【2/29】霊界通信 ベールの彼方の生活 2巻 「天界の高地」篇 5 第10界の住居
1913年11月19日 水曜日
そういう次第であるから、私が語る言葉は多くの者にとって受け入れ難いものであろう。が、このことだけは知っておいてほしい。キリストの祭日には東からも西からも大勢の信者がキリストの神性の真相を知らぬまま参列する。
が、その人間的優しさと愛ゆえにキリストに愛を捧げる。少なくともそこまでは理解できるからである。が、その神性の本質を理解する者は1人としていない。そこでこれより話題を変えて、まず肉体に宿る人間がキリストによって示された向上の道を歩む上において心すべきことを取り挙げてみよう。
何よりもまず人間は“愛する”ことが出来なければならない。これが第一に心がけるべきことであり、また最大のものである。難かしいのはこれを持続することである。互いに愛し合うべきであると言えば、誰しもその通りであると言う。
が、これを行為で示す段階に至ると、悲しいかな、能書き通りには行かない。しかし、愛なくしてはこの宇宙は存続し得ず、崩壊と破滅の道を歩むであろう。宇宙が今あるべき姿に保ち続けているのは神の愛あればこそである。その愛は、求める者ならば至るところに見出すことが出来る。
物事を理解する最上の方法はその対照を求めることである。愛の対照は崩壊である。なぜなら、崩壊は愛の行使の停止から生じるからである。憎しみも愛の対照である。もっとも、本質的には対立したものではない。憎しみは往々にして愛の表現を誤ったものに過ぎないからである。
人間についていえることはそのまま教義や動機についても言える。他の主義・主張を嫌うその反動で1つの主義に傾倒するという者が数多くいるものである。愚かしくもあり誤ってもいるが、必ずしも悪とは言えない。
が、人間は他を憎む時、憎むが故に愛することが出来ないことになり、ついには何ものをも愛することが出来ないことになることを知らねばならない。これが実はこちらの世界での面倒を増幅するタネの1つなのである。
と申すのは、誰しも憎まずして全てを愛することが出来るようにならぬかぎり、愛がすなわち光を意味するこの世界においての進歩は望めず、愛することを知らぬ者は暗き世界において道を見失い、その多くが身も魂も精気を失くし、ついには真理の鑑識力までが外界と同じくもうろうとしてくるのである。
一方には1つ1つの石材までが光輝を放つ“天界の住処(すみか)”が無数に存在し、あたり一円、はるか遠き彼方まで光を放っている。その光はそこに住む者の愛の純粋さが生み出すのである。
– そうした住居と、そこに住む人々について具体的にお教えねがえませんか。その方が一般的な叙述より判り易いと思うのですが。
それは容易なことではない。その困難さはいずれこちらへ来れば判る。たとえ要求に応じても、貴殿が得るものは結果的には真実からずれる – 少なくとも不適切なものになる。そのこともいずれ理解が行くことと思う。
が、たっての要求とあらば、何とか説明してみよう。何か特別に叙述してほしいことがあれば申すがよい。
– では、あなたご自身の住いから。
第10界においては低級界に存在しない事情、とくに地上ではまったく見られぬ事情がある。たとえ貴殿をその10界まで案内したところで、貴殿の目には何も映らぬであろう。霊的状態がその界の状態にそぐわないからである。せいぜい見えるのはモヤの如き光 – それもその界のどの地域であるかによって程度が異る。
9界そして8界と下ればより多くのものが見えるであろうが、やはり全ては見られない。しかも、目に映したものをすみずみまで理解することは出来ないであろう。
かりに1匹の魚を水を盛ったガラスの器に入れて町中を案内したとしよう。その魚には、まず第一にどれだけのものが見え、第二にそれがどれだけ理解できるであろうか。思うに、魚にはその住処 – 水つまり魚本来の環境からせいぜい2、3インチ先しか見えないであろう。
貴殿の顔を魚に見える位置に持って行き、次に手を見せてやるがよい。魚にはその2つの物がどう映るであろうか。人間が吾らの界へ来た時もそれと同じである。内在する霊的能力を活性化し、楽に使用できるようになるには、ただ“鍛錬”あるのみである。
さて、話をさらに進めて、たとえばその魚にウエストミンスター寺院を説明するとなったらどうするか。村の教会でもよい。それを魚の言語で説明しなければならない。その話を聞いた魚が貴殿の言うことが不合理であると言ったところで、それは魚の能力の限界のために貴殿の思うに任せぬからに過ぎない。
もし村の教会やウエストミンスター寺院のようなものがあるわけがないと魚が言ったところで、それは貴殿の説明がまずいのではなく、魚の方の理解力に原因があることをどうすれば納得させることが出来るであろうか。
が、たつての要望であれば、これより私の住居、私の寛ぎの場について出来るだけの説明を試みてみよう。が、終わってみれば多分貴殿はもっと何とかならなかったものかと思うであろうし、いっそのこと何も語らずにいた方が良かったということになるかも知れない。
吾らが住居を建立している国は数多くの区域にまたがっており、それぞれの区域からはその特質を示す無数の色彩が発散され、それが私と共に住む者たちの霊性とほぼ完全に一致している。
それらの色彩のほとんどは貴殿の知らぬものばかりであるが、地上の色彩も全て含まれており、それが無限と言えるほどの組み合せと色調をもっている。吾らが携わるその時その時の仕事によって調和の仕方が異り、それが大気に反映する。
また吾らの界へ届けられるさまざまな思念と願望に対してもその住居が反応を示す。それには下層界からの祈りの念もあれば上層界からの援助の念もあり、その最下層に地上界が存在する。
音楽も放送される。必ずしも口を使うとは限らない。大ていは心から直接的に放送し、それ近隣の家々に反響する。これも吾らによる活性化の一端である。周囲の樹木、花等の全ての植物もその影響を受け、反応を示す。かくて色彩と音楽という本来生命のない存在が吾らの生命力を受けて意識に反響することになる。
家屋の形は4角である。が、壁は4つだけではなく、また壁と壁とが向き合っているのでもない。すべてが融合し、また内と外とが壁を通して混り合っている。壁は保護のためにあるのではなく、他に数々の目的がある。
その1つはバイブレーションの統一のため、つまり吾らの援助を必要とし又その要請のあった地域へ意念を集中する時に役立てる。かくて吾々は地上からの祈りにも応えて意念を地上へ送り、他のもろもろの手段を講じて援助を授けることになる。
同じく上層界からの意念が吾々の界へ届けられ、それが吾々の家屋をはじめとして他に用意した幾つかの作用によって吾々の感覚に反応するものに変えられ、それを手段として高級神霊との連絡を取り、吾々を悩ませる問題についての指導を受けることもある。
更には、反対に下層界から使命を帯びて吾々の界へ訪れる者にこの界の環境条件に慣れさせ、滞在中の難儀を軽減するために霊力を特別に授ける時にも、この家屋を使用する。また吾々と話を交わし、吾々の姿を見せ、声を聞くことが出来るようにしてあげるのにも、その家屋に具わっている作用が活用される。それなくしては彼らは使命が全う出来ないのである。
私の家を外部より眺めた様子を、地上に近い界の1住民による叙述によって紹介しよう。彼は私の家を見た時に“隠し得ぬ光に包まれし丘上の都”(マタイ5・14)という言葉を思い出したという。
見た時の位置は遥か遠くであったが、その光に思わず立ち止まり地面へ降下した。(そこまで空中を飛行していたのである)そこで暫し彼は目を覆った。それから徐々に遠くに輝くその建物が見えるようになったのであった。
例の塔(第1巻参照)も見えたが、その青い光があまりに強烈で、どこまで光輝が届いているか見分けがつかなかったという。天上へ向けて限りなく伸びているかに思えたのである。それから例のドームも – 赤色のもあれば黄金色のもある – その光輝があまりに眩しく、どこで終わっているのか、その全体の規模を見ることが出来なかった。
門も外壁も同じく銀色、青、赤、すみれ色に映え、眩(まばゆ)いばかりの光で丘全体と周囲の森を覆いつくし、それを見た彼は、そこへいかにして入りそして無事その光に焼き尽くされずに戻れるだろうかと思ったとのことであった。
が、吾らにはすでにその者の姿が見えていた。そこで使いの者を派遣して然るべき処置を施させたのであった。無事使命を終えて吾らに別れの挨拶をしに見えたとき彼はこう述べた。
「今お別れするに当たって私の心に1つの考えがつきまとっています。それは、私が戻れば仲間の者から私が訪れた都はいかなるところであったかと聞かれることでしょうが、一たん自分の本来の界層に帰り、再び元の限りある能力での生活に戻ったとき、この光栄をどう語ればよかろうかということでございます。」
私は答えた。「これ以後、あなたは2度と曽てのあなたに戻ることはないでしょう。何となればあなたの中にこの界の光と感受性とがいくらかでも残るはずだからです。あなたの記憶に残るものは仲間に告げるものより遥かに大きいことでしょう。
なぜなら、たとえ告げても理解してもらえないでしょうし、告げようとすればこの界の言語を使用せざるを得ないからです。それ故あなたは彼らにこう告げられるがよろしい – より一層の向上に鋭意努力することです。そうすれば自ら訪れて、語ってもらえないものを自ら見ることが出来るでしょう、と。」
聞き終ると、彼は大いなる喜びのうちにこの界をあとにした。同じことがいずれ貴殿の身の上にも訪れる日が来るであろう。彼に告げた最後の言葉をここで貴殿にも与えることにしよう。†
「最後まで完成してる」僕から降らせる霊言の原稿が霊界側で既に完成しているそうです(祈)†
「霊的知識普及のための客寄せパンダ」というもので、霊団は試練の境涯である物質界から苦難の元凶(「宇宙一のバカ」大量強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁)を取り除く事はしない。取り除いてしまったら物質界の存在意義(刑務所としての機能)が果たせなくなってしまうので邪悪は残し続けるが、霊的知識拡散のための「客寄せパンダ」としてこの強姦殺人魔どもを最大活用した、という事なのではないか。さらに言うと「神の因果律」の一環として、明仁、文仁、徳仁、悠仁、コイツらに徹底的に恥をかかせるという目的も含まれていたのではないかと僕は思っているのです。僕はこのバカヤロウどもはインペレーター霊の仰る「個的存在消滅」でイイと思っていますが霊界上層界の方々はそうは思っていなくて、何とかコイツらに反省させて進歩向上の糸口をつかませようとしているのかも知れない、それで大恥をかかせて心変わりをさせようとしているのかも知れない、なんて思ってみたりもするのです。そんなムダな努力する必要ネィだろ、コイツら(明仁、文仁、徳仁、悠仁)は絶対反省なんかできネィよ、人間失格なんだよ、霊の海に埋没して存在消滅すればイイんだよ(地獄より下という事)と僕は思うのですが上層界の方々は憐れみをもって眺めますのでそういう視点なのかも知れない…続きを読む→
「おかげでだいぶ助かりました」殉教の死を遂げた方々が僕を使用して仕事しているのです(祈)†
霊的知識を獲得した人は、宜しくないおこないをして帰幽した先にどれだけの地獄が待ち受けているかを知っているので自動的に悪行にブレーキがかかるのです。シルバーバーチ霊も仰っていますように、邪悪な人間というのは霊的成長における「幼児」であり、霊的知識が全く頭に入っていないワガママのお子ちゃまであり、物的金銭を人より多く所有する事でしか自己表現ができない原初的人間という事になるのです。金銭など帰幽後、1円も霊界に持って行けません。そして霊界生活にお金など必要ありません。必要なものは全て思念で拵える事ができます。物質界生活中にお金をため込んでも自分の未来にとって全く無意味という事を悟れていない人間という事なのです。人間は本来が霊であり、その霊が修行のために一時的にトレーニングセンターである物質界に肉体という鈍重な衣服をまとって降下しているのであり、そのトレーニングセンターでのおこないが帰幽後の生活環境、霊界にて赴く境涯を高くしたり低くしたりするという霊的知識の基本中の基本さえ知らない人間が、その無知から邪悪なおこないをするのです…続きを読む→
「地上とのつながりがすでに無くなっていた」これは僕への最大級の脅し文句です(祈)†
僕の予測ですが(これが正解だと思ってます、最悪の正解ですが)霊界側はもう何もしない、このまま僕を閉じ込め続ける事だけを考えている、交霊会も実は全然やる気がないのではないか、という気さえしています。事実全然やってないじゃないですか。インスピレーションだけを徹底的に降らせて、あとは僕にテキスト撃たせて拡散させる、それが霊界側としてはいちばんカンタン、ラク、消費パワーが少なくて済む、物質圏付近に降下する犠牲的作業をせずに済む、その霊界側にとって犠牲の少ない方法(インスピレーションのテキスト化)で十分に成果を上げているので、それで霊団は「ラクだから大好き大好き♪」とムカつく事を言ってくるのではないか、などと思ったりもするのです。霊界高級霊の方々が犠牲的降下をせずにインスピレーションという霊にとってのごく自然かつ通常の通信方法で仕事をおこなえる僕という「霊の道具」をできるだけ長く物質界に閉じ込めておケツひっぱたいてこき使うつもり、これが霊団側の真相なのではないか…続きを読む→
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