【11/19】私は霊力の証(あかし)を見た 奇跡の心霊治療 まえがき
私は世に言う心霊治療家である。私を訪ねてくる患者のほとんどが、ありとあらゆる医学的療法を試みてなお治らない人たちである。医薬品で簡単に治るような患者はまず来ない。ほとんど全部といってよい人々が“慢性的不治”の病人である。
闘病生活で疲れ果て、衰弱し、腰は曲がり、まともに歩けない人たちばかりだ。そういう人たちが私の治療室で、あるいは希望を見出し、あるいは霊的真理を理解し、そして、しばしば、奇蹟的に全治して帰って行く。
奇蹟的治癒を体験した人は当然、自分を治してくれた不思議な霊力(エネルギー)の秘密を知りたいと思う。そういう人に、私は秘密の扉を開いて真理の花園へと案内してあげる。
その時の、魂の奥底から湧き出るよろこびは、この私がいちばんよく知っている。なぜなら、私自身が言語を絶する痛みと、苦しみと、挫折感と、絶望の淵から這い上がり、やっとの思いで真理の花園に辿りついた体験をもっているからである。
その真理の扉へ案内してくれたのはトニーという知人だった。その扉を開いてくれたのは心霊治療家のテッド・フリッカー氏だった。そしてその花園の中へ手を取って案内してくれたのは、心霊ジャーナリストで霊媒でもあるモーリス・バーバネル氏だった。“感謝とは忘れずにいること”というフランスの名言がある。この3人は私の魂が忘れない。
さて、今では私が扉を開けてあげる立場にある。治療家としてまずは病気を治療してあげる。治る人は1度で瞬時に治ってしまう。治るべき人だったのだろう。が、心の支えと、人の道を求める人もいる。そのほうが必要な人がいる。
この道だけは“何人の人を救った”と言うような、数では測れない要素がある。たった1人でもいい。魂が求める真理の花園へと案内してあげることが出来たら、それで十分、人間としての存在価値があったと私は考える。
患者の中には過去の過ちと愚行の数々を、後悔の念を込めて語ってくれる人がいる。その人にとっては2度とやり直しのきかない唯一の人生であるから悔むのも無理はない。が私にとっては人間の誰にもある“お互いさま”のパターンなのだ。私はフランス人のモラリスト、ラロシュフーコーの名言を引用して慰めてあげる。
「過ちを犯さない人間は、たいてい、良いこともしない。大過なく人生を送る人間は、自分が思っているほど立派な人間ではない。」
私も人並みの煩悩の中で迷い、苦しみつつ生きて来た。その体験の中から綴ってみようと思う。その中の何かが、あなたにとって真理の扉への案内となれば幸いである。
治療することも、こうして書くことも、だから、私の真の目的ではない。いずれも目的への手段にすぎない。私の究極の目的は霊的真理の普及にある。そのわけは次の聖書の一句に尽きる。ヨハネ曰く – 「真理は汝を自由にすればなり」
「何とも言えぬ光景だった」上層界から使命遂行を眺めての感想ですが、過去形で言うな(祈)†
「宇宙一のバカ」大量強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁が地獄に落ちるのは自己責任、アキトくんには何の責任もないし、キミが物質界生活中にこの者たちを滅ぼさなくても自動的に肉体が朽ちて帰幽して地獄に落ちるのだからどちらでも結果は同じである。奴隷の女の子たちに関しても自ら犯した過去の大罪の罪障消滅を目的として物質界に降下した人間なのだから、苦難の人生をやらされるのが当たり前(自己責任)それを助けてあげたら本人のためにならない、アキトくんの気持ちは分からないでもないが帰幽して我々(イエス様)と同じ視点から眺められるようになれば納得できるであろう。つまり「宇宙一のバカ」大量強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁を物質界生活中に滅ぼせなくてもそれは別にアキトくんの努力不足ではなく、奴隷の女の子を助けてあげられない事もキミのせいじゃない。我々(イエス様)は絶対的有利なポジションに立っているので、その人間たちをアキトくんの霊的進歩向上に大いに活用させてもらった…続きを読む→
「悔し涙を拭う必要はありません」これは帰幽後に悲しみが喜びに変わるという意味です(祈)†
次第にあの土地の光輝と雰囲気が馴染まなくなり、やむなく光輝の薄い地域へと下がって行った。そこで必死に努力してどうにか善性が邪性に勝(まさ)るまでになった。その奮闘は熾烈にしてしかも延々と続き、同時に耐え難く辛き屈辱の体験でもあった。しかし彼は勇気ある魂の持ち主で、ついに己れに克(か)った。その時点において2人の付き添いに召されて再び初めの明るい界層へと戻った。そこで私は前に迎えた時と同じ木蔭で彼に面会した。その時は遥かに思慮深さを増し、穏やかで、安易に人を軽蔑することもなくなっていた。私が静かに見つめると彼も私の方へ目をやり、すぐに最初の出会いの時のことを思い出して羞恥心と悔悟の念に思わず頭を下げた。私をあざ笑ったことをえらく後悔していたようであった。やがてゆっくりと私の方へ歩み寄り、すぐ前まで来て跪き、両手で目をおおった。鳴咽(おえつ)で肩を震わせているのが判った。私はその頭に手を置いて祝福し、慰めの言葉を述べてその場を去ったのであった。こうしたことはよくあることである。†…続きを読む→
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