【10/21】霊関連書籍の内容の抜粋です(祈)†「シルバーバーチの霊訓①」
—–十章
『シルバーバーチの霊訓①』
【シルバーバーチの交霊会では開会の祈りと講話の後“何かお聞きになりたい事がありますか。もしあれば私の知る限りで精一杯お答えしましょう”と述べる。質問はあらかじめまとめておいて司会者が述べる事もあるが(投書による質問もある)、―】
『シルバーバーチの霊訓①』
【招待客がその専門分野、たとえば心霊治療について直接質問する事もある。そのうちの幾つかを紹介する―】【もう一度やり直すチャンスは全ての人に与えられるのでしょうか―】もちろんです。
『シルバーバーチの霊訓①』
やり直しのチャンスが与えられないとしたら宇宙が愛と公正とによって支配されていない事になります。墓に埋められて万事が終るとしたら、この世は実に不公平だらけで生きてきた不満の多い人生の埋合せもやり直しも出来ない事になります。
『シルバーバーチの霊訓①』
私どもが地上の人々にもたらす事のできる最高の霊的知識は人生が“死”をもって終了するのではないという事、従って苦しい人生を送った人も、失敗の人生を送った人も、屈辱の人生を送った人も、皆もう一度やり直す事が出来るという事。
『シルバーバーチの霊訓①』
言いかえれば悔し涙を拭うチャンスが必ず与えられるという事です。人生は死後もなお続くのです。永遠に続くのです。その永遠の旅路の中で人間は内在している能力、地上で発揮し得なかった才能を発揮するチャンスが与えられ、―
『シルバーバーチの霊訓①』
―同時にまた愚かにも摂理を無視し他人の迷惑も考えずに横柄に生きてきた人間は、その悪業の償いをするチャンスが与えられます。神の公正は完璧です。騙す事も、ごまかす事も出来ません。全ては神の眼下にあります。神は全てをお見通しです。
『シルバーバーチの霊訓①』
そうと知れば、真面目に生きてきた人間が何を恐れる事がありましょう。恐れる事を必要とするのは利己主義者だけです。
『シルバーバーチの霊訓①』
【祈りに効果があるでしょうか―】本当の祈りと御利益信心との違いを述べれば、祈りが本来いかにあるべきかがお分りになると思います。御利益信心は利己的な要求ですからこれを祈りと呼ぶ訳にはいきません。ああしてほしい、こうしてほしい。
『シルバーバーチの霊訓①』
カネがほしい、家がほしい―こうした物的欲望には霊界の神霊はまるで関心がありません。そんな要求を聞いてあげても当人の霊性の開発、精神的成長にとって何のプラスにもならないからです。一方、魂の止むに止まれぬ叫び、霊的活動としての祈り、―
『シルバーバーチの霊訓①』
暗闇に光を求める必死の祈り、万物の背後に控える霊性との融合を求める祈り、そうした祈りもあります。そうした祈りには魂の内省があります。つまり自己の不完全さと欠点を自覚するが故に必死に父なる神の加護を求めます。
『シルバーバーチの霊訓①』
その時の魂の状態そのものが既に神の救いを受入れる体制となっているのです。ただこれまでも何度か述べた事がありますが、そうした祈りをあえて無視して、その状態のまま放っておく事が実はその祈りに対する最高の回答である場合がよくあります。
『シルバーバーチの霊訓①』
こちらからあれこれと手段を講じる事がかえって当人にとってプラスにならないという判断があるのです。しかし魂の奥底からの欲求、より多くの知識、より深い悟り、より強い力を求める魂の願望は、自動的に満たされるものです。
『シルバーバーチの霊訓①』
つまり、その願望が霊的に一種のバイブレーションを引き起こし、そのバイブレーションによって当人の霊的成長に応じた分だけの援助が自動的に引寄せられます。危険の中にあっての祈りであれば保護のためのエネルギーが引寄せられ、同時に救急のための霊団が派遣されます。
『シルバーバーチの霊訓①』
それは血縁関係によってつながっている霊もおれば、愛の絆によって結ばれている類魂もおります。そうした霊たちはみな自分もそうして救われた体験があるので、その要領を心得ております。
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