【8/27】霊界通信 イエスの成年時代 神と人間のはざまで 28 イスカリオテのユダ
以前にイエスが危篤の病人を癒やした盗賊の首領の弟は、イスカリオテのユダという名前であった。彼は当時、右翼で有名な熱心党の一派、シカリー(Sicarii)に属していた。その頃のユダは、イスラエルに不当な重圧を加えていたローマを憎んでいた。
しかしイエスに癒やされ、イエスが洞窟から去ってからは、どうしてもイエスの印象を追い払うことができなかった。どのように努力しても消すことができなかった。
党の仕事に熱を入れようとしても、イエスが語った様々な金言が耳についていて、もやもやとした雲が絶えず彼を覆っていた。それでユダは、村や町を訪れるときには、必ずイエスのことを聞いてまわるのであるが、誰1人としてその消息を伝えてくれる者はいなかった。
この2人が再会したのは、町の中ではなく、ちょうどイエスが天の御父と交わりをしていたかタボル山の傾斜面であった。ユダは長い旅のあと、イスラエルの故事豊かなタボル山にたどり着いた。彼は口バからおりて山の方へ登っていった。
すると突然うしろの岩山に1人の男が立っているのに気がついた。彼は、まるで岩の1つのようにじっと立っていた。ユダはその男の顔を見た瞬間、記憶がよみがえってきた。彼は駆け寄りながら大声で叫んだ。
「先生!先生!ついにあなたを見つけましたよ!」「先生と言わないで下さい」イエスはそっぽを向いてしまった。しばらくの間沈黙が流れた。しかしイエスは目をあけて若者を見ると、とても悲しそうな顔をしていた。それでイエスは彼のもとへ行き、手をとって言った。
「ぶっきらぼうな態度を許して下さい。私の平和がみだされたものですから、つい」「この不正な世の中に、平和とは臆病者の拒絶でしかありません」
とユダが答えた。イエスはほほ笑みながら静かに言った。「あなたは、まだ平和というものを知らないんです」
ユダはすっかりうなだれてしまった。胸を突き刺すようなイエスの言葉に参ってしまったのである。イエスは哀れむように彼を慰めた。過去の生活からにじみでるような話をしたのである。
2人は向かい合って座った。ユダは自分の過去のことを話しだした。ユダの父は“シモン聖人”と言われ、ガリラヤでは有名であった。父はとても純粋で、立派な人であった。ローマに対する反乱が起きたとき、直接その運動には加わらなかったけれども、ローマ軍に追われた反乱分子を洞窟にかくまってやった。
そして毎日食べ物を運んで養ってやったのであるが、1人のガリラヤ人に裏切られ、ローマ軍に捕らえられてしまった。彼はひどい拷問を受け、母と子供の目の前で、はらわたを流しながら殺されていった。この時の事が目に焼き付いて、いつも苦しめられていた。
これ以来ユダは、イスラエルをローマから救い出すことだけを唯一の目的として生きてきたのである。彼は兄のように、盗賊として他人を殺傷するようなことはしなかった。
子供の頃、1人でエルサレムへ行き、朝早くから夜おそくまで、身を粉にして働き、小金をためていった。彼はその金であちこちを旅行し、秘密結社を組織して、機が熟したときに指導者を迎え、改革ののろしをあげようと思っていた。
ユダは言った。「あなたこそ、これを実現して下さる方であると思います。どうか“海の道”にいる兄の所へ行って下さい。兄と相談の上、是非あなたを指導者にしたいのです」
イエスは答えた。「あなたの兄さんは盗賊ではありませんか。私は平和を好む人間です。その私を暴力と殺しの世界へ連れていこうというのですか。私は、一介の卑しい大工にすぎず、しかもこの世の王国よりも天の王国を求めているのです」
「それでは自分のことばかりで、他の人々の幸せを思わないのですか」「そんなことはありません。天の王国を求めている人々と一緒にすべてを分かち合うのです。どうやらあなたには、その資格がないようですね」
ユダはすっかりしょげかえってしまった。彼はイエスが好きなので、どうしても自分の目的に従わせ、党の立派な相談役として起用したいと願っていたからである。大いなる期待と野望をもって、わざわざタボルの山にまで来たにも拘らず、イエスの拒絶にあって、彼の夢は一瞬にして崩れ去ったのである。
しかし、こんなことで引き下がるようなユダではなかった。もう1度このタボル山で、2週間後に再会する約束をとりつけて帰っていった。“海の道”へ帰り、兄と相談するためであった。
「我々の言葉を信じなさい」帰幽後に全ての埋め合わせがおこなわれるという意味です(祈)†
2000年前のイエス様が物質界に降下しておこなった仕事はもちろん「霊的知識普及」であり「神のご意志遂行」であり、それが現在も「スピリチュアリズム普及」というカタチで継続しているのです。このスピリチュアリズム普及の霊界での総指揮官はイエス様です。どうか霊関連書籍でお勉強して頂きたいです。そのイエス様が、一体何がどうなっているのか僕などというよく分からない画家に「怒涛の連続顕現」で霊的仕事を猛烈にお願いしてきたのです。僕は激しく拒絶しましたが1週間近くイエス様に何とも言えない表情で怒涛にお願いされ続けて僕は根負けしてしまい、この使命遂行をやる“ハメに”なってしまったのです。それから10年(霊性発現が2012年6月、隔離フィールド発動(事実上の使命遂行開始合図)が2014年7月ですから正確にはほぼ9年という事になるでしょうか)僕はずっとそのイエス様と約束した仕事を続けてきたのです…続きを読む→
「迫真の演技」強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁がやはり泣いてごまかすつもりのようです。皆さま決してダマされないように(祈)†
この怪獣が強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁という設定のストーリーだったのですが、霊体の僕がその怪獣に説明を求めます。「幼い女の子をレイプしまくり強姦殺人しまくってきた自身の大罪について釈明できるものならしてみて下さい」という感じに。するとその着ぐるみの怪獣は何も答えずただバタバタ暴れ出す、という映像でした。そして離脱帰還してトランスを維持していると「何も答えられない」と霊団が霊聴に響かせてきたのでした…続きを読む→
「行為のひとつひとつに責任を取らされます」僕の人生はやはりカルマの解消なのでは(祈)†
イエスは死を超越した真一文字の使命を遂行していたのであり、磔刑(はりつけ)はその使命の中における1つの出来事に過ぎない。それが生み出す悲しみは地上の人間が理解しているような“喜び”の対照としての悲しみではなく、むしろ喜びの一要素でもある。なぜならテコの原理と同じで、その悲しみをテコ台として正しく活用すれば禍転じて福となし、神の計画を推進する事になるという事でした。悲劇をただの不幸と受止める事がいかに狭い量見であるかは、そうした悲しみの真の“価値”を理解して初めて判る事です。さてイエスは今まさに未曾有の悲劇を弟子たちにもたらさんとしておりました。もし弟子たちがその真意を理解してくれなければ、この世的なただの悲劇として終わり、弟子たちに託す使命が成就されません。そこでイエスは言いました「汝らの悲しみもやがて喜びと変わらん」と。そして遂にそうなりました…続きを読む→
ディスカッション
コメント一覧
まだ、コメントがありません