能かも知れません。それでこれ以上は深入りしないことにします。

かくして敵はますます近づき難さを覚えるようになっていき、一方、コロニーの住民は敵が攻めてくる毎に危険に対する抵抗力が増していることを知るようになりました。敵が立ち往生する位置が次第に遠くになっていったのです。

こうして領域が広がってきたコロニーでは、小集団を周辺の土地に住まわせて農耕に従事させ、さらに植林と鉱石の採掘をさせました。鉱山の仕事の着手は最後になりました。かつての苦しい記憶からみんながしり込みしたからです。

しかし鋼鉄の必要性に迫られて、大胆で思い切りのいい男たちが掘りはじめました。やり始めてみると、奴隷として働くのと自由の身で働くのとではまったく違うことが分かり、そのうち志願者にこと欠かなくなりました。

このように、善性の増加が住居と市街全体の光輝を増していきます。それが力となるのです。なぜなら光輝の増加は霊格の向上のしるしであり、それは霊的な力が増加したことを意味します。従って敵も彼らに対してまったく無力となっていくのです。

どうぞ貴殿もこの点によく注目してください。と言うのも、地上の巡礼の旅において敵に囲まれている者にとっても、この事実は有難いことに違いないからです。その敵は地上の人間であっても霊であっても、いいですか、バーナバス殿のコロニーの周辺にいる敵と少しも変わらないのです。コロニーが光明界へ近づくにつれて敵は遠く離れていき、下層の暗黒界に取り残されていくのです。

貴殿へ私より愛と祝福を。

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Posted by たきざわ彰人(霊覚者)祈†