【12/17】私は霊力の証(あかし)を見た 奇跡の心霊治療 第11章 なぜこの世に生まれて来るのか
実はこの世とまったく別の世界が存在するのである。スピリットの世界である。あなたはそこからやって来た。そして、またそこへ戻っていくのである。この世とは違うといっても時間とか距離的に違うのではなくて、物理学でいうところの振動の波長が異るのである。
かりにリップ・ヴァン・ウィンクル(日本の浦島太郎と同じアメリカの伝説上の人物)が100年後のいま戻って来たとしよう。あなたはさっそくリップにこう教えてあげる。
「あなたの身のまわりには無数の音楽が流れているんですヨ。交響曲あり、ダンス音楽あり、行進曲あり。歌もあるし、しゃべっている人もいるし、劇もやってますヨ」と。
それを聞いたリップは多分あなたを気狂い扱いにするであろう。そこであなたは、やおらポケットからトランジスタラジオを取り出してスイッチを入れる。なるほど、いろんな声、いろんな音楽が聞こえる。リップはキツネにつままれたような気分になるであろう。
実はスピリットの世界もこれと同じなのである。われわれの身のまわりに常に存在している。ただ波長が異るために感応しないだけである。従ってその世界の実体を知ろうと思えばトランジスタラジオのような特殊な受信器が必要となる。それがいわゆる霊媒または霊能者と呼ばれている人たちである。
霊媒を通じてわれわれ人間も霊界のスピリットと交信することが出来る。もっとも、交信はできても、霊媒の身体をのぞいて霊界が見えるわけではない。ラジオをのぞいても放局のアナウンサーは見えないのと同じで、要するに霊媒も受信器にすぎないのである。それが、条件さえ整えば、霊界の波長をキャッチする。
そのとき霊媒は無意識の状態(入神状態)にあるかも知れないし、人によっては見たところ平常と変わらないこともある。その状態で霊媒はスピリットからの波長をとらえて地上の人間に感応する波長に変えてくれる。無線の波長をとらえて人間の耳に聞こえる波長に変えてくれるトランジスタラジオと本質的にはそう違わない。
こうした霊界との交信は交霊会という形ですでに確実に定着している。霊界との交信が始まると、もはや霊媒をラジオに譬えるのは事実にそぐわなくなる。なぜかと言えば、ラジオはこちらから放送することは出来ないが、霊媒の場合がそれが可能だからである。スピリットと会話を交えることが出来るのである。
かくしてわれわれはこうした交霊を通じて死と死後の世界についての驚くべき知識を手にすることを得ているのである。スピリットは常に進化を求めて活動している。このためには経験と教育と悟りが必要である。地上というところは地上でなければ得られない特殊な体験を提供するところである。
言ってみれば特別の教育施設、それも極めて基礎的な教育を授ける場である。あなたがこの地上に来たのはその教育を受けるためである。あなたの魂の進化の今の段階で必要とする苦難と挑戦のチャンスを求めてやって来たのである。
地上生活中は霊界から何人かのヘルパーが付く。いわゆる背後霊である。あなたと同じ霊系に属するスピリットで、困難や悩みに際してアドバイスしてくれたり慰めてくれたり援助してくれたりする。
実はあなたがこの世に来るに際しても、その背後霊(となるべき仲間)といっしょになって、地上で辿るべき行程と体験について検討し、最終的には、あなた自身がこれだと思う人生を選んだのである。
その仲間たちはあらかじめ霊界から地上を調査して、あなたの霊的成長にとって適切な体験を与えてくれるコースを選んでくれている。あなたが得心がいくと、いよいよその仲間たちと別れを告げる。これは、あなたにとっても仲間たちにとっても悲しみであろう。
というのは、地上生活中も背後霊として援助するとはいっても、その意思の疎通は肉体によって大幅に制限されるからである。やがてあなたは一種の睡眠状態、死にも似た深い昏睡状態に入る。地上では、両親となるべき一対の男女が結ばれる。やがて女性の胎内で卵子が受精する。その瞬間をねらって、あなたというスピリットがその種子に宿り、まず胎内生活を始める。
ここでいま世界中で問題となっている堕胎について一言述べてみたい。いま言った通りスピリットは受胎の瞬間に宿る。従って、いわゆる産児制限は悪いことではない。受胎していない時はまだスピリットは宿っていないからである。が、いったん受精(妊娠)したら、すでにそこに生命が宿っていると考えねばならない。
それ故、堕胎(中絶)は一種の殺人行為と見なさねばならない。生命を奪う行為だからである。胎児は9ヶ月に亘って母体のぬくもりと気楽さの中で生長する。そして10ヵ月目に大気中に生まれ出て、独立した生活を営むようになるわけであるが、人間としての生命はすでに受胎の瞬間から始まっているのである。その瞬間から地上へ移行するのである。
われわれ地上の人間は子供が生まれると喜ぶ。そして死ぬと悲しむ。当り前と思うかも知れないが、霊界ではそれが逆なのである。人間界へ子供が誕生した時、霊界では悲しみを味わっている仲間がいる。なぜなら人間界への誕生はすなわち霊界への別れだからである。反対に人間が死ぬと霊界では喜びがある。仲間との再会があるからである。
さて話を戻して、あなたがこの世で送る人生は、あなた自身が自分の教育にとって必要とみて選んだのである。仲間のアドバイスや援助はあっても、最終的には自分で選んだのである。従って責任はすべて自分にある。苦難に直面したり病気になったり大損害を被ったりした人は私にこんなことを言う。
「私はなぜこんな目に遭うのでしょうか。私はまじめに生きて来たつもりです。人を傷つけるようなことは何1つした覚えはありません。なのに、なぜこんな苦しい目に遭わねばならないのでしょう」と。
実はその苦しみがあなたにとっての教育なのである。溶鉱炉で焼かれる刀はそれを好まないかも知れない。が、そうやって鍛えられてはじめて立派な刀となるのである。苦しみ悩んではじめて霊的に成長し、苦難を乗り越えるだけの力が身につくのである。
不平を言う人とは対照的に、苦しみを神の試練と受けとめて感謝する人もいる。苦難こそ自分を鍛えるのだと心得て、そうした試練を受けられるようになった自分をむしろ誇りに思うのである。
要するに地上生活は勉強なのだ。人生が提供するさまざまな難問を処理していくその道程においてどれだけのものを身につけるか。それがあなたの霊的成長の程度を決定づけるのであり、さらにどれだけ高度なものに適応できるかの尺度ともなるのである。
人間にはある限られた範囲内での自由意志が許されている。が、この自由意志と宿命については、とんでもない説が行われている。まず一方には東洋の神秘主義者が主張する徹底した宿命論がある。
人生はすでに“書かれてしまっている” – つまり人の一生はその一挙手一投足に至るまで宿命的に決まっており、どうあがこうと、なるようにしかならないのだと観念して、乞食同然の生活に甘んじる。
もう一方の極端な説は何ものをも信じない不可知論者の説で、何でも“自分”というものを優先させ、他人を顧みず、人を押しのけていく連中である。物事の価値をすべて物質的にとらえ、「これでいいんだよ、きみ」とうそぶく。
両者とも真理をとらえそこねている。まず宿命について考えてみよう。あなたは白人か黒人か、それともアジアの黄色人種であるかは知らないが、いずれにせよ、その現実は変えようにも変えられない。両親の系統の遺伝的特質も少しずつ受けついでいる。これもどうしようもない。
また、あなたはこの20世紀に生を享けた。できることなら16世紀に、西洋のどこかの王室の子として生まれたかったと思うかも知れない。が、それもどうしようもない。そうした条件のもとであなたは今という1つの時期にこの世に生を享けている。寿命の長さも定まっている。
どんな人生を送るか、その大よその型も定まっている。また苦難の中味 – 病気をするとか、とんでもない女(男)と結婚するとか、金銭上のトラブル、孤独、薬物中毒、アルコール中毒、浮気 – こうしたこともみな、あらかじめわかっている。
あなたがいよいよ母体に入って子宮内の受精卵に宿った時、それまでのスピリットとしての記憶がほぼ完全に拭い去られる。ただし地上生活中のある時期にかならず霊的自我に目覚める瞬間というのがある。これもわかっている。そうした総合的な鋳型の中にあっても、なおあなたには自由意志がある。
宇宙は因果律という絶対的な自然法則によって支配されている。従って自由意志はあっても、その因果律の支配からは逃れることは出来ない。水仙の球根を植えれば春には水仙の花が咲く。決してひまわりやチューリップは咲かない。自分の指を刃物で切れば血が出る。それもどうしようもない自然法則である。
科学も哲学も生命そのものも、この因果律という基本原理の上に成り立っている。それが地上生活を支配するのである。大切な行為にはかならず反応がある。あなたの行為、態度、言葉、こうしたものはいわば池に投げ入れた石のようなもので、それ相当の波紋を生じる。
さきに私は地上に生まれるに際して霊的記憶が拭い消されると言ったが、実際はわずかながら潜在意識の中に残っているものである。それが地上生活中のどこかで、ふと顔をのぞかせることがある。その程度は人によって異るし、霊的進化の程度にもよる。
たとえば、ひどい痛みに苦しんでいるとする。かりに骨関節炎だとしよう。これは医学では不治とされている。さんざん苦しんだ挙句に、ある心霊治療家を知って奇蹟的に治った。嬉しい。涙が出る。感謝の念が湧く。
実はその時こそあなたが真の自我に目覚めた時である。この機に、その感謝とよろこびの気持でもって自分に奇蹟をもたらしてくれた力は一体何なのか、人間はどのように出来あがっているのか、信仰とは、幸福とは、といったことを一心に学べば、その時こそあなたにとって神の啓示の時なのである。
こうした体験はそうやたらにあるものではないが、もっとよくある例としては、仕事の上で右と左のどっちを取るかに迷っている時が考えられる。道義的には右をとるべきだが、そうすると金銭上は大損をする。
左をとれば確実に儲かるが、それは人間として2度と立ち戻れない道義的大罪を犯すことになる、といった場合もあろう。神の啓示に耳に傾けるか否かの決定的瞬間がそこにある。
さらにもっと日常的な例では、自分自身には厳寒の厳しさをもって律しても、他人には温かい寛容と忍耐心をもって臨む。その選択の瞬間に神の啓示のチャンスがある。
因果律は絶対に変えられない。歪げることも出来ない。無視することも出来ない。このことをしっかりと認識し、自分の道義心に照らして精一杯努力し、困難を神の試練と受けとめ、ここぞという神の啓示の瞬間には、たとえ金銭的には得策でなくても、道義的に正しい道を選ぶことである。
生まれた土地、時代、遺伝的特質、人種 – こうしたワク組の中で、あなたにも自由意志が与えられているのである。この観点から言うと、リンカーンの例の有名なゲティスバーグ演説は間違っている。全部は無用だから、問題の箇所だけを引用しよう。
「87年前われらが建国の父たちは、自由の理念の中に育まれ人間はみな生まれながらにして平等であることを旗印とした新しき国家を、この大陸に建設したのである。」
政治理念としては極めて健全である。が前提が間違っている。人間は生まれながらにしてみな平等ではないからだ。霊的進化の程度において、われわれは1人1人みな違う。見た目には似通っていても、1人は霊的意識も発達し思想的にも大人であるが、もう1人は動物的で未熟で霊的に子供であるという場合もある。
2人はそれぞれの程度に応じた勉強のためにこの世に来た。1人はもうすぐ宇宙学校の大学課程へ進めるところまで来ているが、もう1人は地上という幼稚園でさえまだ手に負えない“だだっ子”かも知れない。2人は断じて生まれつき平等ではないのである。
また、1人は五体満足で、もう1人は何らかの障害を生まれつき背負っていることだってある。一方は音楽の天才で、他方は音痴ということもあり得る。絵を画かせると一方はすばらしいものを描くが、他方はまっすぐな線すら描けないかも知れない。
一方はオーケストラの一員になり、他方はオモチャのドラムもまともに叩けないかも知れない。1人は霊的な仕事に携わり、他方は徹底した俗人として生きるかも知れない。
英国の歴史家フルードは「人間は生まれつき不平等である。従って、あたかも平等であるが如く扱おうとしても無駄である」とはっきり断言している。その通りなのだ。完全な平等など絶対あり得ない。生まれついた環境が違い、遺伝因子が異り、霊的進化の到達度に差がある。
多分リンカーンが平等だと言ったのは、権利の行使において平等の機会を持っているという意味で言ったのだろう。だが、これとて現実とは違う。生まれつき原始人的性格と才能しか恵まれていない人間と、知的にも霊的にも発達した人間とでは、おのずから携わる仕事は違ってくる。
一方は屠殺場で働くことになり、本人も別にイヤとも思わないかも知れない。他方は地上体験の最後の仕上げのための奉仕の生涯を送り、一国の命運を左右するほどの神の啓示に浴するかも知れない。2人のどこに平等があろうか。
人間は決して生まれつき平等ではない。かつてもそうだったし、今でもそうである。それを、無理してあくまで平等であるとの前提のもとに事を進めると、いわゆる悪平等となり、人類全体の程度を最低線まで下げることにもなりかねない。
人間は生まれつき平等ではない。また機会も均等ではない。となると、一体あとに残るものは何か。すでに述べたように、われわれはこの地上に自分の意志による選択のもとにやって来た。このことを“しかと”認識していただきたい。
一度だけではない。すでに何度もこの世を経験している。その目的は、その時その時の進化の程度に応じて最も適切と判断した環境に生を享けている。そこで必要な体験を得るためである。
地上の人間には2つの大きなハンディキャップがある。1つは無明または無知。要するに真理を悟れずにいることである。この世に来るのはその悟りに向けて必要な体験を積むためである。無明から解脱するまではそのハンディキャップによる障害は避けられない。
もう1つは肉体的制約である。頑健で元気いっぱいの身体をもって生まれる人もおれば、生まれつき虚弱児だったり、奇形児だったり、障害児だったりする。肌色も違えば背丈も違う。その身体をコンピュータのような素晴らしい頭脳が操る場合もあれば、精神薄弱児だったりする。
が、そうした様々な条件下において、自分は自分なりに最善を尽くすこと – 霊的に、知的に、そして身体的に自分に具わったものを最大限に活用すること。それが地上に生を享けたそもそもの目的であり、そこに地上生活の意義がある。全ての人間は、その点においてのみ平等と言える。なぜなら、それ以外に地上生活の目的も意義もないからだ。
「実際に戦争に送ろうと思ってるんだよ」明仁、文仁、徳仁、悠仁が僕を体よく殺そうとしているのです(祈)†
皆さまは「戦争」というものを「勃発してしまったら国民は戦争に赴かなければならないものなんだ、イヤでもやらなければならないものなんだ」みたいに考えておられますか。皆さま霊的知識をお勉強して下さい。その考えは1億%間違っています。僕たち人間は年齢、性別、人種等に関係なく全員が【神】から「神性の火花」を賜って個的存在を獲得した「神を共通の父(親)とした霊的同胞、霊的兄弟、霊的大家族」です。霊的知識を正しく理解すると、戦争で敵国の兵士を殺す事は「自分の家族を殺す事と同義」という事が理解できます。戦争というものは無知から生じる大変愚かな行為という事になります。そして僕は以前「コロナウソ」に関してこのような事を書いた事がありますが…続きを読む→
「いよいよ存在価値がなくなっていく」お分かりですね、明仁、文仁、徳仁、悠仁の事ですよ(祈)†
日航ジャンボ機を墜落させて自分たちの邪悪の正体を公言しようとした人間を一気に殺したのも、その他いくらでもある事と思いますが、それらの行動には全て「動機」があるという事になります。その動機こそ霊団が言ってきた「人生イコールS〇X」この言葉ひとつに集約されるのです。コイツらの人生の目的、行動の動機は「S〇X1本」です。幼い奴隷の女の子を「処刑遊び」で四肢切断、強姦殺人し続けるために全てのウソをついているのです。抵抗する術を知らない盗んできた(パレットから買ってきた)女の子たちをレイプし続けるために生まれてから死ぬまで自分の人生の全てをウソで塗り固めるのです。コイツらは何もかも全てがウソなのです。そこまでしてウソをつき続ける理由が「S〇Xを守るため」という事なのです…続きを読む→
「地球上でもっとも寂しい」僕が突入させられる悲劇です。試練にも限度がある(祈)†
心臓が鼓動しているのが、血液が全身を循環しているのが、脳髄でアレコレ思索を巡らせる事ができるのが霊のチカラのおかげだというこの単純な真理が理解されるのにあと何千年かかるというのか。2000年前にイエス様が同じ事を言っていたじゃないか、まだ分からないのか。「宇宙一のバカ」大量強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁の邪悪の正体にも、自分が霊的存在であるという事実にも、一体人々はいつになったら気が付くというのか。この狂った腐った物質界は、あと何千年、正しいおこないをする者を磔刑(はりつけ)にし続けるというのか。そんなに洗脳が好きなのか、そんなに帰幽後に地獄に落ちたいのか。ステキな境涯に案内してあげようと大切な事を教えるために物質圏に犠牲的降下をして下さっている高級霊の方々の愛を、あと何千年裏切り続ければ気が済むのか…続きを読む→
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