さてこの旅館はエルサレムからあまり遠くない不毛の地に立っていた。このあたりは、まるで復讐の女神の崇りにでもあったように皺くちゃで、禿頭のような恰好をしていた。ただ春のほんの一時だけ緑っぽくなる程度で、それもチョビチョビと生えるだけであった。しかもまたたく間に萎れてしまうのであった。
夏になると、岩だらけの谷や断崖の丘には樹木も花もなく、むきだしの石は灼熱の太陽に焦がされて、行きかよう人々の足を痛めてしまうのである。マリヤはこのような苛酷な自然の中で生きのびねばならず、すっかり痩せおとろえ、心が挫けてしまうこともあった。
そんなときには彼女はガリラヤ時代のことを思い出し、葡萄の樹木で覆われた斜面の光景、美しい花畑、紺色に輝いている平和なガリラヤ湖を憧がれるのであった。しかし彼女は自分の願っている夢が次第に大きくなっていくのを感じていた。
収穫の季節がやってきて、この旅館の主人は大がかりな仕度を始めた。妻とマリヤには家全体の掃除を命じた。彼の考えでは“仮庵の祭”(幕屋の祭ともいう)が近づいていたので多ぜいの巡礼の旅人がここを通ってエルサレムへ向かうと思ったからである。
このときは多くのユダヤ人が聖なる都シオン(エルサレム)に熱い思いを向けるのである。旅館の主人の思惑は的中した。無数の旅人がこの前を通りすぎて行った。妻もマリヤも朝早くから夜おそくまで旅人の世話においまくられていた。
御客のなかに、遙か遠くのユーフラテス河の向こう側からやってきたユダヤ人がいた。彼らはマリヤに微笑みかけ、自分たちの世話をして欲しいと願い出た。彼らの様子は他の巡礼とはちがい、高価な衣服を身につけていた。
それで旅館の主人はこれらの珍客を丁寧にもてなした。マリヤは急いで食事の用意を始め、葡萄酒を髭を生やした人々の前に並べた。彼らが食事を終えてから互いに語り出した。「私たちはエルサレムに行ってヘロデ王様に逢おうではないか。彼に逢えば私たちの知らない部分を補ってくれるだろうよ」
そこで旅館の主人は、彼らに何の目的で旅をしているのかを尋ねた。しかも民衆から尊敬されていないヘロデから何をききだそうとしているのかを尋ねた。1人の白い髭を生やした賢人が答えた。「私たちは救い主が間もなく御生まれになるということを知ったのです。私たちは救い主の到来を告げる星を見たのです。私たちはどうしてもその救い主を見つけ拝みたいと願っているのです」
主人は尋ねた。「その御方は何処で御生まれになるのでしょうか」「預言者の言葉によりますと、その御方は、なんでもベツレヘムという所を誕生の地として御選びになったと言われています。“ああベツレヘムよ、汝はユダヤの町々の中でいと小さき町ではない”と記されているのです。そこで私たちはそこに行って救い主を探そうと思っています」
別の髭もじゃの客人が言った。「いやいや、ベツレヘムなんかじゃありませんよ、先生!あなたは賢い方でいらっしゃる。なぜイスラエルの王ともあろう御方がそんな辺鄙な町でお生まれになるとおっしゃるのですか」
3番目の者が言った。「その御方の誕生地については全く知られていないんですよ。とてもじゃないが、救い主の父君や母君のことさえわかっていないんですからねえ」
更に別な客人が言い出した。「そんなことはないですよ、その方の父君はダビデ王様の末裔なんですからね」
賢者たちは互いにゆずらず、激しい口調で救い主の到来についての論争を続けた。かの白い髭の賢者が彼らの激しいやりとりを心配しながら、小声でマリヤを呼んだ。
「叡知というものは、得てして赤子や清い心の持主によって語られるものじゃ。どうかね、お前さんは救い主がそこで御生まれになると思うかね」マリヤは大胆に答えた。「もちろんですとも、先生。主の御使いの方が丘の上の羊飼いに顕われて、メシヤの誕生を御告げになったそうですよ!」
これを聞いた賢者は、とびあがらんばかりに驚いた。そしてマリヤにその件に関する経緯について次から次へと質問し、彼女が救い主の誕生について語られた預言をよく知っていることに驚いた。
この老人は、別れの挨拶を言う前に、マリヤをつかまえて、至高なる神の御子を見出したときは、黄金と宝石を持参して御子の揺籠の前に拝みに来ると言った。それを聞いた灰色の髭の賢者がきいた。「
もし救い主が卑しい身分の家にでも生まれたらどうなさるんですか」「ああ、たとえ我が主、御民の王が星空の真下に生まれ、頭を覆うものが無くても、私はその方を拝みまするぞ!また、たとえその御方が羊飼いの帽子の中に寝かされていたとしても、私は拝みまするぞ!
実際のところ、誰が明日の偉大な出来事を知っているというのだろうか。たとえ羊飼いの息子が救い主の座にすえられようとも、私は驚きやせん。すべてが変えられていくのじゃ。此の世の誰が一体身分の卑しい者が民を治める座につかないなどと言えるであろうか。真実が語らんとしていることに耳を傾けてみるがよい!先なる者は後に、後なる者は先になるのじゃ!」
マリヤはこの老賢者が語った一句一句を全部心に刻みつけていた。その夜、彼女が馬小屋の藁ぶとんの上に体をよこたえながら、もうガリラヤのことを回想することなく、自分が救い主の母となった夢を見る程に成長していた。
(註1)「過越の祭」、「ペンテコステ」と共にユダヤの三大祭のひとつ。昔イスラエル民族が40年間モーセに率いられてシナイ半島を流浪し、天幕生活をしていたことを記念する。殊に果物類、油、葡萄の収穫が終ったことを感謝する祝祭となった。9月~10月にかけてエルサレムの神殿で行われた。(旧約聖書、出エジプト記23・16、レビ記23・33~36、民数記略29・12~39、申命記16・13~17を参照)
(註2)ヘロデ大王と言われたヘロデ王家の始祖。イエス誕生当時のユダヤ王で、性格残忍、血縁者も殺害する非道の人間で評判は悪かった。エルサレムに華麗な宮殿を建設し、紀元前20年同地に神殿の再建に着手した。赤子イエスを殺すためベツレヘム地域に生まれた嬰児を虐殺した。(新約聖書のマタイ伝2・1~18及び2・16以下参照)
■2023年1月18日UP■「クスリ」霊団が意図的に僕を苦しい状況に閉じ込めているという意味です(祈)†海で隔てられていても大霊の前では兄弟であり姉妹なのです。私たちの教えは単純です。しかし真実です。自然の摂理に基づいているからです。摂理を無視した方法で地上世界を築こうとすると混乱と無秩序が生じます。必ず破綻をきたします。忍耐強い努力と犠牲を払わない事には、これからも数々の戦争が起きる事でしょう。タネを蒔いてしまった以上はその産物を刈り取らねばなりません。因果律はごまかせないのです。流血の争いというタネを蒔いておいて平和という収穫は刈り取れません。他国を物理的に支配せんとする欲望の張り合いをしながら、その必然の苦い結果を逃れる訳にはまいりません。愛のタネを蒔けば愛が実ります。平和のタネを蒔けば平和が実ります。互助のタネを地上のいたるところに蒔いておけば、やがて互助の花が咲き乱れます。単純な真理なのです。あまりに単純すぎるために、かえって地上の“お偉方”を当惑させるのです…続きを読む→ ■2023年1月25日UP■「霊体で会議に参加し続けてるんですよ」物的脳髄でその様子を全く反芻できません(祈)†どの人間も例外なく物質界に降下するにあたり、指導霊と相談したうえで「こういう試練を体験すればこれだけ向上を果たせる」と考え、自分でその人生を選択して降下してくるのだそうで、つまり奴隷の女の子たちも「殺される人生をあえて選択して降下してきた人間たち」という事になるのですが、僕はそう言われて奴隷の女の子たちを見殺しにする気にはどうしてもなれません。これは僕の個人的意見ですが、物質界に降下するにあたり、基本的には「こういう人生を送る事になる」という概要は決まっているのでしょうが、中には例外もあるのではないかと思っているのです。僕の「霊性発現」はその例外に当たるのではないかと思っているからです…続きを読む→ ■2023年2月8日UP■「パリッシュ」これは画家パリッシュではなく心霊治療家パリッシュの事では?(祈)†インペレーター霊は書籍の中で「物質界の人間はすべからくインスピレーションの媒体に過ぎない」と仰っています。霊界で制作されたモノを物質界の人間にインスピレーションとして送信する、受信能力のある人間がそれを受け取り、それに自分の着色が加えられて、インスピレーションに近いモノが制作される事もあれば、大きく歪曲されたモノが作られる事もある。物質界の人間は、自分が良い考えを思いついて良いモノを作り上げたと言って自慢するが、それは元々霊界側で作成されたモノであり、人間の小我で着色されてそれがグレードダウンしたモノである事を知りません。この霊的知識に基づいて考えれば、僕がデザインし続けているフラーも霊団側であらかじめ作成されていたデザインのグレードダウン版と言えなくもないのでしょう。つまり「そもそも我々がデザインしたモノを我々が描け描け言うのは当たり前の事だ」という風になるのかも知れません…続きを読む→