【1/6】霊界通信 ベールの彼方の生活 1巻 「天界の低地」篇 3 バイブレーションの原理

1913年 9月25日 木曜日

聖書の中に主イエスがペテロの事を自分への反逆者であるかの如く述べた部分があり、あなたはその真意を捉えかねている様子だから、今夜は十分ではないけど是非その事を明らかにしてみたいと思います。

ご存知の通り、その時イエスはエルサレムへ行く途中でした。そして弟子たちに対し自分はエルサレムで殺されるであろうと述べます。

その時のイエスの真意は、自分が殺される事によって一見自分たちの使命が終わったかの如く思われるかも知れないが、見る目をもつ者には – 弟子たちがそうであって欲しいとイエスは思った事でしょうが – 自分の真の目的はそれまでの伝道の道よりも遥かに強力にして栄光ある発展のための口火を切る事であり、それが神より授かった地上人類の霊的高揚の為の自分の使命なのだという事でした。

ペテロはそれが理解できない事を彼なりの態度で示しました。当然であり無理もない事です。がこの事についていつも見落とされている事があります。それは、イエスは死を超越した真一文字の使命を遂行していたのであり、磔刑(はりつけ)はその使命の中における1つの出来事に過ぎない。

それが生み出す悲しみは地上の人間が理解しているような“喜び”の対照としての悲しみではなく、むしろ喜びの一要素でもある。なぜならテコの原理と同じで、その悲しみをテコ台として正しく活用すれば禍転じて福となし、神の計画を推進する事になるという事でした。

悲劇をただの不幸と受止める事がいかに狭い量見であるかは、そうした悲しみの真の“価値”を理解して初めて判る事です。さてイエスは今まさに未曾有の悲劇を弟子たちにもたらさんとしておりました。

もし弟子たちがその真意を理解してくれなければ、この世的なただの悲劇として終わり、弟子たちに託す使命が成就されません。そこでイエスは言いました「汝らの悲しみもやがて喜びと変わらん」と。

そして遂にそうなりました。最もそれは悲しみの奥義を理解できるようになってからの事です。理解と言っても限られた程度のものでした。が、ある程度の理解は確かにできたのでした。

こうして文章で綴ってしまえば随分簡単な事のように感じられます。またある意味では現に単純なのです。神の摂理の基本的原理は全て単純だからです。ですが私たち、特に現在の私にとっては、あなたにも判然としないかも知れない重要性を秘めております。

と言いますのは今の私の生活の大半を過している新しい建物の中での主な課題がそれと同じ事、つまり人間界の悲しみのバイブレーションを喜びを生み出すバイブレーションに転換する事だからです。とても素敵な仕事です。

ですが自由意志の尊厳がもたらすところの数々の制約がいろいろと面倒な問題を生み出します。いかなる人間であっても、その人の自由意志を無視する事は許されないのです。

当人の意志を尊重しつつ、当人にとって望ましくもあり同時に相応しい結果、少なくともまずまずと言える程度のものを授けなければなりません。時にはうんざりする事もありますが、この仕事に携わる事によって強くなるにつれて、そうした念も消えていく事でしょう。

ところであなたの質問は何ですか。尋ねたいと思っている事があるようでしたが。 – いえ、ありません。特別な質問はありませんが。 – 尋ねたいと思われた事がありませんでしたか。あなたにこうして霊感を印象づける方法と関連した事で…

– そう言えば今朝方その事をお聞きしようと思ったことは事実です。すっかり忘れておりました。でも大して説明して頂くほどの事でも無いように思いますが如何でしょうか。私は“精神感応”と呼んではどうかと思います –

なるほど、当らずといえども遠からずですね。でもピッタリという訳でもありません。精神感応というのは未知の分野も含めた大雑把な用語です。私たちがあなたに印象づける手段は各種のバイブレーションです。

本質がそれぞれ少しずつ異なります。それをあなたの精神に向けて集中するのです。ですがどうやらあなたはこの種の問題は今はあまり気が乗らないようですね。またの機会に改めて述べる事にしましょう。今あなたが関心を抱いているものがあればおっしゃってみてください。

– ではあなたの住んでおられる家と、新しく始められた仕事についてもう少し話してください。 –

よろしい。では出来るだけ分りやすくお話致しましょう。住居(すまい)は内側も外側も実に美しく設備が整えられております。浴室(バス)もあれば音楽室もあり、私たちの意念を反映させていく上で補助的な役割をする道具もあります。ずいぶん広いものです。

私は今“住居”と言いましたが、本当はひと続きの建物で、その1つ1つがある種の仕事を割当てられていて、それが段階的に進んでいくように工夫されております。どの家からでも始めて次の建物へ進む事ができます。でもこんな話は人間には不思議で信じられないでしょうから、もっと分りやすいものを取上げてみましょう。

土地は広々としており、その土地と建物との間に何らかの関係、一種の共鳴関係のようなものがあります。たとえば樹木は地上と同じ樹木そのもので、同じように生長しておりますが、その樹木と建物との間に共鳴関係のようなものがあり、樹木の種類が異なると共鳴する建物も異なり、建物が目的としている仕事の効果を上げる作用を及ぼしております。

それと同じ事が森の中の1つのグループについても言えますし、小道の両脇の花壇、各所に見られる小川や滝の配置についても言えます。全てが驚くべき叡智から生み出され、その効果は“美しい”の一語に尽きます。

実を言うと同じ作用が地上でもあるのです。ただバイブレーションがそれを放射する側もそれに反応する側も共にこちらに比して鈍重であるために、その効果がほとんど目立たないだけです。でも実際にある事はあるのです。

例えば花や樹木の栽培が特に上手な人がいるのをご存知でしょう。それから花が他家(よそ)よりも長もちする家 – そういう家族があるものです。切り花の事です。荒削りではありますが、全て同じ事です。こちらでは影響力が強力で、受ける側も鋭敏なのです。ついでに言えば、この事は私たちが今携わっている仕事で個々のケースを正確に判断する上でよい参考になります。

大気も当然ここの植物と建物によって影響を受けます。と言いますのは、繰り返す事になりますが、そうした建物は単なる技術で建造されるのではなく、この界の高位の天使の方々の意念の結晶 – 産物と言ってもいいでしょう – であり、したがって大変強力な創造的念力によるものだからです。(その詳しい原理は第6章でアストリエル霊が解説。 – 訳者)

大気はまた私たちの衣服にも影響を及ぼします。更にはその生地と色への影響が私たちの性格そのものまで沁み込んで来ます。ですから霊的に性格が似ている者同士は同じ大気の影響を受けている訳ですから、身にまとっているものも色合いと生地が良く似ておりますが、実際には1人1人その個性の違いによって少しずつ違っております。

さらに私たちがたまたま位置したその地面の影響で衣服の色合いが変化する事があります。あたり一面に色とりどりの草花が繁茂している歩道や、さまざまな品種の植物の配置具合が異なる場所を通りかかると衣服の趣きが変化していくのを見るのは面白くもあり、ためにもなり、また見た目に美しくもあります。

小川がまた美しいのです。水の妖精の話はあなたも聞いた事があるでしょう。地上の話ですよ。あれは少なくともこちらでは本当の話です。その場全体に生命がみなぎり、すみずみまで浸透しております。という事は生命の存在がそこにあるという事です。

この事は前にいた界でもある程度知っておりましたが、この界へ来て辺りの不思議さ目新しさに慣れてくると、そうした事が一層はっきり認識され、同時にこの調子でいくとこれから先の界は一体どうなってるのだろうと驚異を抱きはじめております。この界の不思議さなどどこへ行っても当り前のように思えるからです。

でも、今日はこの辺で止めにしましょう。この美わしい御国の片隅を見せてくださった神はまた別の片隅も見せてくださる事でしょう。これはあなたへの言葉ですよ。今日はその言葉で終りとしましょう。それでは。

<原著者ノート>この日のメッセージの最初の部分を綴っている時、私はその話の流れが読み取れず、まとまりがなくて混乱しているように思えた。が、今読み返してみると決してそうではない事が判る。

悲しみのバイブレーションについて述べている事を“神の摂理の基本的原理”についての単なるヒントと受け取り、波動の原理を光や熱の解釈に当てはめるのと同じ推理を行えば次のようになりそうである。

悲しみを生ずるバイブレーションの組み合わせは“置き換え”ではなく“調整”によって行われる。つまり悲しみに沈む魂へ向けて別種のバイブレーションを送る事によって悲しみのバイブレーションのうちの幾つかが中和され、幾つかは修正されて別種のものに変化し、その効果が喜び、あるいは安らぎとなる。

こう見ればこの日のメッセージも意味をもち、多分人生における悩み事を実際に解決していく方法に光を当てる事になるかも知れない。確かにそれが神の1つの手法なのであろう。悲しみを生みだす外的条件が取り除かれるという意味ではない。(極端な場合はそうするかも知れないが)

別種のバイブレーションを吹き込む事によって悲しみを喜びへと転換してしまうという意味である。これなら日常生活でよく見かける事である。こうした説は科学的思考に馴染めない人には突拍子もない話に聞こえるであろうし“別種のバイブレーション”が実際に同じ“交換価値”をもつ数種のバイブレーションであるとする説を別に非合理的とは思わない人もいる事であろう。

なお最初に言及しているイエスの言葉はヨハネ第16章20である。

■2021年7月14日UP■
「うまくできなかった」支配霊バーバネル氏の言葉ですが、正直僕はもう信用してません(祈)†
全く何も起きなかった「大失敗」だった訳ですが、皆さまには信じて頂けないかも知れませんが、実は僕の「両腕」はすんごい状態だったのです。あれは何と表現したらいいのでしょう。トランスを維持している時の僕の両腕は、これまで生きてきて1度も味わった事のない感覚、まるで両腕が別の生き物になったみたいな、両腕に自分とは別の心臓があるような、両腕だけ別の次元に存在するような、両腕だけ別の空間にプカプカ浮いているような、そんな感じだったのです。痛いとか苦しいとかそういう事は一切ありませんでした。つまり支配霊バーバネル氏は、一応僕の腕を操作するつもりでいたが、結局「うまくできなかった」という事を言いたいのだろうと思います。うまくいかなかった原因は主にこのふたつ…続きを読む→
■2021年8月26日UP■
「再生」に関する僕の理解に霊団が「正解」と言ってきました。んんん説明してみましょう(祈)†
僕たち肉体をまとって物質界で生活している人間は、たかだか70~80年の尺度でしか自分の人生を考えられませんが、霊界上層界で生活する霊格の高い方々は「人生を永遠という尺度で考えます」僕たち人間に死はありません、人間とは肉体の死後も霊界で永遠に進歩向上の生活を続ける存在ですが、霊界上層界の方々は「知識」としてそれを知っているだけでなく「永遠の人生を自分の霊体で体現している方々」ですから、当然「永遠の尺度」でモノを考える状態がデフォルトの訳です…続きを読む→

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Posted by たきざわ彰人(霊覚者)祈†