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強姦殺人魔、徳仁Naruhitoの命令を受けたポリーチェ(POLICE)によって僕は「放火暗殺」される可能性が霊団によるとかなり高まっています。この放火暗殺は「再命令」であり、以前にも徳仁が画策しています。そちらの様子は「暗殺」 wp.me/Pa9cvW-1vQ こちらでご紹介しています。とにかく何が何でも僕を殺すつもりなのです。なぜ徳仁は僕を殺すのですか。僕の公言する内容がウソ、インチキなら徳仁は国民に向けて堂々と「たきざわ彰人、デタラメもいい加減にしなさい」と怒る事ができるはずですよね。しかしそれをやらずに裏から僕を暗殺する事を何度も画策してくるという事は、つまり明仁、文仁、徳仁、悠仁が強姦殺人魔である事の揺るぎない証拠という事になりますね。皆さま、今こそ僕たちは目を開かねばなりません。コイツらを何としても「死刑」にするのです(祈)†

WordPress固定ページ「暗殺」 wp.me/Pa9cvW-1vQ こちらもぜひご覧下さい(祈)†

2020年7月13日

強姦殺人魔、徳仁がポリーチェ(POLICE)に命令して僕を放火で暗殺しようとしている可能性が霊団によるとだいぶ高まっている事を受け、まず使命遂行データのバックアップ作業はかなり進みました。さらにもう1~2レベル上のバックアップをする事も追加で考えているところです。さらに今日、あるチープなモノを購入してそれが到着し、さっそくそのアイテムを駆使して物的避難を進めています。詳細説明をするとそこをヤラれるので説明はしません。

ブログ「脱出キット」 wp.me/pa9cvW-1tV にも書きましたが、もし本当に僕の家がポリーチェに放火されたら、119番しても消防車は来ません。徳仁に「たきざわ彰人の家を消火するな」と命令されているに決まってますので僕の家は全焼する事になります。皆さまも自分の身に置き換えてご想像頂きたいのですが、家の中には様々な品物があり、それと同じだけ「思い出」があります。それら全てを避難させる事は不可能ですから、どうしても燃やしたくないモノだけをプライオリティを付けて避難させ、それ以外は泣く泣く失う事になります。この僕の気持ち、この怒りが皆さまに共感して頂ける事を心の底から信じます。「放火」が絶対に許してはならない「大罪」である事は僕が説明するまでもありませんね。その許されざる大罪を徳仁が僕に対してやってくる可能性が大変高まっています。そして昨日霊団が「放火の疑い」とインスピレーションを降らせてきましたが、これについて僕の所感を述べさせて頂きます。

霊団のこのメセは放火で僕の家が全焼して以降にポリーチェ(POLICE)が出火原因の調査に来た時の様子の事を言っている訳ですが、僕はこの霊団のメセの通りにはならないと予測します、霊団は考えが甘いと思います。というのも、ポリーチェは僕の全焼した家を調査して絶対に「出火原因は僕の火の不始末であり放火ではありません」と言ってくるはずだからです。それはそうです、ポリーチェ(POLICE)が放火の実行犯なのですから放火であるなどと結論を出す訳がありません。焼け跡を見ればどう考えても放火だろと1発で分かる状態だったとしてもポリーチェは絶対に僕のせいにしてくるはずです。で、ここで今ブログのタイトルに据えました「火の気がない」について説明してみようと思います。えーまず、これまで幾度となく公言し続けていますが、僕は生まれて1本もタバコを吸った事がありません。つまり家にマッチ、ライターがないという事です。さらに僕は厳冬期の雪山アタックに照準を合わせた生活をしていますので「低温順応」のために暖房器具を使わずに冬を越します。

つまりストーブを使っていないという事で「灯油」も家にありません。ストーブを点火するためのチャッカマンもありません。(※ただひとつ、これまで生きてきて風邪もひいた事のない僕が2年前に大風邪をひいた影響で、足元にごく小さな電気の暖房器具を1個だけ置いています。とはいえ1メートル以内に置いてようやく足が少しあったかいという程度のもので部屋全体の暖房では全然ありません)さらに僕は料理にガスを使いません。料理はレンジとトースターのみで行います。僕のメイン食材である野菜にも火は通さず「浅漬け」のようにして食べています。ガスを使うのは1日に1度「シャワー」を浴びる時のみ、それ以外はガスを全く使いません。で、もちろん一斗缶にガソリンを入れて保管しているなどという事もありません。えー「たきざわさん、あなたはそう言うけどまだ他に火の出るモノはあると思うよ」という方もおられる事でしょうが、この説明で少なくとも僕が原因で火が出る可能性が極めて低いという事だけは理解して頂けると有り難いです。

はい、霊団が「放火」に関するインスピレーションを何度も降らせてくるのは、今まで散々やってきたように「僕にその旨ブログを書かせて先行防御する」ためであり、本当に放火はされないと信じたいところですが、家が焼失してから「もっとあぁしとけばよかった」と言って後悔しても遅いですので、たとえ徳仁の命令を受けたポリーチェ(POLICE)の手によって放火が実行に移されてしまったとしても、使命遂行に必要な物品はしっかり避難ができていて、焼かれたシルキー(PC)の代わりさえ用意できればすぐにでも使命遂行を再開できる環境を何が何でも整えているところです。そして放火の全容、詳細を皆さまに画像、できれば映像も含めてしっかりとご報告させて頂くつもりです。徳仁の大罪を絶対に許しはしない、大量強姦殺人に飽き足らず放火まで実行した徳仁はじめ明仁、文仁、悠仁を絶対に死刑にするために細大漏らさずブログを書き残すつもりです。霊団、先行防御をもっとやって放火を食い止めろ、僕が放火されたら使命遂行に穴が開いてあんたたちも困るだろ。ちゃんと防御しろ。

えーでは昨日さらにインスピレーションが降っていますので追加でそれもご紹介致します。「絶対寝込み」これは霊団が言うように僕が邸内に突入したとしたら100%寝込みを襲われるという意味ですが、まぁこれは本当に突入する事になったら考えるべきでしょうが確かに事前に頭に入れておくべき警戒ポイントですね。寝込みを銃とか日本刀で襲ってくるのでしょうきっと。もちろん僕は「クーマ作戦」で対抗するつもりですがこれはちょっと現場に行って部屋の形状を確認してからでないと作戦が立てられませんね。それにあたってはピーチピチ(佳子)がどういう立ち位置で僕を扱うかが気になるところです。どうやら僕を守ってはくれない様子ですね霊団によると。あくまでも強姦殺人魔に協力するつもりなのでしょうかピーチピチ(佳子)は。本当に困ったものですが…。もし霊団の仰る通り僕が邸内に突入したとしたら、僕の味方をしてくれるのは奴隷の女の子たちだけという事になるのかも知れません。完全アウェーの闘いを余儀なくされます。それが徳仁の狙いなのかも知れません。とにかく僕は暗殺されるでしょうが絶対にその様子をブログにUPしてから死にます。

あともうひとつ幽体離脱時の映像で、僕の給料が「銀行振込」ではなく「手渡し」になるというものがありました。霊団これは一体なんでしょうか。邸内(死地)に突入したら手渡しになるという意味ですか。ちょっとよく分かりませんが、それも僕を油断させて暗殺の機会を伺う明仁、文仁、徳仁、悠仁の闇の作戦の一部だと思われます。とにかく僕と仲良くするフリをしてスキを見計らって暗殺を実行するという事でしょう。この映像も霊団からの事前情報で頭に入れておくに越した事はないのですが、そう言ってくるんだったら本当に突入させろよ、と言いたいですね。えー「僕が邸内に突入する」 wp.me/pa9cvW-1Wh でも書いていますが、明仁、文仁、徳仁、悠仁が僕を邸内に入れるというのはやっぱりどうにも信じられませんよねぇ。そう考えると「放火」の方がより現実味があるという事になってしまいますので僕としても「放火防御」に力を入れざるを得ない状況になっている訳です。とにかく強姦殺人魔、さらに放火魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁を、霊団からの先行情報を駆使して何としても絶対に滅亡させねばならないのです(祈)†

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次に浄化しなければならない要素は宗教でした。これは専門家たちがいくら体系的知識であると誇り進歩性があると信じてはいても、各宗教の創始者の言説が束縛のロープとなって真実の理解の障害となっておりました。

『ベールの彼方の生活④』分かりやすく言えば、私が地上時代にそうであったように(4章2参照)ある一定のワクを超える事を許されませんでした。そのワクを超えそうになるとロープが―方向が逆であればなおの事強烈に―その中心へつながれている事を教え絶対に勝手な行動が許されない事を→

『ベールの彼方の生活④』→思い知らされるのでした。その中心が他でもない、“組織としての宗教の創始者”であると私は言っているのです。イスラム教がそうでしたし、仏教がそうでしたし、キリスト教もご多分にもれませんでした。狂信的宗教家が口にする言葉はなかなか巧みであり、→

『ベールの彼方の生活④』→イエスの時代のユダヤ教のラビ(律法学者)の長老たちと同じ影響力を持っているだけに吾々は大いに手こずりました。吾々は各宗教のそうした問題点を細かく分析した結果、その誤りの生じる一大原因を突き止めました。私は差し当たって金銭欲や権力欲、狂信という言わば→

『ベールの彼方の生活④』→“方向を間違えた真面目さ”、自分は誠実であると思い込んでいる者に盲目的信仰を吹き込んでいく偽善、こうした派生的な二次的問題は除外します。そうした事はイスラエルの庶民や初期の教会の信者たちによく見られた事ですし、さらに遠くさかのぼってもよくあった事です。

『ベールの彼方の生活④』私はここではそうした小さな過ちは脇へ置いて、最大の根本的原因について語ろうと思います。吾々は地球浄化のための一大軍勢を組織しており、相互に連絡を取り合っております。が各小班にはそれぞれの持ち場があり、それに全力を投入する事になっております。

『ベールの彼方の生活④』私はかつて地上でキリスト教国に生をうけましたので、キリスト教という宗教組織を私の担当として割り当てられました。それについて語ってみましょう。私のいう一大根本原因は次のような事です。地上ではキリストの事をキリスト教界という組織の創始者であるかのような→

『ベールの彼方の生活④』→言い方をします。が、それはいわゆるキリスト紀元(西暦)の始まりの時期に人間が勝手にそう祭り上げたに過ぎず、以来今日までキリスト教の発達の頂点に立たされてきました。道を求める者がイエスの教えに忠実たらんとして教会へ赴き、あの悩みこの悩みについて→

『ベールの彼方の生活④』→指導を求めても、その答えはいつも“主のもとに帰り主に学びなさい”と聞かされるだけです。そこで、ではその主の御心はどこに求めるべきかを問えば、その答えは決まって1冊の書物―イエスの言行録であるバイブルを指摘するのみです。

『ベールの彼方の生活④』その中に書かれているもの以外は何一つ主の御心として信じる事を許されず、結局はそのバイブルの中に示されている限りの主の御心に沿ってキリスト教徒の行いが規制されていきました。かくしてキリスト教徒は1冊の書物に縛りつけられる事になりました。

『ベールの彼方の生活④』なるほど教会へ行けばいかにもキリストの生命に満ち、キリストの霊が人体を血液がめぐるように教会いっぱいに行き渡っているかに思えますが、しかし実はその生命は(1冊の書物に閉じこめられて)窒息状態にあり、身体は動きを動きを停止し始め、ついには→

『ベールの彼方の生活④』→その狭苦しい軌道範囲をめぐりながら次第に速度を弱めつつありました。記録に残っているイエスの言行が貴重な遺産である事は確かです。それは教会にとって不毛の時代を導く一種のシェキーナ(ユダヤ教の神ヤハウェが玉座で見せた後光に包まれた姿―訳者)のごとき→

『ベールの彼方の生活④』→ものでした。しかし、よく注意して頂きたいのは、例のシェキーナはヤコブの子ら(ユダヤ民族)の前方に現れて導いたのです。その点、新約聖書は前方に現れたのではなく、後になって崇められるようになったものです。それが放つ光は丘の上の灯台からの光にも似て確かに→

『ベールの彼方の生活④』→真実の光ではありましたが、それは後方から照らし、照らされた人間の影が前方に映りました。光を見ようとすれば振り返って後方を見なければなりません。そこに躓きのもとがありました。前方への道を求めて後方へ目をやるというのは正常なあり方ではありません。

『ベールの彼方の生活④』そこに人間が自ら犯した過ちがありました。人間はこう考えたのです―主イエスはわれらの指揮者(キャプテン)である。主がわれらの先頭に立って進まれ、われらはそのあとに付いて死と復活を通り抜けて主の御国へ入るのである、と。が、そのキャプテンの姿を求めて→

『ベールの彼方の生活④』→彼らは回れ右をして後方へ目をやりました。それは私に言わせれば正常ではなく、また合理性にもそぐわないものでした。そこで吾々は大胆不敵な人物に働きかけて援助しました。ご承知の通りイエスは自分より大きい業を為すように前向きの姿勢を説き、後ろから→

『ベールの彼方の生活④』→駆り立てるのではなく真理へ手引きする自分に付いてくるように言いました。(※)その事に着目し理解して、イエスの導きを信じて大胆に突き進んだ者がいました。彼らは仲間のキリスト教者たちから迫害を受けました。しかし次の世代、さらにその次の世代になって、→

『ベールの彼方の生活④』→彼らの蒔いたタネが芽を出しそして実を結びました。(※ヨハネ14・12)これでお分かりでしょう。人間が犯した過ちは生活を精神的に束縛した事です。生ける生命を1冊の書物によってがんじがらめにした事です。バイブルの由来と中身をあるがままに見つめずに―→

『ベールの彼方の生活④』→それはそれなりに素晴らしいものであり、美しいものであり、大体において間違ってはいないのですが―それが真理の全てであり、その中には何一つ誤りはないと思い込んだのです。しかしキリストの生命はその後も地上に存続し、今日なお続いております。

『ベールの彼方の生活④』4人の福音書著者(マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネ)によって伝えられたバイブルの中のわずかな言行は、およそキリスト教という流れの始源などではあり得ません。その先の広い真理の海へと続く大きい流れの接点で立てている“さざ波”程度のものにすぎません。

『ベールの彼方の生活④』その事に人間は今ようやく気づき始めています。そしてキリストは遠い昔の信心深き人々に語りかけたように今も語りかけて下さる事を理解し始めております。そう理解した人たちに申し上げたい―迷わず前進されよ。後方よりさす灯台の光を有り難く思いつつも、→

『ベールの彼方の生活④』→同時に前方にはより輝かしい光が待ち受けている事を、それ以上に有り難く思って前進されよ、と。なぜなら当時ナザレ人イエスがエルサレムにおられたと同じように今はキリストとして前方にいらっしゃるからです。(後方ではなく)前方を歩んでおられるのです。

『ベールの彼方の生活④』恐れる事なくその後に付いて行かれる事です。手引きして下さる事を約束しておられるのです。後に付いて行かれよ。躊躇しても待っては下さらないであろう。福音書に記された事を読むのも結構であろう。が、前向きに馬を進めながら読まれるがよろしい。

『ベールの彼方の生活④』“こうしてもよろしいか、ああしてもよろしいか”と、あたかもデルポイの巫女に聞くが如くに、いちいち教会の許しを乞う事はお止めになる事です。そういう事ではなりません。人生の旅に案内の地図(バイブル)を携えて行かれるのは結構です。進みつつ馬上で開いて→

『ベールの彼方の生活④』→ご覧になるがよろしい。少なくとも地上を旅するのには間に合いましょう。細かい点においては時代遅れとなっているところがありますが、全体としてはなかなかうまく且つ大胆に描かれております。しかし新しい地図も出版されている事を忘れてはなりません。

『ベールの彼方の生活④』ぜひそれを参照して、古いものに欠けているところを補って下さい。しかし、ひたすら前向きに馬を進める事です。そして、もしも再び自分を捕縛しようとする者がいたら、全身の筋肉を引き締め、膝をしっかりと馬の腹に当てて疾駆させつつ、後ろから投げてかかるロープを→

『ベールの彼方の生活④』→振り切るのです。残念ながら、前進する勇気に欠け前を疾走した者たちが上げていったホコリにむせかえり、道を間違えて転倒し、そして死にも似た睡眠へと沈み込んで行く者がいます。その者たちに構っている余裕はありません。なぜなら先頭を行くキャプテンはなおも→

『ベールの彼方の生活④』→先を急ぎつつ、雄々しく明快なる響きをもって義勇兵を募っておられるのです。その御声を無駄に終わらせてはなりません。その他の者たちの事は仲間が大勢いる事ですから同情するには及ばないでしょう。死者は死者に葬らせるがよろしい(マタイ8・22)

『ベールの彼方の生活④』そして死せる過去が彼らを闇夜の奥深くへ埋葬するに任せるがよろしい。しかし前方には夜が明けつつあります。まだ地平線には暗雲が垂れ込めておりますが、それもやがて太陽がその光の中に溶け込ませてしまう事でしょう―すっかり太陽が上昇しきれば、→

『ベールの彼方の生活④』→そしてその時が至れば全ての人間は、父が子等をひとり残らず祝福すべくただ1個の太陽を天空に用意された事に気づく事でしょう。その太陽を人間は、ある者は北から、ある者は南から、その置かれた場所によって異なる角度から眺め、従ってある者にとってはより明るく、→

『ベールの彼方の生活④』→ある者にとってはより暗く映じる事になります。しかし眺めているのは同じ太陽であり、地球への公平な恩寵として父が給わった唯一のものなのです。また父は民族によって祝福を多くしたり少なくしたりする事もなさりません。地上の四方へ等しくその光を放ちます。

『ベールの彼方の生活④』それをどれだけ各民族が自分のものとするかは、それぞれの位置にあって各民族の自由意志による選択にかかった問題です。以上の比喩を正しくお読み下されば、キリストがもし一宗教にとって太陽の如きものであるとすれば、それは全ての宗教にとっても必然的に同じもので→

『ベールの彼方の生活④』→あらねばならない事に理解がいくでしょう。なんとなれば太陽は少なくとも人間の方から目を背けない限りは、地球全土から見えなくなる事は有り得ないからです。確かに時として陽の光が遮られる事はあります。しかし、それも一時の事です。 アーネル†