【7/21】霊界通信 イエスの成年時代 神と人間のはざまで 1 隠者との出会い
イエスが22歳になったとき、浮浪者ヘリと別れを告げることになった。彼にとっては悲しい別離であった。イエスとヘリはアラビアのさすらえる部族の中にとけこんで長い間苦楽を共にしてきた間柄であった。ヘリはいつもイエスのよき兄として彼を見守ってきた。
しかしヘリはいつまでもこのような状態を続けることはよくないと判断していた。それでお互いに別れることになったのである。ヘリはわざとそっぽを向いている間にイエスは北へ向って旅立って行った。
年が明けたばかりの頃であったが、日中の砂漠は炎暑地獄で、陽光は遠慮えしゃくなく砂を焦がしていた。たどりついたガリラヤ地方は、まるで別天地のように自然の草木は生き生きと輝き、鳥はうたい、木々は緑の衣をまとい、ガリラヤの湖はほほえみ、野のユリは光り輝いていた。
ああ、故郷に帰ってきたんだという喜びで胸がいっぱいになるのであった。彼は人間であり、同時に神の分霊でもあった。それで彼は遥か遠くのアラビアにいたときでも、彼の霊体はしばしば肉体を離れ、生まれ故郷を訪れるのであった。
彼は一体どうして荒涼たる砂漠の地で炉の火の中をくぐり抜けるような状態におかれていたときでも、善意を保つことができたのであろうか。照りつける太陽は砂漠にいる人間どもにたいして無数の火の矢を放ち、どう猛なジャッカルは夜な夜な叫び声をひびかせ、殊に飢えているときは浮浪者をも襲うのであった。
幼少の頃からイエスは孤独をいやっというほど味わってきた。エルサレムの街頭で大勢の群衆にいじめられたり、ナザレでは、ずるがしこい律法学者に散々ひどいめにあわされたのである。しかしたった1人でアラビアの砂漠を旅しているときのイエスの心は平和そのもので、来る日も来る日も天の父なる神と一緒であった。
イエスは身も心も神の祝福で満たされていたのである。夜中にどう猛なジャッカルが食い物をあさってイエスのねているところにやってきても、イエスは目をあけて笑顔であいさつすると、彼らはおとなしくなり、彼らなりのあいさつをしてからイエスを真ん中にして車座になり、静かに座るのであった。
「イエスは再び眠りにつき、ジャッカルたちは一晩中イエスを護衛するのである。夜が明けると、神と共なるイエスのもとから離れ、食い物を探しに行くのである。このようにユダヤの地に足をふみいれるまでの間、旅そのものはまことに苛酷なものではあったが、心にはいつも喜びがみなぎっていた。
ある日の夕方、山々に風雨が襲った。南の砂漠からやってきた旅人にはあまり心地よいものではなく、危険でもあった。このような天候は、日ごろどこかにひそんでいる泥棒や狼たちにとって絶好の条件であった。しかしイエスは何ひとつ恐れることなく、心は落ち着いていた。
風雨や寒さをしのぐため穴ぐらに入ろうとして岩山をよじ登り始めた。穴ぐらの入り口の所までたどりつくと、深い渓谷や巨大な山々の光景が一変し、野獣の叫び声が聞こえてきた。すると1人の男が穴ぐらの前に立っているのが目に映った。
その上、灰色の生き物が近くの大きな石陰でうごめいていた。それは一群の狼でイエスに飛び掛かろうとしてどう猛な歯をむきだしていた。イエスは杖1本も持たず、全くの丸腰であった。そんなとき羊飼いたちは腰をかがめて石をひろい防戦の構えをとるのであるが、彼は立ったままひとつも恐れる様子もなく、飢えきった狼であることも念頭になかった。
完全な愛は欲望をすてさせてしまうのか、歯をむきだしていた狼は急に動きを停め、血に飢えた欲望は静まり、すっかりおとなしくなってしまった。イエスは彼らを見つめ、手を挙げて彼らを祝福した。彼らはイエスのそばにたたずみ、頭をあげながら狼の言葉であいさつした。
彼らの叫び声は飢えきった時のどう猛な声ではなく、もっとも親しい友人に向けられたあいさつの叫び声であった。イエスはしばらくの間そこに立っていたが、親愛の情をこめながら彼らに話しかけた。イエスの話し言葉は、ごく普通の人間のものであったが、狼にはよくわかり、喜びの声で応答するのであった。
その声が周囲の岩山にこだまして、何事が起こったのかとあちこちの岩穴から小さな動物達が首をだした。イエスの体からまばゆい光が放射され、喜びにあふれた彼の心が狼や周囲の岩々に流れていったので、野性の鳥がイエスのまわりに続々と集まってきた。
イエスは穴ぐらの前に立っている男の方へと歩み寄っていった。その男は狼のボスに何やら合図をおくり、すぐさま“けもの道”に立って旅人の命を守ってやるように命じた。イエスはほほえんでいた。イエスはちっとも恐怖を感じてはいなかったが、この隠者のやさしい心くばりを嬉しく思った。
隠者の風格は堂々たるもので、背が高く、痩せぎすであった。隠者とイエスはお互いの顔が見える程近くまで接近した。そこでイエスはしばらくここにかくまってほしいと頼むつもりであったが、突然言葉につまってしまった。2人の間に影のようなものがおおい始めたからである。
その影は暗く、重苦しかった。イエスは身震いした。そのときばかりは震えを抑えることができない程苦しかった。それが将来どんな悪い兆しであるか知るよしもなかった。それは、この隠者が水のほとりに立って彼に進むべき道を与える時が来るまで隠されていたのである。
夕方なのに陽の光はおとろえず、岩山の崖を照らしていた。日没の陽光にうつしだされた隠者はイエスより10歳も年長に見えた。彼は粗麻布(あらぬの)を身にまとい、髭と頭髪はのばし放題で胸のあたりまで垂れ下がっていた。厳しい顔付きの中に何事にもくじけない固い岩石のような精神力を秘めていた。
イエスの心に再び静けさが戻ってきてから隠者の後について岩穴の中に入っていった。暗い中にローソクの火が灯(とも)っており、そのすぐそばに羊皮紙が置かれていた。それは聖書(旧約聖書)の写しであった。隠者にとって、これは神の民の1人であることを立派に示している貴重な宝物であった。
イエスは数日の間ほんのわずかなイチゴしか食べていなかったので食物を求めた。隠者は責めるような目付きで彼の袖を引っ張った。律法に忠実な隠者にとって食事の前に手を清めないことは許せないことであった。彼は水のあるところまで連れてゆき身を清めさせてから食卓についた。
風は音をたてて吹きまくり狼は穴の外でほえていた。この聖者(隠者)は狼に静まるように話しかけた。もしも狼の言葉を使って大声をはりあげなかったら、この聖者は言語障害者ではないかと思える程おし黙っていた。イエスは心の中で、きっと沈黙の期間を守っているのであろうと推察していた。
聖者は常に手を合わせ、唇を動かし、目を天に向けて天地の大神に黙々と祈っていたからである。しかし先刻味わった重苦しい悲しみはイエスから消えうせなかった。イエスが尊敬するこの聖者を目前にしながら彼は落ち込んでしまうのである。
何やらこの聖者の将来に不吉なものを感じたのである。イエスはワナワナと震えながら神に強い助けを求めていた。イエスはつぶやいた。「天の御父は私の中におられる。そして私は天の御父の中にいるんだ」
イエスはこの聖者の中に神の用意しておられる、ただならぬ使命のようなものを予感した。彼の魂は、この世のものとは思えない平安がやってくるまで全身を突き刺すような苦しみを味わった。イエスは再びっぶやいた。「天の御父は私の中におられる。そして私は天の御父の中にいるんだ」
聖者の震えは止まった。額から吹き出していた玉のような汗も止まった。両手を真っすぐにのばしてからやっと休息をとった。イエスはこの厳格な聖者を見つめながら心の中で深く愛していることを覚え、魂の奥深い泉から吹き上げるような口調で言った。
『天にまします我らの父よ、願わくは、御名を聖となさしめたまえ。御国をきたらしめたまえ。御心を天におけるごとく地にも行わしめたまえ』イエスは生まれて始めてこのように祈ったのである。しかも名も知らない隠者の目の前で無意識のうちに語られた祈りであった。
この祈りを聞いていた隠者は、ありありと驚きの様子をかくしきれず、たとえひとことも語ることができなくても、この若者に何かを尋ねようとしているかのように唇をかすかに動かしていた。しかし間もなく彼は静かになった。彼は再び平和のうちに瞑想を続けるのであった。
イエスは身を横たえて眠りについた。彼の魂はなおも暗い陰影に包まれて聖者にまつわる謎を解くことができなかった。人間の眠りは一種の覚醒である。人は眠っている間、別の世界(霊界)に行っており、目を覚ました時にはその体験を思い出さない。しかし稀に死と苦しみを越えた世界(霊界)の体験を覚えていることがある。
イエスは夢をみていた。彼は夢の中で1人の老人が香のたちこめている祭壇の前に立っており、天使がこの老祭司のそばにいるのを見た。天使が自分のそばにいることを感じた老祭司は恐怖におそわれ、その場に倒れてしまった。天使は老祭司の恐れを除いてから彼に言った。
彼の妻エリサベツは老齢であるが、近いうちに1人の息子を産むであろうと。天使はその子の名前も告げたのであるが、イエスには聞き取ることができなかった。しかしエリサベツが産む子供の生涯について語られたことはよく覚えていた。
『かれは預言者エリヤの霊と力を以て現れるであろう。彼はキリストの歩む道を準備し、多くの人々の心を幼子のようにし、神に逆らう人々の心を正すために働くであろう』
イエスはなおも夢を見つづけた。1人の若い女が現れた。その清らかさといい、美しさといい他に較べようもない程であった。しかし彼女の名前は明かされなかった。その顔を思い出そうと努めるのであるが、それはただユダヤの田舎にある1軒の家の中のことしか思い出せなかった。
そのうち、エリサベツの名前を呼ぶ声が聞こえてきた。彼女は機織(はたお)りに精を出していた。エリサベツは老女でありながら、子を宿していることがよくわかった。夫のザカリヤは、部屋のすみでひざまずき、声をたてずに祈っていた。
祈りを終えてから食事をするのであるが、彼はただ手で合図するだけで、ひとこともしゃべらなかった。夕方ごろになって、1人の若い女がガリラヤからやってきて、従姉妹(いとこ)にあたるエリサベツの名前を呼んだ。おだやかな彼女の挨拶が始まると、部屋の中の雰囲気がガラリと変わってしまった。
今までの重苦しい空気が失せてしまい、2人の妊婦が向かい合った。1人は年老いた妊婦であり、他は若い妊婦であった。若い女の額には昔味わった大きな苦労がにじみ出ていた。それにも拘わらず彼女の顔は明るく輝いていた。その時、美しい声が響いてきた。『女の中で最も祝福された女よ!胎内の赤ちゃんも祝福されています!』
イエスが見ていた夢は一瞬、池の水のさざなみのようにゆらいだが、再び平静にもどり、若い女の顔が見えてきた。すると女は声高らかに神の栄光を歌い始めた。その歌は、一種の預言を意味する歌で、過去、現在、未来にわたって変わることのない神の真実がやって来るという内容であった。
(訳者注・聖書では、妊婦マリヤが神の子の誕生という大業をたたえ、自分のような卑しい女が選ばれたことを感謝する歌をうたったと記されている。)
「イエスはたずねた。「この歌はどこにあるのですか」声は答えた。『隠された詩篇の言葉です。聖霊がこの女の口を使って歌わせているのです。』歌声は次第に大きくなり、家の外にまで響き渡り、大勢の人々の耳にまで達した。
年老いた女は水瓶を取ってきて、わざわざ訪ねてきてくれた若い女の足を洗ってから、親しく話し始めた。その光景はイエスの夢から次第に消えてゆき、暗い穴ぐらの中で眠っていることに気がついた。もうすでに朝を迎えていた。彼が眠っている間、隠者はひざまずいて祈っていた。隠者の顔には恐怖の影は消え失せていた。
夕べ見た夢は鳥の翼のように彼の心を天に向かってはばたかせ、天の御国に導いていったのである。イエスがそこで見たものは、余りよく分からなかったようである。それもそのはず、過ぎ去った昔のことについては、何にも知らされていなかったからである。霊界では、すべての事実が忠実に記録され、永遠に保存されているのである。
「神は苦しみを用意して下さいました」んー試練にも限度があると思うのですが(祈)†
解決しなければならない問題もなく、挑むべき闘争もなく、征服すべき困難もない生活には、魂の奥に秘められた神性が開発されるチャンスはありません。悲しみも苦しみも、神性の開発のためにこそあるのです。「あなたにはもう縁のない話だからそう簡単に言えるのだ」 – こうおっしゃる方があるかも知れません。しかし私は実際にそれを体験してきたのです。何百年でなく何千年という歳月を生きてきたのです。その長い旅路を振り返った時、私はただただ宇宙を支配する神の摂理の見事さに感嘆するばかりです。1つとして偶然というものが無いのです。偶発事故というものが無いのです。すべてが不変絶対の法則によって統制されているのです。霊的な意識が芽生え、真の自我に目覚めた時、何もかも一目瞭然と分るようになります。私は宇宙を創造した力に満腔の信頼を置きます。あなた方は一体何を恐れ、また何故に神の力を信じようとしないのです。宇宙を支配する全能なる神になぜ身を委(ゆだ)ねないのです。あらゆる恐怖心、あらゆる心配の念を捨て去って神の御胸に飛び込むのです。神の心を我が心とするのです…続きを読む→
「2度も神に仕えて働いた」これが強姦殺人魔を滅ぼすつもりがないという意味なのです(祈)†
そうそう、シルバーバーチ霊は「苦を苦と思わない段階まで霊格が向上すれば、苦難を味わわされても喜びしか湧き上がってこない」みたいな事を仰っています。さらに「ベールの彼方の生活」にも、上層界の天使たちが下層界の仕事に携わって大いに苦しい状態にさせられているのに笑顔になっているという記述があります。これは帰幽して十分に向上を果たし、俯瞰の視点で全体を眺められるポジションに立つ事ができて初めて到達できる精神状態だと思います。物質界生活中にこの精神状態に到達するのは、頭で知識としては理解する事ができても心の底から納得してそういう心境に到達するのはまず不可能と思われます。中にはそういう聖者のような方もいらっしゃるのかも知れませんが僕はデザインの人間ですのでそれはないです…続きを読む→
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