夕方になってナザレの人たちが泉のほとりにやってきた。群れの中にクローパスもいた。彼は正直な人間で、あの律法学者とは正反対であった。クローパスは妻からイエスの事を聞いていたので、よく承知していた。
目前で律法学者ベナーデルが猛り狂った蛇のように猛毒をイエスに浴びせかけ、少年をののしっているのを見て、クローパスは仲裁に入り、どうしてこんな酷い事をするのかと質した。
クローパスは立派な商人で、ナザレでは幾らか財産も持っていたので、ベナーデルは彼に対しては一目も二目もおいていた。そこでベナーデルは、大勢の人が集まっている事を悪用して、いきなりイエスの悪口を並べたてたのである。
<イエスは律法を破った大罪人である。モーセに逆らい、神に逆らった>と言いふらした。何も知らない人々はこれを聞いて恐れをなした。律法学者の酷い仕打ちを恐れたからである。居合わせた人々は、目の前で呆然と立ちすくんでいるイエスを眺めていた。
イエスはそれに対して一言も弁解しようとはしなかった。イエスには静けさと気高い雰囲気が漂っていた。これを冷静に観察できたのは、おそらくクローパスだけではなかったろうか。彼は商人として多くの異国の人々を相手に仕事をしてきたので、これはとても異常な事だと判断し、驚くばかりであった。
目前に立っているイエスの存在は、もうただの少年ではなく、ヨルダンの隠者とたたえられている灰色の髭の老人ベナーデルよりもはるかに偉大で清純に見えた。イエスは幼少の頃より、内なる霊の炎によって変容するのであった。律法学者も群衆もそんなイエスには気付かず、ある者は棒切れを振り回しながらイエスを脅し、他の者は腕を振り上げてイエスに襲いかかろうとした。
しかしイエスをとりまく静けさには勝つ事ができず、怒り狂うベナーデルを不動のまま睨みつけているイエスに近寄る事ができなかった。クローパスは体も大きく腕力もあった。彼は暴力をふるおうとしている群衆をなだめ、静かになってからベナーデルに向かって言った。
「あなたは、この子が律法を破り、神にそむいたと言ってお責めになりましたね。もっと公正に事を進めてはいかがです?彼にも弁明するチャンスを与える与えるべきではありませんか!私たちは全ての事が明らかにならないうちに人を審いたり罰したりする事はできないんですよ!!」
聴衆はクローパスの主張に賛成した。そこでイエスとベナーデルが聴衆の面前でお互いに話し合う事になった。イエスはみんなの前に手を上げながら訴えた。「僕は何の罪も犯してはおりません。もしこのラビが僕の質問に答えてくれるなら、僕が決して罪を犯していない事が解ってもらえると思います」
律法学者は小僧のような少年から挑戦されたので、更に大声でわめきたてた。<こいつはガリラヤ一の大馬鹿者で、わしと口のきける奴じゃない!こいつが犯した罪をみんなで懲らしめてやるんだ!!>クローパスが言った。
「あなたはこの子が正しかったと言われるのが怖いのですか?」「とんでもない、そんな事があるもんか!」「そうですか、そんなら勇気をもってこの子の言い分をお聞きになったらどうですか?」とりまく群衆も<そうだ!そうだ!それが公平なやり方だ!>と囁きあっていた。
律法学者は仕方なくイエスと対面した。イエスはたずねた。「あなたは僕が異邦人と話したという事で神に逆らったとおっしゃいます」「その通りだ、そりゃ大変悲しむべき大罪じゃ。お前はあいつらと仲良くしておったからじゃ、それも1度ならず頻繁につきあっていたではないか」
イエスは答えた。「ラビ、あなたは大変学問のある方でいらっしゃいます。そこで先生におたずねしますが、神様はこの世界と全てのものをお創りになったというのは本当でしょうか?」
「おお、その通りじゃ、だがその御方の名前を妄(みだ)りに口にしてはならんのじゃ、だのにお前の汚らわしい口でその方を冒涜したではないか」イエスはめげずに続けた。「それならば、この世界をお創りになった神様は、人類もお創りになったはずですが?」
「当たり前よ!神は手始めに、アダムの鼻の穴から息を吹き込まれ、全て生命ある者とされた事は、イスラエルの赤んぼでも知っておるわい!」ベナーデルは嘲笑った。「それならば僕と話した異邦人も神様の御手によって創られた方ではないでしょうか?」
律法学者はここで言葉がつまってしまった。彼の顔は歪み、イエスの質問の目的がわかりかけてきた。クローパスはすかさず言った。「そうだとも、神は全て生きる者をお創りになったのだ!あのエジプト人もそうなのだ!」イエスは言った。「神様がお創りになった方と僕が話しあったからといって、どうして僕が大罪を犯す事になるのでしょうか?」聴衆はざわめきだした。
その中に居合わせた旅の人が円陣の外側から叫んだ。「よくぞ言った!!本当にお前は勇敢な子だ!」聴衆もベナーデルも、熱気に包まれていたので誰が叫んだのか解らなかった。ベナーデルは完全にぶちのめされてしまい、この少年の知恵に腹を立てるばかりであった。
彼も負けずに言いがかりをつけてきた。「神の創られた者も堕落して、悪魔に魅入られる者だっているんだぞ!あの異邦人め、否、異邦人は全部だ!ベルゼブルの家来なんじゃ、だからあいつらはもう神の子ではないんじゃ。それなのにお前は、悪魔の血が流れている奴と話し合って大罪を犯したのじゃ」
「そうですか、もし異邦人があなたのおっしゃる通り悪魔の王子ベルゼブルに連れて行かれてしまったいうならば、連れ戻す努力をしたらいかがです?異邦人もきっと神様の驚くべき御力によって立ち帰る事ができると思うのですが、そうじゃないんですか?」
「そのためには、どうしても彼らと話し合う事しかないと思うのですが。羊の群れから迷い出た羊がいる時には、羊飼いは懸命に探し出そうとするじゃありませんか!あなたが上辺だけでなく、本当に知恵のある方ならば、異邦人から求められれば堂々と話し合って、彼の無知と堕落を改心させてあげられるではありませんか」
「いやあ、全くその通り!私はみんなの前であなたと話し合えるチャンスが来たようだ」とエジプトの人が群衆をかきわけながらベナーデルの前にやってきた。「もしこの論争に負けたら、私はあなたの教えや、おっしゃる事に何でも従いますよ」
この言葉を聞いて律法学者はわなわなと震えだした。ベナーデルはとても臆病で、自分があまり才知に長けていない事を承知していたからである。ベナーデルは、形振り構わずまるで狂った狼のように、エジプトの人を罵りまくった。
「このギリシャ人を見ろ!こいつはこの子をすっかり駄目にしてしまったのだ。それだけでは飽き足らず、偶像を拝ませようとしているのだ。奴を直ぐに追い出してしまうんだ!こいつをナザレから追い出さなきゃ、もっとたくさんの子供たちが堕落して、預言者が言っている地獄になっちまうんだぞ!」
クローパスの努力も空しく、律法学者とイエスを取り囲んでいた群衆が騒ぎ出した。この連中は途中からかけつけた野次馬で、初めからの経緯を知らなかったせいもあって、ベナーデルがエルサレムから来た律法学者というだけで頭からベナーデルを盲信していた。
だから群衆は、ベナーデルの命令に従い、この異邦人を取り囲んで烈しく罵り、彼をめがけて石を投げつけ始めた。遂に異邦人はその場から逃げ出し、群衆はまるで犬のように彼のあとを追いかけていったのである。
暫くして泉のほとりに残ったのは、律法学者とイエス、及びヨセフの3人であった。ヨセフは弟のトマスからイエスが律法学者につっかかって、散々侮辱していると聞かされて、急いでかけつけた。彼はトマスの悪意とでたらめな情報を信じこんでいたので烈しく怒り、道に捨てられている塵芥(ごみ)をやにわにひっつかんでイエスの頭に投げつけた。
それだけでは気がすまず、イエスを殴りつけた。ベナーデルはヨセフに命じた<イエスを棒でぶちのめし、絶食させ、1日中大工仕事をさせなさい>と。
気の弱いヨセフは、ベナーデルの命令は必ず守ると約束し、頭をかがめながらイエスを連れて帰った。家に帰ると、ヨセフは妻を呼び、家の中で遊んでいた子供たちを外に出してから、今日の出来事を詳しく話して聞かせた。特に律法学者から散々非難された事を強調した。
話が終ると母マリヤは哀れな目つきでイエスを見やり、悲痛な声で言った。「まさか!この子が神を冒涜するなんて!あなたはそんなに悪い事を本当にやったの?みんなの前で聖なる神様の御名を汚したのですか?」「ちがいます、お母さま。律法学者は間違っています。」
「彼の言った事は、ひとつを除いてみんな“ウソ”なんです。そのひとつというのは、僕があのギリシャ人と話し合ったという事です。この方はとてもためになる事を話してくれました。彼は賢い人で、本当にためになる事を沢山話してくれたのです」ヨセフが口をはさんだ。
「律法学者が間違っていたのなら、なぜお前は抗議しなかったのか?」「そんな事が役に立つと思いますか?お父さんだってあのベナーデルはウソをつかないと信じているんでしょう。いつもそうおっしゃっていましたね」ヨセフはうらめしそうに言った。
「ああ、あの異邦人めが、すっかりお前を目茶苦茶にしてしまったんだ。お前はまどわされているんだよ」イエスが言葉を尽して説明しても、単純なヨセフにはわかってもらえず、律法学者が彼に命じた通りにイエスがくたくたになるまで、イエスを棒で叩き続けた。
この時からイエスはヨセフにびくびくするようになった。全身に受けた打ち傷は治っても、ヨセフに対する不信感は簡単に癒されなかった。マリヤ・クローパスがヨセフの所を訪ねた時、彼女はすばやくイエスが受けた災難の疵(きず)の深さを知った。
イエスは、その時まで、どれ程父母を慕っていたか彼女はよく知っていたからである。両親ともイエスのいう事を信じないで、あの律法学者が並べたてたウソを信じてしまった。母マリヤは、隣近所で大恥をかく事になった。
彼らの目は冷たく、不快感を表わし、子供たちにはイエスから遠ざかるように言ったのでイエスは暫くの間、全く1人で過ごさねばならなかった。クローパスは、あの大騒ぎがあった夜、のっぴきならぬ用事ができて、ピリポ・カイザリヤに行っていた。
しかし帰ってくると、妻からイエスが律法学者から酷い仕打ちを受けて事態が悪化していた事を知った。そこでクローパスは、直ぐヨセフの所へ出かけて行き、あの時の経緯を詳しく話して聞かせ、ヨセフとマリヤに、イエスが言っている事が真実である事を信じさせようとした。
それに対してヨセフが言った。「あの子の受けた心の疵(きず)はもう治らないでしょうよ。律法学者がウソを言ったとしてもあれだけの尊敬を集めている権威者には歯が立ちませんよ。私に仕事をくれた人たちも今ではそっぽを向いてしまうし、すっかり信用を失くしてしまいましたよ」
「挽回するには、よほど時間がかかるでしょうよ」クローパスは言った。「この世は無情だね。何とかならんのかね」マリヤが言った。「全然らちがあきませんわ」ヨセフが続いて言った。「今の私たちにとって大事な事は、誰が子供たちを食わせてやるかなんですよ」
ヨセフの言葉が終らないうちにイエスが家の中に入ってきた。彼の顔には、ありありと悲哀が色こく表れているのをクローパスは見てとった。
母マリヤは彼をしっかりと抱きしめて目に涙をいっぱいにためながら、何度もイエスに接吻するのであった。この2人の母子は、ひとつ心になっていた。
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