『ベールの彼方の生活②』一章2 善と悪
『ベールの彼方の生活②』
善と悪 1913年11月4日 火曜日―神の恵みと安らぎと心の平静のあらん事を。これより述べていく事について誤解無きを期する為に、あらかじめ次の事実を銘記しておいて欲しい。即ち我々の住む境涯においては差当り重要でないものは“しつこく”構わず、→
『ベールの彼方の生活②』
→現在の自分の向上進化にとって緊要な問題と取組み、処理し、確固たる地盤の上を一歩一歩前進して行くという事である。もとより永遠無窮の問題を心に宿さぬ訳ではない。“究極的絶対者”の存在と本質及びその条件等の問題をなおざりにしている訳ではないが、→
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→今置かれている界での体験から判断して、これより先にも今より更に大いなる恩寵が待受けてくれているに相違ない事を確信するが故に、そうした所詮理解し得ない事は理解し得ない事として措き、そこに不満を覚えないというまでである。
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完全な信頼と確信に満ちて修身に励みつつ、向上は喜ぶがさりとてこれより進み行く未来について“しつこく”求める事はしないという事である。それ故これより扱う善と悪の問題においても我々が現段階において貴殿に明確に説き得るものに限る事にする。
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それは仮に虹を全真理に譬えれば一滴の露ほどのものに過ぎぬし或いはそれ以下かも知れない事を承知されたい。“悪”なるものは存在しないかの如く説く者がいるが、これは誤りである。もし悪が善の反対であるならば善が実在する如く悪もまた実在する。
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例えば夜という状態は存在しない―それは光と昼の否定的側面に過ぎない、という理屈が通るとすれば悪なるものは存在しない―実在するのは善のみであるという理屈になるかも知れない。が善も悪も共に唯一絶対の存在即ち“神”に対する各人の心の姿勢を言うのであり、→
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→その一つ一つの態度がそれに相応しい結果を生むに至る必須条件となる。ならば当然、神に対する反逆的態度はその反逆者への苦難と災害の原因となる。神の愛は強烈であるが故にそれに逆らう者には苦痛として響く。
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流れが急なれば急なるほどその流れに逆らう岩の周りの波は荒立つのと同じ道理である。火力が強烈であればある程それに注ぎ込まれる燃料と供給される材料の燃焼は完全である。
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神の愛をこうした用語で表現する事に恐怖を感ずる者がいるかも知れないが父なる神の創造の大業を根源において支えるものはその“愛”の力であり、それに逆らう者、それと調和せぬ者には苦痛をもたらす。
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この事は地上生活においても実際に試し、その真実性を確かめる事ができる。罪悪に伴う悔恨と自責の念の中でも最も強烈なものは罪を働いた相手から自分に向けられる愛を自覚した時に→
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→湧出るものである。これぞ地獄の炎であり、それ以外の何ものでもない。それによって味わう地獄を実在と認めないとすれば、では地獄の苦しみに真実味を与えるものは他に一体何があるのであろうか。
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現実にその情況を目の当たりにしている吾々は神の業が愛の行為にあらざるものは無いと悟って悔恨した時こそ罪を犯した者に地獄の苦しみが降りかかり、それまでの苦しみは本格的なものでなかった事を知るのである。
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が、そうなると、つまり悪に真実味があるとなれば悪人もまた実在する事になる。盲目は物が見えない事であるが物が見えない状態があると同時に物が見えない人も存在する。また物が見えないという状態は“欠如”の状態に過ぎない。
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つまり五感あるべき所が四感しかない状態に過ぎない。が、それでもその欠如には真実味がある。生まれつき目の見えない者は視覚の話を聞いて始めてその欠如を知る。そしてその欠如の状態について認識するほど欠如の苦しみを味わう事になる。
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罪もこれと同じである。暗闇にいる者を“未熟霊”と呼ぶのが通例であるが、これは否定的表現ではない。“堕落霊”の方が否定的要素がある。そこで私は盲目と罪とを表現するに“無”とは言わず“欠如”と言う。
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生まれつき目の見えない者は視力が“無い”のではない“欠如”しているに過ぎないのである。罪を犯した者も善を理解する能力を失ったのではない“欠如”しているに過ぎない。
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譬えてみれば災難によって失明した状態ではなく生まれつき目が見えない人の状態と同じである。これは聖ヨハネが“真理を知る者は罪を犯す事能(あた)わず”と述べた言葉の説明ともなろう。
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但し論理的にではない。実際問題としての話である。と言うのは真理を悟って光と美を味わった者が自ら目を閉じて盲目となる事は考えられないからである。それ故に罪を犯す者は真理についての知識と善と美を理解する能力が“欠如”しているからである。
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目の見えない者が見える人の手引なくしては災害に遭遇しかねないのと同じように、霊的に盲目の者は真理を知る者―地上の指導者もしくは霊界の指導霊―の導きなくしては罪を犯しかねないのである。
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しかし現実には多くの者が堕落し或いは罪を犯しているではないか―貴殿はそう思うかも知れない。その種の人間は視力の弱い者または不完全な者、言わば色盲にも似た者たちである。つまり彼らは物が見えてはいても“正しく”見る事ができない。
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そして何らかの機会に思い知らされるまでは自分の不完全さに気付かない。色盲の人間は多かれ少なかれ視力の未発達な者である。そうした人間が道を誤らないためには“勘”に頼る他はない。それを怠る時そこには危険が待受ける事になる。罪を犯す者もまた然りである。
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が貴殿は当惑するかも知れないが、一見善人で正直に生きた人間が霊界へ来て自分を未発達霊の中に見出す事が実に多い。意外に思うかも知れないが事実そうなのである。彼らは霊的能力の多くを発達させる事なく人生を終え、全てが霊的である世界に足を踏み入れて→
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→始めてその欠如に気付く。知らぬ事とは言え永きに亘って疎かにしてきた事について、それから徐々に理解していく事になる。それは色盲の人間が自分の視力の不完全さに気付く事なく生活しているのと同じ事である。しかも他人からもそうとは知られないのである。
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【何か好い例をお示し願えませんか―】生半可な真理を説く者は、こちらへ来て完全な真理を説かねばならなくなる。インスピレーションの事実を知る者は実に多いが、それが神と人間とのごく普通の、そして不断の連絡路である事は認めようとしない。
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こちらへ来れば代って自分が―資格が具われば―インスピレーションを送る側にまわり、その時初めて自分が地上時代に如何に多くのインスピレーションの恩恵に浴していたかを思い知る。
『ベールの彼方の生活②』
こうして彼らはまず自分に欠如した知識を学ばねばならない。向上はそれからの事であり、それまでは望めない。
『ベールの彼方の生活②』
さて悪は善の反対である。が貴殿も知る通り双方とも一個の人間の心に存在する。そのいずれにも責任を取るのはあくまで自由意志に係わる問題である。その自由意志の本質とその行使範囲については又の機会に述べるとしよう。神のご加護のあらん事を。アーメン†
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