【9/4】霊界通信 イエスの成年時代 神と人間のはざまで 34 良きサマリヤ人
夜明けにイエスは旅立つ支度をした。2日分のパンと水を用意した。旅にでかけるときは、お金も下着も靴も何も持っていかないのがエッセネ派のきまりであった。旅先の町々には、彼らの同志が住んでいて、エッセネ派に属している者が訪ねてくれば、なにくれとなく世話をしてくれるのであった。
イエスはエルサレムで、このような同志の家に滞在し、商人から約束の財布を受け取った。この旅では、同志のヨエルという兄弟と一緒であった。エリコに向かってかえる途中、彼らは岩だらけの荒野にさしかかると、刃物を持った男たちが現れ、夕暮れの静けさを破った。
ヨエルはすっかり震え上がり、どこかへ逃げてしまった。4人の荒くれ男はイエスをひきたおし、着物を剥ぎ取り、半殺しにしたままで路上に放りだした。盗賊たちは財布を抜き取り、山の方へ引き上げていった。
そこに、レビ人(訳者註・神殿で神に仕えている祭司をたすける補助者で、名門の出身者)がイエスのそばを通り掛かった。イエスは虫のような声でレビ人に助けを求めた。しかし彼はイエスの方をチラリと見ただけで、通りすぎていった。
次に、権力も金もある神殿勤めの祭司が口バに乗ってやってきた。祭司は一瞬立ち止まり、哀れな目でイエスを見下ろしていたが、通りすぎていった。こんな者とかかわったら、どんなひどい目にあうか分からないと思ったからである。
イエスはもうこれで最後かもしれないと諦めていた。暗闇があたりをおおい、飢えた野獣が洞穴から出てきて、食い物をあさっていた。
しばらくすると、1人のサマリヤ人(訳者註・同じ民族でありながら、歴史的事情によってユダヤ人と敵対関係にあった者)がやってきた。サマリヤ人は、ユダヤ人から虫けらのように軽蔑されていた。同じ先祖でありながら、モーセの律法を捨ててしまったからである。
このサマリヤ人は、ロバから降りてきて、イエスのもとに駆け寄った。全身傷だらけで、意識を失っていることを知ると、彼は自分の口バにイエスを乗せ、谷間の宿屋まで運び、傷の手当をした。
寝かされたイエスは高熱を発し、苦しみもだえていた。サマリヤ人が宿屋を出ていく時に、宿屋の主人にお金を渡しながら言った。「これであの方の必要なものをまかなってくれませんか。もしこれで足らなければ、この次に立ち寄る時に支払いますから」
4日程たってからイエスの熱は下がり、順調に傷が治っていった。宿屋の主人は、サマリヤ人のことをイエスに詳しく話してくれた。
「わしらはここで長い間、たくさんの人を知っているが、この人みたいな方ははじめてですよ。右手のしていることを左手に知らせようとしないのですからね。あの方は私にこう言うんです。自分の名前は絶対に言わないように、そして、もう一度ここにきて、まだあなたがおられる時は、顔を合わせないようにする、とね。あのサマリヤの人間がそんなことを言うんですからね」
「私が倒れていたとき、実はレビ人と祭司が通りかかったんです」「ああ、あの方たちなら、私も知っていますよ。なにしろモーセの律法をよく守っている聖人ですからね」
イエスはすかさず尋ねた。「3人のうちで、どなたが1番神様の目に叶ったでしょうかね。あのサマリヤ人ではないでしょうか」「とんでもない!サマリヤ人は大酒のみで、断食なんかやらないんだ!奴らは人間ではないからね!」
後になって、イエスの弟子がこの話を聞いてから、お互いに顔を見合わせながら言った。「なるほど!うちの先生が我々に断食させない理由がよくわかったよ。あのサマリヤ人のことが、良い手本になっているんだよ」
実はそれよりも、もっと大きな理由があった。イエスが弟子たちに断食を止めさせた本当の理由は、エッセネ派の指導者シャンマイの忠実な弟子アスラとの出会いにあったのだ。
この男は、斎日(断食をする日)でもないのに、断食をまめにやって、自分の肉体をこらしめていた。みんなは、彼の崇高な生き方を褒めたたえた。イエスがこの教団に入るまでは、アスラの名は、尊敬の別名で通っていた。
日の出に彼らはアスラの周りに集まり、彼が聖書を読み、読んだ箇所について説教をした。ところが、イエスが入ってきてからはイエスの寓話のほうが面白く、しかも神のことをよく理解できるので、次第にアスラの周りから修道者が去っていった。最後には2人の老人だけが残ることになってしまった。
それでアスラは腹を立て、イエスは教団のルールを破る者であるとシャンマイに抗議した。イエスはシャンマイに呼び出された。その頃のシャンマイは、一同から離れ、瞑想ざんまいの生活をしていた。
彼は来るべきメシヤの幻が与えられるまで、断食と祈りを続け、肉体が弱りきっていたので、とげとげしくイエスに言った。
「我々は、肉体の感覚を喜ばせるようなことをやってはならないことを知っているだろう。アスラが言うには、おまえは、修道者たちに汚らわしい物語りを話しているそうではないか。なんでも、一輪の花を摘み取ってきて、花の生命のことを語り、最後には『野のゆりの栄光を見よ』などと言ったそうではないか」
「はい、そのとおりです」「それはよくない。もし修道者が、ゆりの花の美しさを見たら、心が掻き乱され、段々と女性のこと連想し、大きな誘惑となるかもしれない。
アスラが言うには、更に、ランプの火にまつわる賢い女と愚かな女の話をしたそうだな。何と汚らわしいことよ!もう2度と女性のことを連想させるような話をしてはならんぞ!我々はそのような世俗から全く離れていることを知りなさい!」
「何をおっしゃいますか!女性は私たちの母ではありませんか」シャンマイは、このことでかんかんに怒りだし、明日にでも教団を出て行くように命じた。イエスの顔をじっとみつめているうちに、自分が全く理不尽な理由でイエスを追放する訳にはいかないことに気づき、シャンマイは新たに、4週間同志から離れて暮らすように命じた。
イエスは忠実に彼の命令に従ったので、再び、もとの生活に帰ることができたのであるが、もう2度と寓話を話すことはしなかった。そのかわり、「はい」と「いいえ」だけを口にするように決心した。
これも後に弟子のヨハネに語ったことであるが、それからのイエスは、労働のときは、歌を歌うように努め、大いに同志の慰めと喜びとなったそうである。再び腹を立てたアスラはこれには抗議できなかったという。この歌はすべて神をたたえる歌だったからである。
春がきて、夏も過ぎ去った。ぶどうの収穫が終わった頃、イエスとアスラは再びエリコヘ行った。例年のように、商人から金を受け取り、その金で穀物を買うためである。2人がぶどう酒を商人に渡してから1時間ほど待つように言われた。
それでアスラは近くの棕梠(しゅろ)の木の下阿で腰をおろし、瞑想を始めた。ふと森の中を見ると、三人の子供が一人の子供をいじめているので、イエスは近寄り、彼らの仲裁をした。
イエスは子供に様々な話を聞かせてやった。子供の母親たちもやってきて、イエスの話を熱心に聞いていた。ついアスラも瞑想を止め、イエスの話に聞き入っていた。
さて2人は帰ってきてシャンマイに金を渡すや否や、アスラはイエスが棕梠(しゅろ)の木の下で行ったことをすべて報告した。このナザレ人は又規則を破り、ろくでもないことを子供に話して聞かせたと言った。
シャンマイはイエスに言った。「我々エッセネ派の者は世俗を捨てているのだ。2つの世界を生きることはできないんだよ。神のみに仕え、神のみと交わるのだ」「幼な子はちがいます」「彼らも人の子だ。この世に属する者だ」「幼な子が私のところに近づくのを止めないで下さい。天国は彼らのような者がいるところだからです」
この言葉を聞いたシャンマイは怒りだし、耳を覆いながらウロウロと歩き回った。平静さを取り戻そうと努力している様子であった。シャンマイはアスラを見て、席をはずすようにうながした。アスラは悲しそうに出ていった。シャンマイは自己の醜さを悟り、イエスと2人きりで話したいと思ったからである。
シャンマイは沈痛の思いで語りだした。「あなたの話を耳にして古傷が痛みだしたのです。実は、私にも子供がいて、みんな暴力沙汰で殺されてしまったのです。そのときから私は世俗にいることが厭になり、逃げてきたのです。
私は心の中に憎しみを抱き続けてきたのです。しばらくの間、憎しみの心が眠っていましたが、今また目を覚まし、烈しく私をおそうのです。あなたの言葉は本当に正しいのです。私の子供たちは天国にいるのです」
シャンマイは泣き伏し、衣を涙で濡らした。イエスの言葉によって慰められたシャンマイは言った。「隠者の生活はあなたに適していません。あなたの光を桝(ます)の下に置いてはなりません。(マタイ伝・5の15)過去の経験を活かす使命が待っておられます」
「清い生活を保つために世俗を捨てたのではないのですか?」「私の場合はあなたと全く違います。世を捨てなければ、再び悪霊がおそいかかり憎しみの心にむしばまれてしまうでしょう。荒野に逃れ、教団を形成してから、やっと平和がやってきたのです。
しかし、あなたは違います。あなたそのものが光なのです。ですからそれをここで隠してしまうのは、神の御心に反することです。あなたの光を人々の前で輝かすのです。さあ!これから世に出て行くのです!それで世が受け入れない時は、再びここに帰っていらっしゃい」
このときのシャンマイは、実に賢者そのものであり、イエスは彼の知恵に驚嘆した。イエスは天の御父と共にあることを身近かに感じ、ナザレに向かった。
霊団が「奴隷の女の子たち」を救出する気が全くない事を霊的見地から説明してみます(祈)†
物質界に霊的知識を普及させる大業は遅々として進まないと僕は考えます。このやり方では物質界の霊能者がついてこないからです。ただ苦しみばかりを押し付けられて「埋め合わせは帰幽後に存分に」と繰り返し聞かされても「つまり物質界生活中はずっとこのままって意味じゃねーか、やってられるかそんなもん」となるからです。物質界生活中に多少まぁまぁな埋め合わせが発生するような仕組みに切り替えない限り、あの霊能者もこの霊能者も霊の導きに背を向け続ける事になると思います。頭にきて頭にきてしょうがないからです。僕は霊的知識がしっかり頭に入っていてまぁまぁの理解レベルに到達している人間ですから、本当はその知識を駆使して自分の人生を達観できなければならないはずなのですが、1年2年だったらそういう考え方もできるでしょうが、僕は霊性発現してから9年も経過しています。これほど長い年月にわたって苦悶のど真ん中をやらされれば、上っ面だけの理想論など吹き飛びます…続きを読む→
「イエス様を最大の信奉とせず」これはスピリチュアリズム底流の大原則です(祈)†
これまで人類はイエス様はじめ世界中の宗教の創始者等を超人的ポジションに祭り上げおかしなラベル、呼び名を付けてその人物やラベルばかりを崇めて肝心の霊的知識つまり中身をなおざりにしてきました「キリスト教の2000年の長きに亘る人類の呪い」がまさにその典型であり、その失敗を2度と繰り返さないために霊界側は「スピリチュアリズム」を勃興させ、人々の関心の対象を「人物やラベル」から「霊的知識そのもの」へとシフトさせたという事。もし霊団側が僕という霊の道具を使用して霊的知識普及の仕事をする事があるのであれば、僕という霊媒から降る霊言は今回のインスピレーション「イエス様を最大の信奉とせず」にありますようにイエス様に注目を集めさせるのではなく霊的知識そのものに関心を集めさせるという意味…続きを読む→
「お父さんが死の壁を越えて」文仁が真実をゴマかし通すつもりという意味です、絶対に許してはなりません(祈)†
イケメンの彼氏はピーチピチに「俺が1番お前を愛している」と言い続けますが、行為としては「宇宙一のバカ」強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁を擁護し賛美し続け、奴隷の女の子たちを殺し続けている事になります。口だけ「愛している」と言っても行為は「強姦殺人ほう助」を続けている事になります。しかしピーチピチ(佳子)は彼氏が好きですから言う事を聞いてしまいます。そして彼氏と一緒になって国民にウソをつき続ける邪悪の人生を歩んでしまいます。その先(つまり帰幽後)に待ち受ける自分の未来がどれほどヒドイものであるか、ピーチピチはそこまで想像力が働きません。彼氏は霊的知識が全く頭に入っていませんから帰幽後の未来の事など知った事ではありません。ただ今の生活が良ければそれでいい、それでピーチピチに甘い言葉を言い続けて現状維持を図ってくる事になります…続きを読む→
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