【11/26】私は霊力の証(あかし)を見た 奇跡の心霊治療 (5)真理を求めて
人間は、人に打ち開けると感激が薄れてしまいそうな気がする、そんな素晴らしい体験が誰しもあるのではないだろうか。私の気持がまさにその通りだった。
理屈はわからないが、とにかくあの激痛がウソのように消えたのである。もっとも、2、3箇所にわずかながら痛みが残っている。が耐え切れない痛みではない。
夜はよく寝るし、あの毒々しい色をした薬からも解放された。ベッドに取り付けていた平板も取りはずし、苦い思い出とともに焼却してしまった。コルセットも処分した。ステッキだけは玄関のカサ立てに残っている。
10代の後半、私は伝統的説教から何かを得ようと一心に勉強したが、そこに発見したものは戒律と迷信と民話と勧善懲悪の説教ばかりで、ばかばかしさしか感じられなかった。その後もずっと霊的真理を求め続けた。ユダヤ教の礼拝堂で祈ったこともあった。そこのラビ(指導者)の話に耳を傾けたりもした。
キリスト教については最も簡素なユニタリアン派からいちばん仰々しいカトリックのミサに至るほとんど全ての信仰形態を体験した。イエズス会の修道士、仏教の僧侶、セブンスデーアドベンチスト派の信者、ヒンズー教のマハルシ(指導者)、イスラム教のカストディアン(管理人)等々とも大いに議論した。
比較宗教学の勉強を通じて、手に入るかぎりの世界の聖典を読んだ。キリスト教の新約及び旧約聖書は6種類もの翻訳に目を通した。イスラム教の聖典コーランとユダヤ教の聖典タルムードも研究した。
一時は中国に熱中し、孔子と老子の本を片っ端から読んだ。ペルシア神話のミトラ神、古代セム人が信仰したバール神、そして今では忘れられてしまったが不思議に愛敬のある古代エジプトの神々に出遭ったのもその頃だった。
そうした勉強と体験を通じて私が悟ったことは、全ての宗教を通じて共通した1つの大きな、そして純粋な哲学の流れがあるということだった。ただその流れが人間の煩悩によって歪められ、カムフラージされ、修正されてしまっているだけだ。
その真髄を勉強すればするほど、相違点よりもむしろ類似性に心を打たれるばかりだった。私は霊的真理に飢えていた。真理の扉を叩く必要があった。そして是非ともその扉を開けてもらわなくては…
人間が霊的真理を悟るには2つの要素がいる。まず第1に、単純でもいいからズバリ得心のいく霊的体験 – 人間的常識を超えた不思議な力の存在を如実に実感させる体験がいる。次はそのメカニズム、つまりなぜそういう現象が起きたのか、そのウラに潜む意味を知ることである。
辛い体験の末に私は奇蹟的体験をした。多分 – その段階ではあくまで“多分”としか思えなかったが – 多分フリッカー氏の手を通じて霊の威力が私に働きかけたのであろう。あとはその霊力の真相を知ることだ。それもフリッカー氏から得られるかも知れない。
長かった真理探求の旅の末に、自分は今ようやくこの扉のすぐ前まで辿り着いた – そんな思いが私の胸をしめつけ、静かな、内なる興奮を覚え始めた。が、このことは誰にも語るまい。当分は公言すまい。私はそう考えて、妻にも2人の秘密にしておくようにと言って聞かせた。
フリッカー氏のところへはその後2度通った。1度は午前中、もう1度は午後だったが、いつ行っても同じ光景だった。患者がぎっしりと詰まっている。ベルが鳴って1人が出てくると代わって1人が入る。空いたイスを1つずつ詰めていく。
からだに固定器を付けたポリオ患者がいる。松葉杖を手にした腰椎脱臼者がいる。ぜいぜいと息苦しそうに呼吸している喘息患者がいる。歩く姿も痛々しい関節炎の人もいる。静かに待つ人もいれば、患部を人に見せて何やら得意げ(?)にしゃべっている人もいる。が大半は黙って待つという耐え難い苦行に専念しているのだ。
私の場合は2度とも同じ要領だった。コートを脱いでスツールに腰掛ける。フリッカー氏が左手を腹部に当てがい、右手を背骨を上下にさすり、やがて坐骨神経にそって右脚をさする。左手を肩に当てがうこともある。
「いかがですか、調子は」そう尋ねる以外にはほとんど話らしい話はしない。治療中に音楽を流すこともある。治療が終ると音楽を止めて私がコートを着るのを手伝い、「ではまた来週いらっしゃい」と言う。
治療ごとに私の身体はぐんぐん回復していった。途中の列車もタクシーもまったく気にならなくなった。ところがその3度目の治療のあと2、3日して突然痛みがぶり返した。再度奈落の底につき落されたような気分になった。私は妻の運転する車でまたハワード街まで行くはめになった。
妻は私の痛みを気遣ってゆっくりと運転してくれた。そのせいもあって実に2時間半もかかった。が私にはそれが2週間半のようにも思える長い長い道中だった。フリッカー氏は落ち着いた方だ。私の訴えを聞いても表情1つ変えず、いつもと同じ要領で施療し、手を洗ってから「もう大丈夫です。また来週おいで下さい」と一言だけ言った。
帰りは車が混んでいて思うように進めなかった。2人ともいささか疲れと空腹を覚えていたが、それが一向に気にならない。すっかり回復したよろこびがあるからだ。よかった。有難い。そういう念が私たち夫婦を陽気にしてくれた。
それにしても、私を治してくれたエネルギーは一体何なのか。2人は車の中でそのことで一心に語り合った。信仰治療ではなさそうだ。私がフリッカー氏を始めて訪ねた時、氏がどんな人で何をする人かについて一片の予備知識もなかった。
治療中氏はほとんど語りかけることもなく、私の気持を鼓舞するような言葉もかけなかった。全体の雰囲気はどちらかといえば“面白くない”と言える。飾ってあるものも、お世辞にも上等とは言えないものばかりだ。
音楽も取り立てて感心するほどのものでもない。実際私自身は感情的に興奮したことは1度もない。たとえあったとしても、その興奮だけであれほどの異常がいっぺんに治るだろうか。
とにかく私は、その治療エネルギーがフリッカー氏以外のところにあって、それが氏を通じて流れ込んだのだということだけは確信した。がそれが何なのか、どう作用したのかという点になると皆目わからない。
最高の医師に診てもらい、最高の専門医に相談しながら、彼らは結局何1つ病気の回復には寄与してくれなかった。強いて言えば、コルセットや薬で激痛を“わずかながら”和らげてくれただけだ。最後に残された手段も手術しかなかったのだ。
それが、医師の免状もない、カッコ良さのひとかけらもないロンドンの下町っ子によって、それも、どこの医学校の先生が聞いても笑って小ばかにしそうな単純な手の操作だけで、あっけなく治ってしまったのだ。そんなことを妻と語り合いながらやっと家にたどり着いた時は、なんと3時間もかかっていた。
「神に委ねてみませんか」これが実は到底承服できない最低最悪の意味なのです(祈)†
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「地球上でもっとも寂しい」僕が突入させられる悲劇です。試練にも限度がある(祈)†
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