2020年7月10日

まだまだ紹介し切れていないインスピレーションがいくつもあります。ひとつだけ説明してみましょう。「みんなに見てもらいますから」これは僕、たきざわ彰人の事をメディアに登場させるとかそういう意味なのではないでしょうか。ピーチピチ(佳子)がこのようにアクションを起こしてくれる事を願わずにはいられませんが、ピーチピチの卒業式画像にも書きましたように僕の事は良く思ってくれなくても構いません。それなら別に今に始まった事ではなく、2012年6月に霊性発現を果たして以降の僕の人生は軽蔑、嘲笑、誤解、嫉妬、侮蔑、罵倒の嵐でした。

これは霊覚者などと名乗り霊的内容を公言しまくり、さらにそれにとどまらず明仁、文仁、徳仁、悠仁を強姦殺人魔と情報拡散しまくっている僕の宿命とも言えるでしょうから、地上に残されている限り真実の僕の姿は理解されないまま終わる事になりますので、ピーチピチ(佳子)に悪く思われてしまうのは仕方ない事でしょう。しかしピーチピチに(本当にしつこくて申し訳ありませんが)僕の全存在をかけて、イエス様の御名にかけてどうしてもお願いしなければならない事があります。それは「奴隷の女の子たちの救出」です。ピーチピチ(佳子)も奴隷の女の子たちと全く同じシチュエーションで赤ちゃんの時に文仁に盗まれた女の子です。ちょっと紹介できませんが、幼い時のピーチピチの扱いも奴隷の女の子たちとほぼ同じだったそうです。霊団から教えて頂いたのです。つまりピーチピチ(佳子)は日本で1番、奴隷の女の子たちの心の苦しみを分かってあげられる女性という事になります。そしてピーチピチはその目で、物的肉眼で四肢切断、強姦殺人されていく女の子たちを相当数、もしかしたら100人以上見てきているはずなのです。

このようなアナログ絵も描きました。奴隷の女の子たちにも夢があります。強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁はその女の子たちの夢、人生、人格、人権を完全に無視して「処刑遊び」と称して殺しまくっているのです。この人類最大級の蛮行を許し認める理由は人間界、この全宇宙に存在せず、この大罪を許してもらえる謝罪文というものも存在しません。人間のクズ、人類の恥である明仁、文仁、徳仁、悠仁の未来は「死刑」以外に有り得ない訳ですが、その当たり前の事を実行するにあたりピーチピチ(佳子)にどうしても協力してもらわねばなりません。オトナになる事も許されず遊び殺される奴隷の女の子たちを助けてあげるのに理由は必要ありません。強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁を死刑にするのに理由は必要ありません。世界中の誰もが納得して下さるはずです。コイツらを擁護する発言をする者は、その自分の発言によって自分で自分の首を絞める事になります。霊団が降らせたインスピレーション「みんなに見てもらいますから」この通りの状況になってピーチピチ(佳子)が【神】から賜った理性に基き奴隷の女の子たちの救出に協力してくれる事を僕、たきざわ彰人は地上に残された最後の1秒まで信じます(祈)†

フラー07をver2.0にグレードアップすると僕がお話している部分で霊団がピィィィンと波長を降らせてきました。描きなさいと言ってる訳ですね。なぜ霊団はフラーを推してくるんでしょう。「フラー強調」 wp.me/pa9cvW-1Kx も書きましたが未だに謎です。まぁ霊団が意味もなく波長を降らせてくる訳ありませんので一応フラーがイエス様のご意志遂行に役に立っているという意味なのでしょう。とは言えフラーばかりになってしまっては本末転倒ですので僕が地上に残された大目的を常に心に刻みつつ(日々ムカつかされながらも)霊団の導きに従って強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁を1日も早く死刑にして奴隷の女の子たちを救出してあげる事に全力を尽くさねばなりません。救出のキーはピーチピチ(佳子)なのですが…どうしたものでしょうか(祈)†

山を愛する霊覚者・たきざわ彰人(アキト)祈†
note(MP3)
bit.ly/2EeRdFk

何しろ霊団が降らせてくるインスピレーションを全て紹介はできていないんですよこれまでも。そこを何とか皆さまにご紹介しようと連続でブログを書いていたのですがパワーには限界がありますので今回は録音という形を取らせて頂きました。「fleur7」とは以前、twitterで永久凍結を受けてMastodonにておひとりさまインスタンスを立ち上げた時のドメイン名「fleur7.com」の事です。ご存じない方もたくさんおられる事でしょう。まだまだ霊団はインスピレーションを降らせていますのでもっと高頻度にMP3録音をやるのもいいかも知れません。まずは「フラー07ver2.0」のデザインに入ります。霊団が僕に怒涛にインスピレーションを降らせてくる目的はただひとつ「強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁の蛮行を止める事」です。地上に残された僕が行う全ての作業は、人類の恥、人間のクズである明仁、文仁、徳仁、悠仁を死刑にして滅亡させるため、イエス様との約束を完璧に果たし切るためです。

1つの問題についての意見がまちまちであるのは人間世界の常であるが、宗教問題、特にこうした霊界通信の解釈においてそれが顕著であるように思われる。東洋では仏典、西洋ではバイブルの解釈の違いがそれぞれの世界で無数と言ってよいほどの宗派を生み、→

『ベールの彼方の生活③』→今なお新興させつつある事実がそれを如実に物語っている。それは死後の下層界、つまり地球に隣接した界においても同様であるらしく、むしろ地上の現状はその反映にほかならないというのが真相であるらしい。それはともかく、本書を含めて、筆者がこの2、3年来→

『ベールの彼方の生活③』→紹介してきた西洋的啓示、いわゆるスピリチュアリズム的霊界通信に対する読者の反応も様々であろう。頭から否定してかかる人がまず多いであろう。その否定派にも、霊言とか自動書記という事実そのものを否定する人と、その事実は認めても、その原因は霊媒の→

『ベールの彼方の生活③』→潜在意識にあると簡単に片づける人とがいる。そういう人にとっては、人間の潜在意識とはいかなるものなのか―その潜在意識に思想的通信を語る能力、あるいは綴る能力があるのかどうかは別に問題ではないらしい。筆者にはその方がよほど有りそうにない事のように→

『ベールの彼方の生活③』→思えるのだが…。他方、霊的なものとなったら何でも有難がる人もいる。霊媒と自称する人が口にする事、あるいは綴る事は全て有難いものとして、その真偽性、内容の程度、思想的矛盾といった事は一切問わない。この種の人は、死後の下層界にはそういう信じやすい→

『ベールの彼方の生活③』→お人好しを相手にして、空よろこびさせては快哉を叫んでいる低級霊の集団が世界を股に掛けてドサ回りしている事実をご存じない。霊界の者にとって他界者の声色や仕草を真似たり身元を調査するくらいの事は朝飯前である事も又ご存じない。

『ベールの彼方の生活③』さて、霊界通信の信憑性をはかる尺度には主観・客観の双方に幾通りもあろうが、それを今ここで論じる余裕はない。それだけで1巻の書となるほど大きな問題だからである。が、そのいずれにも属さない尺度として、時代の波に洗われてなお揺るぎない信頼を得ているもの―→

『ベールの彼方の生活③』→言い換えれば霊界通信のロングセラーであるという事が挙げられる。筆者がこれまで紹介してきたもの―この『ベールの彼方の生活』をはじめとして『シルバーバーチの霊訓』、モーゼスの『霊訓』の3大霊訓はいずれも世界的ロングセラーである。

『ベールの彼方の生活③』人によってはなぜそんなに古いものばかりを、と思われるかも知れない。が、筆者は“古いから”こそ信憑性が高いとみているのである。いい加減なものはいずれアラが出る。その点右の3つの通信は100年前後の時代の波に洗われてなお1点のケチもつけられた事のない、→

『ベールの彼方の生活③』→正真正銘の折紙つきのものばかりである。今その3者を簡単に比較してみるに、シルバーバーチは“誰にでも分る霊的教訓”をモットーとしているだけに、老若男女の区別なく、巾広い層に抵抗なく受け入れられているようである。神をインディアンの用語である→

『ベールの彼方の生活③』→“大霊”the Great Spiritと呼び、キリスト教の用語であるGodをなるべく用いないようにしている。イエス・キリストについても、本質はわれわれ一般人と同じである―ただ地上に降誕した霊の中で最高の霊格を具えた人物、としているだけで→

『ベールの彼方の生活③』→決して特別扱いをしていない。交霊会が開かれたのが英国というキリスト教国だっただけにキリスト教に関連した話題が多いのは当然であるが、それを普遍的観点から解説しているので、どの民族にも受け入れられるものを持っている。世界中に熱烈なファンがいるのも→

『ベールの彼方の生活③』→“むべ”なるかなと思われる。一方、モーゼスの『霊訓』はかつてのキリスト教の牧師である霊媒モーゼスと霊団の最高指導霊インペレーターとの間のキリスト教を主題とした熾烈な問答集であり、結果的にはモーゼスのキリスト教的先入観が打ち砕かれてスピリチュアリズム的→

『ベールの彼方の生活③』→解釈が受け入れられていく事になるが、インペレーター自身はキリスト以前の人物であり、内容的には普遍的なものを含んでいても、主題が主題だけに、キリスト教に縁のない方には読みづらい事であろう。これがさらに『ベールの彼方の生活』になると、オーエン自身は→

『ベールの彼方の生活③』→もとより背後霊団が地上時代に敬虔なクリスチャンだった霊ばかりなので、徹頭徹尾キリスト教的である。そして第3巻の本書に至っていよいよ(オーソドックスなキリスト教から見て)驚天動地の内容となってきた。その事はオーエン自身が通信を綴りながら再三にわたって→

『ベールの彼方の生活③』→書くのを躊躇している事実からも窺えよう。その重大性に鑑みて、この“あとがき”は頭初は「解説」として私見を述べるつもりでいたのであるが、いざ書き始めてみると、リーダー霊の述べている事が日本古神道の宇宙創成説、いわゆる造化の3神ならびに国生みの物語と→

『ベールの彼方の生活③』→あまりに付節を合する事にますます驚きを覚え、これを本格的に、そしてまた責任ある態勢で扱うには筆者の勉強があまりに未熟である事を痛感し、さし当って断念する事にした次第である。これ以外にも本書には注目すべき事柄が幾つも何気ない形で語られている。

『ベールの彼方の生活③』シンボルの話は“九字を切る”事の威力を思い起こさせ、天使の名をみだりに口にする事を戒める話は言霊の存在を彷彿とさせ、最後のところでボスの館を脱出した方法は物品引寄現象(アポーツ)も同じ原理である事を教えている。その他、1つ1つ指摘してそれに心霊的ないし→

『ベールの彼方の生活③』→古神道的解釈を施していけば、ゆうに1冊の書となるであろう。将来の興味深いテーマである事は間違いない。筆者がこの霊界通信全4巻を入手したのは20数年前の事である。それ以来何度か目を通しながらも、その文章の古さと内容の固さのせいで、正直言って→

『ベールの彼方の生活③』→一種の取っつきにくさを拭えなかった。しかし、いずれは世に出すべきものであり、又必ずや重大な話題を提起する事になるとの認識は変わる事がなかった。いよいよ今回それを訳出するに当って、訳者としての良心の許す限りにおいて、その“取っつきにくさ”を→

『ベールの彼方の生活③』→取り除くよう工夫し、キリスト教的なものには、素人の筆者の手の届く限り注釈を施し、出典もなるべく明記して(本文には出ていない)読者の便宜を計ったつもりである。ついでにもう1つ付け加えれば、実はこの全巻の各章には題が付いているが各通信の1つ1つには→

『ベールの彼方の生活③』→何も付いていない。ただ日付と曜日が記されているのみである。このままではあまりに芸がなさすぎるので、筆者の判断で内容に相応しいと思う題を考えて付した。老婆心ていどの事として受け取って頂きたい。これであと1巻を残すのみとなった。オーエン自身も第4巻が→

『ベールの彼方の生活③』→圧巻であると述べている。どの巻も同じであるが、いよいよ翻訳に取りかかる時は、果たして自分の力で訳せるだろうかという不安が過り、恐れさえ覚えるものである。あと1巻―背後霊団ならびにオーエン氏のかつての通信霊の援助と加護を→

『ベールの彼方の生活③』→祈らずにはいられない心境である。 1986年1月 近藤千雄