【5/11】霊界通信 ベールの彼方の生活 3巻 「天界の政庁」篇 2 イエス・キリスト

1917年12月12日 水曜日

吾々のことを想像なさる時、はるか遠くにいると思ってはなりません。すぐ近くにいます。貴殿は直接書いているのがカスリーンであるから吾々はどこか遠く離れたところから彼女へ思念を送っていると考えておられるようですが、そうではない。

霊的身体を調節しながら降下してる難しさを克服した今、貴殿のすぐ近くに来るために思念を統一することは容易です。天界においても同じですが、地上にも霊格の格差というものがあります。吾々にとっては、動物的次元からさほど霊的に進化していない人類に近づくことは敢えて不可能とは言わないにしても、きわめて困難なことです。

一方、吾々に憧憬の念を抱いてくれている人に対しては、吾々としても精一杯努力してその人が背のびできる最高の段階で折合うようにする。貴殿の場合もそうです。これで少しは貴殿の気休めになるかと思うのですが如何でしょう。

– 初めの説明は私もそう理解しておりました。しかし、あとの方の説明が事実だとするとカスリーンは必要ないことになりませんか。

そのことに関しては以前に少なくとも部分的には説明したつもりですが、ここで少しばかり付け加えておきましょう。貴殿に知っておいていただきたい事実が2、3あります。すなわちまず霊団の大半がかなり古い時代の人間であるのに較(くら)べてカスリーンは貴殿の時代に近いことがあげられます。

そのため平常時においては吾々より貴殿の霊的状態に近く、吾々は貴殿の内的自我とは接触できても、言語能力とか指の運動能力を司る部分つまり肉体の脳への働きかけとなるとカスリーンの方が容易ということになります。

また吾々の思念を言語に転換する際にも彼女が中継してうまくやってくれます。もっとも、それはそれとして、貴殿と吾々とは完全に調和状態で接触していることは事実です。

– 質問があるのですが…

どうぞ – ただ一言ご注意申し上げるが、貴殿は知識が旺盛なあまり先を急ぎすぎる嫌いがあります。1つ尋ねて、それが片づいてなお余裕のある時にさらに次の質問をお受けしましょう。

– どうも。キリストの地上への降下の問題についてですが、肉体に宿るべく父の住処(すみか)を離れたあと地上へ至るまでの途中の界層の1つ1つで環境条件に波長を合わせていく必要があったと思われます。キリストほどの高い境涯から降りてくるには余ほどの“時”を閲(けみ)する必要があったと思うのですが…。

吾々が教わったかぎりにおいて言えば、キリストは地球がまだ形体をもつに至る以前、すなわら非物質的存在の時から存在していた。そして、いよいよ物質が存在しはじめたとき宇宙神は、物的宇宙をいま貴殿らが知るところの整然とした星座とするために、キリストをその霊力の行使の主宰霊 Master Spirit とされた。

が、存在はしても、当時まだ物的宇宙に形態がなかったごとくキリストの霊みずからも形態を具えていなかった。そして宇宙が物的形態を賦与(ふよ)された時にまず霊的形態を具え、それから物的形態を具えるに至った。

当時の天地創造の全現象の背後にキリストの霊が控え、無限の時を閲して混沌(カオス)より整然たる宇宙(コスモス)へと発展するその道程はすべてキリストの霊を通して行われたのであった。

それは混沌たる状態を超越するある強大な存在による外部からの働きかけなくしては不可能であった。何となれば、秩序に欠けるものから秩序を生ずるということは、新たな要素を加えずしては有り得ないからである。かくして宇宙はキリスト界とカオスとの接触の産物にほかならない。

カオスとは物質が未知の可能性を秘めた状態である。コスモスとは物質がその潜在力を発現した状態である。とは言え、その顕現されたものは“静”の状態を“動”の状態へと転じさせた、その原動的エネルギーの現象的結果にすぎない。動とはつまるところ潜在的意念の活動の総計である。

意念はその潜在的状態から顕現へと転換する過程においては、その創造力として働く意念の性質に相応しい動の形を取る。かくして万物の創造主はキリストの意念を通してその創造活動を悠久の時の流れの中で行使し続け、ついにコスモスを生んだのである。

さて以上の説明によって吾々が抱いている概念をいくらかでも明確にすることができたとすれば、キリストが物質的宇宙の創造の当初より存在していたこと、それ故に地球が徐々に物質性を帯び、形態を整え、ついには顕著な年代的特徴を刻んでいくに至るその全過程において存在し続けていたことが解るであろう。

言いかえれば地球それ自体が創造原理を宿し、それに物的表現を与えていったということである。そのことは地球そのものから鉱物と植物と動物という生命形態が生まれてきた事実によって知れる。そこで、友よ、結局いかなることになると思われるか。ほかでもない。地球ならびに物的全宇宙はキリストの身体にほかならないということです。

– 地上に誕生したあのキリストですか。

父と一体なるキリスト、そして一体なるが故に父の個性の一部であったところのキリストです。ナザレ人イエスは父の思念の直接の表現体であり、地球人類救済のためのキリストとして肉体をまとったのです。友よ、貴殿の心に動揺が見られるが、どうか思念の翼を少しばかり広げていただきたい。

太陽系の他の惑星上には“人類とは異なる知的存在が”生活を営んでいる。他の太陽系の惑星上にも“また別の存在”が生活を営んでいる。さらに他の星雲にも“神”および“そのキリスト”との間に人類と同じつながりをもつ存在がいて、人類と同じように霊的交わりをもつことができる。

が彼らの形態は人類とは異なり、思念の伝達も、人類が言語と呼んでいる方法とは異なる。それでいて創造神とそのキリストとの関係は人類の場合と同じなのです。彼らにとってもキリストは“彼らなりの形態”をもって顕現する必要があったのであり、今なお必要です。

が、それはナザレ人イエスと同じ人間的形態をまとって現われるのではありません。それでは彼らには奇異に思われるでしょう。否、それ以上に、意味がないでしょう。彼らには彼らなりの形態をとり、交信方法も彼ら独自のものがあり、彼らなりの合理的プロセスを活用している。

こうしたことは、地動説を虚空にかなぐり棄てながらも精神的には相も変らずまるでミイラの如く物的観念によってぐるぐる巻きにされている者にとっては、およそ納得のいかないことでしょう。彼らはその小さい世界観から1歩も出ることができず、創造神にとって重大な意義をもつ天体がこの地球以外にも存在することが得心できないのです。

そこで吾々はこう表現しておきましょう – ガリラヤに来たキリストは宇宙的キリストの地球的顕現にすぎない。が、真のキリストであるという点では同じである、と。

では結論を述べるとしよう。もっとも、以上のべた程度では無窺の宇宙の美事な韻律が綴った荘厳にして華麗なる物語、星雲の誕生と結婚、そしてそこから生まれた無数の恒星の物語のほんの1章節ほどにも満たないでしょう。

要するにキリストは、エネルギーが霊的原動力の活性化によって降下 – 物質化と呼んでもよい – していく過程の中で降下していったということです。鉱物もキリストの生命の具現です。何となればあらゆる物質がキリストの生命から生まれているからです。

バラもそうです。ユリもそうです。あらゆる植物がキリストの生命を宿しており、一見ただの物質でありながら美しさと素晴らしさを見せるのはその生命ゆえであり、そうした植物的生命も理性へ向けて進化しているのです。

しかし植物に宿っているかぎりその生命は、たとえ最高に進化しても合目的的活動の片鱗を見せるに留まるでしょう。キリスト的生命はまた地上の動物にも顕現しています。動物も人間と同じくキリスト的生命の進化したものだからです。キリストの意念の最高の表現が人間であった。

それがやがて不可視の世界から可視の世界へと顕現した。つまり人間を創造したキリストみずからが人間となったのです。つまり人間に存在を与え存続させているキリストがその思念を物質に吹き込み、それがナザレ人イエスとなって顕現したのです。それゆえ創造神より人類創造のための主宰権を委託されたキリストみずからが、その創造せる人間の子となったということです。

(質問に対する答えは)以上で十分であろう。さらに質問があれば、それは次の機会まで待っていただくことにしましょう。神とそのキリストは – その共同作業が人間を生んだのですが – 貴殿がその親子関係と宿命を理解し、さらに他の者にも理解させんとする努力を多とされることでしょう。

「太陽の方を向きなさい」これは帰幽後の話で物質界生活中は最悪という意味です(祈)†■2022年3月2日UP■
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Posted by たきざわ彰人(霊覚者)祈†