【7/13】霊界通信 イエスの少年時代 貧窮の中の小さな王者 52 砂の上に書いた文字“メシヤ”
流浪の部族は、イスラエル12支族の子孫であったが、ユダヤ人の間では大変嫌われ、浮浪者と呼ばれていた。彼らは自由気儘に暮らしていたので一般の厳格なユダヤ人の目には汚らわしく思えた。彼らはモーセによって与えられた形式的な儀式や祈祷を守らなかった。
失明した老人は、いつしかイエスに心を許すようになり、遂に今まで滅多に口にしなかった先祖のことについて話し出した。「わしはエルサレムで生まれた、れっきとしたユダヤ人で、しかもパリサイ派の家で育った。ところが此の地に移住した者は何もかも失くしてしまったようで本当に悲しんでおるのじゃ。
祭の日は守らず、祈りもせず、モーセの律法による潔めも全くやらないしまつじゃ」イエスは、ゆっくりとした調子で答えた。「そんなことを悲しまなくてもよいんです。内面的なお恵みは、先ず神様から与えられ、その後で外面的に“徴”として現われてくるものです。
あなたの部族は断食や長たらしい祈りはささげませんが、とっても気高い幻を持っておられます。悔いる心も持ってるし、とても謙虚です。それは多くの誇り高いパリサイ人でも足元にも及びません。いや、エルサレムにいるパリサイ人だけではありません、ガリラヤにいる律法学者や敬虔な人と言われている人たちも及びません」
老人が言った。「わしは失明を理由に、あの連中が何をしているのか、わざと知らないふりをしているのじゃよ。けれども彼らは憎み合ったり、色事に耽(ふけ)ったり、ろくなことしかしていないとハブノーが教えてくれるのじゃ」
「たしかにそうかもしれません。でもそれだけではないようです。なかにはとても気高い幻を持った者がいることも事実です。僕がここに来た最初の頃ですが、2人の男が喧嘩をして倒れてしまいました。2人とも激昂し、刃物で相手の胸を刺しあったのです。
それからというものは、この2人はしょっちゅういがみ合っていました。僕は2人に言いました。「敵を愛するのです。あなたを害する者を祝福してあげなさい。そうすれば部族の長ハブノーやみんなに神様のお恵みが与えられるんですよ!」
彼らは憮然として私をにらみつけていました。それから暗い表情で2人とも歩き出したのです。どんどん歩いているうちに最初の男は疲れてしまい、砂の上にねころんで眠ってしまいました。いがみ合っていた相棒は、この時とばかり寝ている男の水筒を盗んだのです。
水筒には彼が大事にとっておいた最後の飲み分しか入っていませんでした。夜になってから目をさました男は、自分のパンを相棒にわけてあげました。相棒は食糧をひとつも持っていなかったからです。相棒はひったくるようにパンにかじりつきました。たベ終った男は笑いながら言いました。
「お前は馬鹿なお人好しだ」それからまたパンをくれた男を殴りつけたのですが、殴られた男はそのまま寝こんでしまいました。夜になりとても寒くなりましたが、下着しか身につけていないこの男はすっかり風邪をひいてしまい、あくる朝には熱をだしてしまいました。
そこに部族の者がやってきて、殴りつけた男に言いました。<お前は我々の仲間にひどいことをしたもんだね>と言って軽蔑のかぎりをつくして彼をなじったのです。すると彼は突然人が変ったように、熱を出している男のそばに行き、彼に水を飲ませ、暖かい食べ物をつくり、一生けんめい介抱をしたのです。
遂にこの2人は、敵だった2人は、お互いに愛し合うようになり、部族に大きな影響(平和)をもたらしたのです。ハブノーのお父さん!僕に答えてくれませんか?この2人は祭や断食を守らず、長い祈りをしなかったからという理由で、最後の審判の日に裁かれるでしょうか?
それとも私が知っている律法学者が、同じ審判の日に、彼の思いや言葉には一片の慈悲もなく、自分以下の者を軽蔑したり憎んだりした者が、モーセの定めた儀式や祈祷を忠実に守ったからといって神様の救いにあずかれるのでしょうか?さあ!僕に答えていただけませんか!」
老人は顔面に微笑をたたえながら言った。「審判の日には、もちろんこの2人の男の方が先に救いにあずかれるとも!お前は大変な目利きのようじゃ。おねがいだから、あんたの本当の名前と正体をわしにあかしてくれないか。わしが思うに、きっとお前さんは、この悩める時代にイスラエルの光として再生してきた立派な預言者ではないのかね?」
イエスは何にも答えなかった。そのかわり、手にしていた杖で砂の上に字を書いた。しかしそこに居あわせた者は誰1人としてその名前を読める者はいなかった。その文字は、メシヤ(キリストの意)を意味する隠語であった。
後になって、その文字を見た弟子は、2度とそれを口にすることも見ることもしなかった。その意味があまりにも恐ろしかったからである。
(註1)当時は箱の中に砂を入れて、教師が砂の上に字を書き、生徒がその上をていねいになぞって字を憶えていた。従って推測ではあるが、イエスはこのとき砂の入った箱の中に字を書いたものと思われる。大事に保存されていたのであろう。(訳者註)
「悔し涙を拭う必要はありません」これは帰幽後に悲しみが喜びに変わるという意味です(祈)†
次第にあの土地の光輝と雰囲気が馴染まなくなり、やむなく光輝の薄い地域へと下がって行った。そこで必死に努力してどうにか善性が邪性に勝(まさ)るまでになった。その奮闘は熾烈にしてしかも延々と続き、同時に耐え難く辛き屈辱の体験でもあった。しかし彼は勇気ある魂の持ち主で、ついに己れに克(か)った。その時点において2人の付き添いに召されて再び初めの明るい界層へと戻った。そこで私は前に迎えた時と同じ木蔭で彼に面会した。その時は遥かに思慮深さを増し、穏やかで、安易に人を軽蔑することもなくなっていた。私が静かに見つめると彼も私の方へ目をやり、すぐに最初の出会いの時のことを思い出して羞恥心と悔悟の念に思わず頭を下げた。私をあざ笑ったことをえらく後悔していたようであった。やがてゆっくりと私の方へ歩み寄り、すぐ前まで来て跪き、両手で目をおおった。鳴咽(おえつ)で肩を震わせているのが判った。私はその頭に手を置いて祝福し、慰めの言葉を述べてその場を去ったのであった。こうしたことはよくあることである。†…続きを読む→
「これから闇の中へ出発します」明仁、文仁、徳仁、悠仁が地獄に赴くという意味です(祈)†
実情はそれどころではない。人間は霊界へ来たからとて地上時代といささかも変わるものではない。その好み、その偏執、その習性、その嫌悪をそのまま携えてくるのである。変わるのは肉体を棄てたということのみである。低俗なる趣味と不純なる習性をもつ魂は、肉体を棄てたからとて、その本性が変わるものではない。それは誠実にして純真なる向上心に燃える魂が死とともに俗悪なる魂に一変することがあり得ぬのと同じである。汝らがその事実を知らぬことこそわれらにとって驚異というべきである。考えてもみるがよい。純粋にして高潔なる魂が汝らの視界から消えるとともに一気に堕落することが想像できようか。しかるに汝らは、神を憎み善に背を向けて肉欲に溺れた罪深き魂も、懺悔1つにて清められて天国へ召されると説く。前者があり得ぬごとく後者も絶対にあり得ぬ。魂の成長は1日1日、一刻一刻の歩みによって築かれていくのである…続きを読む→
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