【12/8】私は霊力の証(あかし)を見た 奇跡の心霊治療 第4章 奇蹟のメカニズム

奇怪なうめき声しか出せない患者が来た。目がしきりに何かを訴えるのだが言葉が出ない。まるで動物のような声を出すだけだ。年の頃40。身なりはきちんとして、一見健康そうである。通訳として付き添って来た女性から話を聞いた。

この人には子供がなかった。だから生活のすべてがご主人に向けられていた。家の中をピカピカに掃除し、おいしい料理を工夫し、きちんとアイロンがけをし、そのほか夫がよろこんでくれそうなことを色々と工夫しながら楽しい毎日を送っていた。彼女にとっては夫がすなわち生きがいであった。

その夫が急死した。この世から消えて失くなった。彼女は悲しみのドン底に突き落された。全身から力が抜けてしまった。そして、ようやく元気を取り戻した時は物が言えなくなっていた。

病院へ行ってみたが発声器官には何の異常もなかった。夫がいなくなった以上しゃべる必要はなくなったとでも決め込んでいるかのようだった。診断は「ヒステリー性失語症」だった。いつも紙と鉛筆を持ち歩き、ジェスチャーを交えながら用を足すという生活が始まった。

患者の中には同じような心身症的要因、とくに悲しみが原因で病気になった人が非常に多い。症状はいろいろである。潰瘍や関節炎をはじめ、部分的麻痺、大腸炎、不眠、偏頭痛、背痛、静脈洞炎、結合組織炎、乾癬等々。

がそういう症状が誘発されるパターンはだいたいきまっている。身近にいた人が死ぬ。悲しみの極に落とされる。葬儀、喪中と続いて全身の力が抜けてしまう。それがなかなか回復しない。よく眠れない。食欲が出ない。そうしているうちに右に列記したような症状が出はじめる。

こうした患者は同情と理解をもって胸のうちを聞いてあげる。すると不思議なほど似たようなケースが多いのに気づく。共通していることは、心の奥底に罪悪感にも似た後悔の念と自己隣憫の情が巣くっていることだ。

自分がもっと注意しておれば…もっと優しくしてあげておけば…もっと気持を理解してあげておれば…しかし、もう遅い。そう思っては自分を哀れに思い、悲しみがまた湧いてくる。その罪の償いのつもりで楽しみを控えようとする。こういう人には心霊治療よりもむしろ心霊知識のほうが必要である。

死んだ人はこの宇宙から消滅したのではない。次の世界へ旅立ったのである。その人にとってはこの地上での勉強が終り、次の勉強の世界へと進級して行ったのである。中には学生生活から社会生活へと入るのを恐れる者がいる。

学校は住み慣れていて気楽だが社会は未知の世界だ。行くのが怖いと思うのも無理はない。が、だからといって、いつまでも学校にいるわけにはいかない。いずれは卒業しなければならない。

この世は決して安楽ばかりの世界ではないが、住み慣れた世界であることは確かだ。勝手のわかった世界だ。この世がいちばん安心しておれる。死後の世界は知らないことばかりだ。だから怖い。おまけに子供の頃から誤った来世観を叩き込まれている。

地獄、永遠の刑罰、火あぶり、悪魔等々の観念が脳裏をかすめる。聖人君子のような生活でも送らないかぎり、そうした恐しいものが自分を待ちうけていると思い込んでいる。だから死ぬのが怖い。

もしもこうしたことが事実だったら、確かに死ぬのは怖い。私も怖いと思うだろう。が事実はそうではないのである。死後の世界は光と生命と幸福感にあふれた実に快適な世界なのだ。

死んであの世へ行った人は、よほどの事情でもないかぎり、この世へ戻ってきたいとは思わない。それは、あなたが2度と小学校へ戻りたいと思わないのといっしょである。

向うへ行くとあなたはこの世の人生のおさらいをさせられる。犯した過ちがある。やるべきでありながらやらずに終ったことがある。もちろん良いこともした。が言い難いことを人に言ったりもした。そうした体験からいろいろと学ぶことがある。そこであなたの人間性が問われる。

が判断するのはあなた自身である。自分で自分を裁くのである。気まぐれな神様から罰を受けたり、子供だましのせっかんを受けたりするのではない。霊界は責任と義務の世界であり、いわば大人の世界である。まわりには知人や友人、肉身がいる。痛みも苦しみもない。精神的にも安らかで幸福感にあふれている。

ふと地上を見ると、そこには喪服に身を包んだ家族や親戚縁者が自分の死を嘆き悲しんでいる。後悔と懺悔の念に胸を痛めている。自分の死を理由によろこびを控えている。何たる無知、何たる見当違いであろう。

その無知、その原始さながらの迷信、その愚かさにあなたは哀れさえ覚える。が、いずれ彼らもそれに気づく日も来るだろう – そう思って自らを慰める。

さて、その哀れな犠牲者の1人となったその物言わぬ女性を私はスツールに掛けさせ、ロッシーニの曲を流す。私はまず両手を夫人の頭部に当て、それから肩、そしてノドへと移動させる。曲の流れにのって私の手が激しく振動する。

やがて振動がストップする。気がつくと夫人は肩をゆするようにしながら激しく泣いている。涙が頬を伝って落ちていく。緊張がほぐれるとともに、抑えられていた情がせきを切って流れ出たのだ。

やがて平静を取り戻して涙を拭いた。私は夫人のアゴに手をもっていき、そっと持ち上げて私の目を真っすぐに直視させてから「何か歌をうたってごらんなさい」と言った。「話すのではなく歌うのです。さ、歌ってごらんなさい。ひと節でいいから歌ってごらんなさい。」

彼女は歌った。本当に歌った。立派に歌った。治ったのである。心の歪みが矯正されると同時に物が言えるようになったのである。

この例は確かに奇蹟的治癒と言えるかも知れない。が、瞬間的に治るものばかりが奇蹟ではない。時間はかかっても、心霊治療でしか治らないものがある。医学では絶対に治せないものがある。心霊治療は魂(こころ)を癒すからだ。そこに奇蹟の秘密がある。

政府の事務官の例がある。そう聞いただけで余り楽しい仕事ではなさそうな感じがする。おまけに彼は完璧主義者だ。いい加減なことが嫌いである。得てしてこうした完璧主義者は不幸になるケースが多い。どこかに無理があるからだ。

所詮人間生活に完璧は望めない。大自然の神の業と比べてみるがよい。人間のすることなどいい加減なものばかりである。いかなる名画も、本ものの夕焼空の美しさとは比べものにならない。無私無欲などと言っても、雪の如き純白な心は望むべくもない。

どんな見事な工学機械も、人体の構造に比べればオモチャのようなものだ。だから人間はいい加減なところでの妥協ということが大切になってくる。それが出来ない人間は不幸である。

その事務官にとっての唯一の気晴らしは社交ダンスである。ダンスの世界には身分階級がない。そこでは肩書きを忘れて仲間とダンスに興じることが出来る。奥さんとよく通った。

が心労が重なって、いい加減なことの出来ない彼はついに体調を崩しはじめた。やがて胃潰瘍と診断された。さっそく入院して手術を受けた。そして、ベッド数が足らないことを理由に予定より早く退院させられた。経済的に余裕のない彼は間もなく仕事に復帰した。

しかし、そこに少し無理があった。2、3日して石の階段を下りる途中で目まいがして転倒し、足首を骨折した。X線写真で重症と診断され、数週間、石膏で固められた状態で入院生活を送った。

そしていったん退院したのであるが、2週間後の定期検診で骨が正しくつながっていないことが分かり、再手術となった。そして今度は骨が鋼鉄製のクギで留められた。

数週間の療養生活ののちに仕事に再復帰したが、まだ痛みが残っていて、びっこを引いて歩いた。仕事がのろく、ほとんど毎日のように夜おそくまで残業せざるを得なかった。足首がいつまでも痛む。びっこがひどくなってきた。

杖を使って身体をよじるようにして歩く。1か月もしないうちに脚の坐骨神経と背中に激しい痛みを覚えるようになった。病院へ行ってX線検査をしてもらったところ、腰椎のヘルニアと診断されコルセットをはめられた。

足首が腫れ上がり熱をもっている。胸からヒップまでコルセットがはめられている。背中と脚に激しい痛みが走る。必死にこらえるのだが、それだけ仕事に支障を来す。一向に渉らない。気分がすぐれず、食事が進まなくなってきた。そしてついに激しく吐いた。診察の結果は恐れていた通りだった。再び胃潰瘍になっていた。

もう死んだほうがましだと思うようになった。痛みと不快感と生涯治るまいという絶望感もそろそろ限界がきた。そんな時1人の友人から私の話を耳にし、ロンドンの事務所を訪ねて来た。

病歴を全部聞くのにかなりの時間を要した。が私は親身になって聞いてあげた。大体呑み込めた私は両手を肩に当てて精神を統一した。これだけ込み入った病状がある時は、どこから始めようという考えなしに精神を統一する。すると右手がひとりでに動いて胃の上に来て、そこで激しく震動しはじめた。やがて肩に戻り、そこから脊椎へと移行した。体力の消耗が著しい。

治癒エネルギーの回路には自動バルブ装置のようなものがある。つまり患者に必要なだけ注入すると自動的にストップする。この人は生命力をほとんど消耗していたらしく、私の身体を通してエネルギーがふんだんに流れ込むのがわかった。が、それでも通常の体力に戻るまで3回の治療を要した。局部の本格的な治療に入ったのはそれからである。

まず胃潰瘍、次にくるぶし、それから腰椎、そして坐骨神経という順序だった。日を追うごとに目に見えて回復していき、3か月後には潰瘍が消え、食欲も旺盛になった。

坐骨神経のほうも夜分に時おり憧れんすることはあったが、痛みは消えた。くるぶしの腫れも退いた。時おりぎこちなさを感じることはあったがビッコをひかなくなり、杖も捨てた。ヘルニアも正常に復し、自由な動きが出来るようになった。

この段階まで来て私は人生哲学の話を持ち出して魂の再教育を始めた。人生の意義と目的、死後の存在、心の持ち方等々を語って聞かせ、書物を貸してあげた。今日かぎり取越苦労をやめて、のびのびと生きるよう論(さと)した。

私が奇蹟的治癒の1ケースとしてこの患者を紹介したのは、奇蹟というと一般に瞬間的に治った場合を想像する傾向があるからである。確かにそういうケースも私は数多く体験している。自分で歩けずに人に運んで貰って治療室まで来た人が、10分後には1人で歩いて帰ったなどとということも珍しいことではない。

がこの例のように、ゆっくりと時間をかけて1つ1つ病状を取り除いていく場合もよくある。それには治療家と患者の双方が自然の流れに根気よく順応していく努力を必要とする。つまり治癒というのはあくまでも“自然の摂理”であって、個々の条件次第でそれが早い場合と遅い場合とがあるということである。治療家はそこを読み取って、それに順応して行かねばならない。

この患者の場合、もしも私が魔法の杖でも使って一瞬のうちに全快させてあげれば、本人はもとより私にとっても読者にとっても魂をゆさぶる感激的な話になっていたかも知れない。が3か月も4か月もかかった治療の末に、ある日、「実は昨晩家内とダンスに行ってワルツを2度踊ったんですよ」と聞かされた時、私は言うに言われぬ感激を覚えたものである。

病気というものには患者1人1人にその人だけの特殊な背景がある。従って“不治の病”とされているものにも色んな症状がある。その症状と背景との関係を全部探り出すことは私には到底むりである。

そこには宗教的先入観、学校教育、個人的対人関係、環境等が複雑に絡み合っている。その全てに通じようとすれば何か月も調査と分析が必要であろう。実地に治療に携わっている私にはそのような時間も経験もない。

が幸いなことに、心霊治療家にはそんなことをしなくてもいい立場にあることも事実である。というのは、全ての治療に共通したパターンがあって、それが2つの段階で進行する。

まず手を当てがうことによって痛みそのものが大幅に、時には完全に、消える。これが第1段階である。次の第2段階では患者に心身の調和状態をもたらす。この心身の調和というのは説明が実に難しい。そこで具体的な譬え話で説明してみよう。

あなたが真夜中にふと目を覚ましたとする。カーテンを通して入ってくるかすかな月明りで時計を見ると3時である。もうひと寝入りしようと思いながら目を部屋の隅にやると、そこにピストルを手にした人影が立っている。

一瞬、電気仕掛けにあったようにギクッとする。心臓が早鐘のように打つ。ノドが乾く。助けを呼ぼうとするが声が出ない。こんな時あなたの血液中にはアドレナリンというホルモンがどんどん流れ込む。血圧が上がる。血がのぼって頭が破裂しそうだ。身体の防御機能に警戒警報が鳴りわたる。出血した時に備えて血液の凝固力が増す。全身が汗でびっしょりになる。

あなたは賊に気づかれないように、そっと手を伸ばして電灯のスイッチを入れる。パッと部屋が明るくなった。見るとその人影があったと思われるところに見えるのは椅子だけである。その椅子に無雑作に黒のコートが掛けてある。

そのコートの腕のあたりに傘が置いてあり、その置き方がちょうど銃身をこっちへ向けているような恰好に見える。あなたは苦笑とともにホッと安堵の溜め息をもらす。水を1杯飲んでから枕の位置をなおし、やがて深い睡りに入る。

その間何分とたっていない。ふと目が覚めて危険を感じ、恐怖心で全身が汗びっしょりになり、それが目の錯覚とわかって安心し、そして再び眠りに入った。その間あなたはずっとベッドの上にいて何1つ行動らしい行動はしていない。動いたのは心だけだった。

なのに1マイルもジョギングしてきたか、ボクシングでもしてきたかと思うほどの汗をかき、ぐったりと疲労を覚えた。全身の防御機能に「警戒警報」を発令したのも「警戒警報解除」を出したのも、あなた自身の心である。あなたの“心の姿勢”がそういう反応を生んだのである。

そうした人体の機能は意識的にコントロールすることが出来ない。カッとなって人を撲ろうとした時、自制心さえあれば振り上げた手を下ろすことも出来る。が人体のいわゆる自律神経だけは、いけないと思っても抑えることが出来ない。

アドレナリンの分泌を止めたり血液の凝固力を下げたり脈拍や血圧をコントロールすることは出来ない。意識的に操作することは出来ないのである。それは“心の姿勢”の反応だからである。

つまり、前の晩ベッドに入る前に“意識して”椅子にコートと傘を置いていたら、真夜中に目が覚めてそっちへ目が行っても、何の動揺もなくすぐまた寝入ったはずである。それがなぜあれほどの動揺を生んだか。それはあなたの心が早合点から危険を感じ恐怖心を抱いたからである。ただそれだけのことである。

人体は間断なく化学物質と分泌物を製造している。そしてそれをバランスよく各器官に送って健康を保っている。しかも、事態の変化に応じて多く出したり止めたりする。

問題はその調節機能が間違った心の姿勢によって過労ぎみになったり混乱したり酷使されたりすることである。病気の大半はそれが原因となっている。つまり間違った感情によって調節機能が傷めつけられたその結果が病気という形で表われているわけである。

一般の病院を訪れる患者の半数以上がそうした悪感情によって病気を誘発されているという調査結果が出ている。医学生が使うテキストには1000を数える病名が記載されているが、その大半が感情が原因となっているというわけである。

首すじの痛み、ノドの腫瘍、潰瘍、胆のう炎、げっぷ、めまい、便秘、疲労感、神経痛、頭痛、背痛、坐骨神経痛、視覚異常、結合組織炎、食欲不振、肥満、こうしたものがその代表的なものといえる。

感情によって誘発されたからといって、実在しないものを病気と錯覚しているという意味ではない。現実に痛むのである。立派に病気なのである。決して想像上のものではないのである。

ではその調節機能を正常に保つにはどうすればいいかということになるが、それは、生きる姿勢を正すことに尽きる。感情を無理やり抑えつけようとしてもダメである。日常生活における心の持ち方を根本から改めることである。

それには先ず何のために生きているのかという人生の原点に立ち帰らなくてはいけない。それについては後章で改めて説くことにしよう。私は患者が痛みや不自由さから解放されると、かならず人生の霊的真理の話をする。そして生きる姿勢を根本から改めさせる。そうすることによって、さきに述べた“心身の調和”が成就される。これで本本の健康が得られることになる。

霊的真理を知ることによって、あなたは健康といっしょに人生まで建て直すことが出来る。ドロドロしたこの世的な問題に対してまったく新たな視点から対処できるようになる。いわば達観できるようになる。

取越苦労、怒り、恨み、物欲、色欲、強情、こうしたものが消えて、愛とよろこびと理解と霊的価値を求めるようになる。つまりあなたの心の姿勢が冷静、平穏、人のため、という姿勢になる。

すると身体機能もそれに呼応する。そこには病気の入る余地がなくなり、いつの間にか病気をしなくなる。同じ人生を、かつてのあなたは下ばかり向いて歩いていたのが、今や上を向いて歩くことになる。

ところで心霊治療に信仰心というものがどの程度必要かという問題がある。これは大切な問題である。多くの患者が私のところへ来てまっ先に言いたがるのが、私の治癒力を信じてやってまいりました、ということである。

これには言葉どおりに受け取れない要素がありそうである。というのは、何が何でも治してもらいたいという願望から、その時だけ私を信じる場合と、大して期待はしていないが私の前では大げさに表現する場合とがあるように見受けられるのである。

そこで私は「無理して私を信じなくてもいいんですよ」と言い、こうして不自由なからだでわざわざ私を頼って来られたという事実だけで私には十分ですと説明してあげる。そして、私の治癒エネルギーを誤解も偏見もなく素直に受け入れて下さいとお願いする。

同じ治癒エネルギーを注入してあげても、その受け入れ方の度合は患者によってまちまちである。霊的進化の程度の違い、症状の違い、環境の違い等が関わっているからである。

霊的真理を理解している人は素直な心で治療を受けてくれる。そういう人は病院でも間に合うような単純な異常でも私のところに来る。そして素早く直ってしまう。

これと対照的なのが、心霊治療の何たるかを知らずに、それまで続けてきた一連の医学的治療行為の1つのつもりで、興味本位で来る人である。こういう人は物の考え方が異常で、従って生活も異常なことが多い。

病気もその異常な生活の反映にすぎないのだが、本人は“何でも1度試してみるに限る”といった態度でやってくるから、霊的な反省はとても望むべくもない。要するに私を祈禱師か妖術師かまじない師程度にしか見ていないのである。もっともこの種の人は例外に属するが。

私が心霊治療家であることを強調するのは、病気が縁で私のもとを訪ねる人は“霊的体験”をしに来るのだという認識があるからである。といっても、真から健康を求めてやって来る人はなかなかいないものだ。いろんな魂胆でやってくる。

心霊治療とはどんなものかを試してやろうといった好奇心から来る人もいる。が私はそれも縁だと思って、それを機会にその人の誤った考えを正してあげたり、2度とこんなマネはしないようにと諭してあげたりする。

要するに心霊治療は治すこと自体が目的ではなく手段なのである。病気をかかえて私を訪ねて来た人が、病気の回復といっしょに霊的自我に目覚める。あの医者この病院とさんざん迷い歩いて、やっと今、これまで思いもよらなかった道があることを知る。その自覚と霊的知識はこの地上生活を導くだけでなく、死の彼方に待ち受けている次の生活へも自信をもって案内してくれる。

あなたもいずれ“死”という大きな関門にさしかかる時が来る。私はこれまで自分自身の奇蹟的体験を紹介し、さらに治療家となってからの、私を訪れる人について参考になると思われる話をした。

さ、こんどはあなたの番である。あなたは霊的真理にどれだけ目覚めておられるだろうか。死をどう認識しておられるだろうか。それをこれから見ていこう。それが本書のいちばん大切なところでもあるのである。

「全て自分の成長のためなんだよ」霊団が僕をある場所に閉じ込めるという意味です(祈)†■2023年9月20日UP■
「全て自分の成長のためなんだよ」霊団が僕をある場所に閉じ込めるという意味です(祈)†
友人の守護霊は今ごろほくそ笑んでいるはずです。僕の守護霊様は今ごろ僕の霊団への反逆を見て困っている事と思われますが。人間とは霊界で永遠に生き続ける存在です。人間に死はありません。物質界とは修行のためにホンの一時期だけ降下させられるトレーニングセンターです。肉体は神の摂理で自動的に朽ち果てるようになっており、僕たちの本体(霊)はそれを脱いですみやかに霊的表現媒体に着替えて(幽体、霊体)霊界生活に突入します。この事実からも物質界が僕たちの永遠の住処でない事は明白です。そのホンの一時の束の間の場所についてお勉強する事と、永遠の住処である霊界についてお勉強する事と、どちらがプライオリティが上でしょうか。どちらが賢明かつ自分の霊的進歩向上に役立つでしょうか。そういう視点で自分の人生を考えられる人間こそ賢者と言えるのではないでしょうか…続きを読む→
■2019年6月14日UP■
「本当にあわててる」昨日UPした「宇宙一のバ〇」の画像に強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁が慌てているのだそうです(祈)†
「もうこのバ〇ども死刑でいいんじゃないか?」皆さまにそう納得して頂ける日がそう遠からずやってきます。ってかもうご理解頂いていると信じます。今まで僕たちは強姦殺人魔を許し続け洗脳にやられ続けてきた恥辱の過去がありますが、それももう終わります。シルバーバーチ霊が確か「あなたに侮蔑を浴びせ離れて行った人たちもいずれはあなたを理解して近づいてきます」みたいな事を仰っていました。正しい行いをする者が必ず人々に理解されます。悪の行いをする者は必ず地獄に落ちます…続きを読む→
■2019年1月21日UP■
※だいぶ前に書いたブログです。 “こんなにうまく行ったのは過去例がない”これはイエス様ハンドリングがうまく行ったという霊団からのメッセージなのです祈†
“過去例がない”つまり、霊界に記録が残されている、地上に降下して霊的使命を遂行し、一死奉公をした過去三千余年の霊覚者たち、その誰も到達し得なかったエリアにまで僕は到達する事ができた、そういう意味のようなのです。以前「100%霊界新記録」ともインスピレーションを受け取らせて頂いていますし…続きを読む→

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Posted by たきざわ彰人(霊覚者)祈†