【1/9】コナン・ドイルの心霊学 第2部 重大なるメッセージ
The Vital Message
by Arthur Conan Doyle(1919)
Psychic Press Limited
23 Great Queen Street,
London, WC2B5BB, England.
前著『新しき啓示』(第1部)で私は、迫りくる人類の意識革命の曙光のようなものについて述べた。本書ではすでに太陽は高く昇り、見えざる世界との関係(つながり)も一段と明確になってきた。私はそれをより詳細に、そしてより広汎にわたってお目にかけようと思う。
今、ペンを手にして遠く人類の未来を思いやる私の脳裏に、かつてアルプス山脈の中で岩と雪だけの荒涼とした頂上から、遠くイタリアの方角を見渡した時のことが甦ってくる。ロンバルディアがまばゆい太陽の光の中で青い湖と緑の山並の一大パノラマとなって広がり、その遠い果ては黄金色のモヤとなって地平線を包み込んでいた。
新しい啓示によって、今この荒れ果てた地上界の彼方に、約束された素晴らしい世界が待ちうけていることが明らかとなった。先駆者たちは、もう、とうの昔にその峠を越えている。
みずから目を被う者はいざ知らず、目をしっかりと見開いている者には、その素晴らしい世界が鮮明に見えている。もはやその事実の認識を妨げるものは何ひとつ存在しない。
私の同志のひとりである V・C・ディザーティス氏は、大乱の後にいつもささやかれる“救済”は、この度は霊界から地上界への“下降”の働きかけではなく、地上界から霊界へ向けての“上昇”の努力によって、両者が融合することによってのみ達成されることになろうと述べている。その当否は別として、少なくとも興味ぶかい考えであることは確かである。
しかし私の考えでは、そこまで大掛かりな逆転は無理としても、われわれはすでに科学と宗教について、そして人生そのものについての考え方を、根底から改めさせるに十分な知識を手にしている。その変革がどういう形を取るか、そしてまた、その根拠と証拠とはいかなるものか、それを本書で述べてみたいと思っている。
1919年7月 A・コナン・ドイル
第1章 迫られる人類の意識改革
この第1次大戦をはさむ時代に生をうけた世代の人間は、人類の数知れない世代の中でも、つてなかった恐怖の体験をさせられる運命(さだめ)にあったと言えよう。実はこれには、絶対に否(いな)めない、そしてまた、絶対に見過ごしてはならない、厳粛な事実が控えている。
その苦難に耐え抜いたわれわれは、それが意図している教訓を学びそして後世に残さないことには、苦難を体験した意味がないということである。今この時点で学びそして認識し合わないで一体いつ学び、いつ認識し合うというのか – これほどの霊的な掘り起こしと地ならしとタネ蒔きの準備が行なわれることは、2度と有り得まいと思うのである。
この恐怖に満ちた5年間の犠牲と緊張に虐(しいた)げられたわれわれの精神が、もしも何ひとつ変革を生み出さなかったとしたら、せっかくの霊界からの新しいインスピレーションの流入に応えうる資格をもつ者が、はたして他にいるであろうか。
もしもただの悲劇の体験のひとつで終るとしたら、人類の未来はまさに絶望的となろう。そして幾世紀にもわたって向上の可能性は見出せないことであろう。(1)
人類はなぜこんな悲劇的体験をさせられるのであろうか。万物の創造主が新しい民族の連帯関係をこしらえるために、地球上の全人類を坩堝(るつぼ)の中に入れて混ぜ返し、とことん疲弊させているのだなどと考える浅はかな人間もいるようである。が、このたびの激動の原因とその目的は、そんなものよりは、はるかに深遠なのだ。
本質的には宗教的なものであり、政治的なものではないのである。国家間の小ぜり合いを超えた、もっともっと深いところにある。これから1000年のちには、そうした国家間の政治的問題の結果は大した意味をもたなくなっているであろう。そして、逆に、宗教的問題の結果は世界規模の重大な意味をもつに至っていることであろう。
その宗教的な意味とは、今日の退廃的なキリスト教の大改革である。新しい形による霊的交流と、その結果として得られた死後の明快な実相を取り入れることによって、複雑怪奇な組織を思い切って簡素化し、不純な人工的教義を取り除き、活性のあるものにすることである。
大戦によるショックは、われわれ人類に精神的ないしは道徳的な真摯さの大切さを意識させ、勿体ぶった宗教的みせかけの仮面をはぎ取る勇気を与え、壮大な新しい啓示を理解し取り入れていかざるを得なくなるように仕向けるためだったのだ。
偏見のない心の持ち主ならば、近代スピリチュアリズムが蒐集した証拠と霊界通信が、質量ともに文句のつけようのないものであることに納得がいくであろう。
「ハァァよかったぁ、ってなります」耐え抜けば帰幽後にそのようになるという意味です(祈)†
僕は至ってまともな事を言っているだけだと思っていますが、帰幽後に僕に下される判断はそういうモノではないのでしょう、かなりキビシイ状態にさせられるのでしょう。それは了解してます、全てこの身に受けるつもりです。が、それでもなおあんたたちの導きに方向性はヒドすぎる、到底許容できないと思っているのです。「もうのむ訳にはいかない」「これしかないんだと」僕が強硬姿勢なら霊団も強硬姿勢で、もうアキトくんのワガママに折れる訳にはいかない、アキトくんの肉眼には全体像が映っていないから、この道の先にどれだけの悲劇が待ち受けているかを理解できない。我々の霊眼はアキトくんの未来の悲劇が見える。今はアキトくんは理解できなくてもいつかは必ず理解できる時が来るから、アキトくんがどんなに嫌がっているとしてももうこの道を進ませるしかないんだと、霊団がそのように言ってきてます。【い】【い】【か】【げ】【ん】【に】【し】【て】【く】【れ】【!】確か人間には「自由意思」というモノがあったはず。霊団はその自由意思を完全に無視する事を決定したとでもいうのか。それは霊界の決まりに完全に反する事なのではないか。そんな事が許されていいのか。ただ、裏返すとそれくらい僕の置かれている状況が危機的という事なのかも知れませんが…続きを読む→
「死体切断はもったいないから」明仁、文仁、徳仁、悠仁が奴隷の女の子を四肢切断する理由です(祈)†
ブタ(奴隷の女の子)は死んだけど、この死体はまだオモチャとして遊べる、このまま捨てたり焼いたりしたらもったいない、最後の最後まで遊び倒さないといけない。世界中でこの遊びができるのは俺たちぐらいのもんだ、ホラ悠仁、お前もブタの胴体を切って遊べ、人間を殺すのは楽しいだろ、これが俺たちの仕事だぞ。これからも国民を殺しまくって遊ぶんだぞ。イーッヒッヒッヒッヒッヒ♪つまり奴隷の女の子たちの人生、人権、性格、夢、そして生命、それら全てをオモチャにして遊ぶ事ができるのは世界で俺たちぐらいのものだ、ただ殺すだけじゃもったいない、女の子が生きている間も、泣き叫んで助けを懇願している時も、四肢切断した後も、強姦殺人する時も、女の子が死んで死体となった後も、その死体を切り刻む時も「処刑遊び」の全シチュエーションをバッチリ撮影して記録に残し、最後の最後まで徹底的に遊び倒さないといけない…続きを読む→
「我々の言葉を信じなさい」帰幽後に全ての埋め合わせがおこなわれるという意味です(祈)†
2000年前のイエス様が物質界に降下しておこなった仕事はもちろん「霊的知識普及」であり「神のご意志遂行」であり、それが現在も「スピリチュアリズム普及」というカタチで継続しているのです。このスピリチュアリズム普及の霊界での総指揮官はイエス様です。どうか霊関連書籍でお勉強して頂きたいです。そのイエス様が、一体何がどうなっているのか僕などというよく分からない画家に「怒涛の連続顕現」で霊的仕事を猛烈にお願いしてきたのです。僕は激しく拒絶しましたが1週間近くイエス様に何とも言えない表情で怒涛にお願いされ続けて僕は根負けしてしまい、この使命遂行をやる“ハメに”なってしまったのです。それから10年(霊性発現が2012年6月、隔離フィールド発動(事実上の使命遂行開始合図)が2014年7月ですから正確にはほぼ9年という事になるでしょうか)僕はずっとそのイエス様と約束した仕事を続けてきたのです…続きを読む→
ディスカッション
コメント一覧
まだ、コメントがありません