【11/24】私は霊力の証(あかし)を見た 奇跡の心霊治療 (3)希望
ロンドンは私の生まれ故郷である。今はサセックス州に住んでいるが、ロンドンで生まれ、ロンドンで育ち、ロンドンの学校に通い、年季奉公をしたのもロンドンだった。ついでに言えば、道楽のかぎりをやったのもロンドンだし、妻を見つけたのもロンドンだった。だからロンドンは自分の家の庭のようなもので、表も裏も知りつくしているつもりだったが、トテナムと聞いて首をかしげた。
今や英国は階級差別が無くなったと言う人がいる。そういう人は貴族階級だの労働者階級だの中流階級だのという言葉を聞くと、よくわからんといったふりをするが、ロンドン子はそうではない。厳とした階級意識をもって生活している人がまだまだ多い。
中流にはさらに“中流の上層”と“中流の下層”とがある。トテナムはその下層の中流階級に属する社会である。生き生きとした庶民の町で家並も一応きちんと整っている。ただ、通りを歩いていると物干しの下着がちらほら見えかくれする。ハワード通りもそんな町にあった。
タクシーの運転手は私が告げた場所をよく心得ていた。着くとまるで大切な骨董品でも扱うように、私を抱きかかえるようにして下ろしてくれた。門に40の数字が見えた。見たところ隣近所と変わらぬ家だったが、1つだけ違ったところが目に入った。「フリッカー治療センター」と書いたピカピカの真ちゅうのプレートがドアに貼ってあったのである。
そのドアのベルを押した。押したあと、そのドアの開くのを待ちながら、ふと私の心を横切るものがあった。自分がこんなみじめな身体になってから果たして幾つのドアを苦しい思いで通り抜けたことだろう。今朝も専門医のドアをくぐった。そして絶体絶命の“判決”を言い渡れたばかりだ。
救急車のドアにも何度か運び込まれた。タクシーのドアも運転手に抱きかかえられるようにして通った。そして今また、石膏で固められ革帯で締め上げられた、まるで朽ち果てる1歩手前の残骸のような姿で、杖を片手にドアの前に突っ立っている。
何とぞ、何とぞ、もうこれが最後のドアであってほしい。私は心でそう念じた。
ドアが開いた。若くて可憐な娘さんだった。服装はアンサンブルとツイードのスカートだった。名前を告げると“どうぞ”と招き入れてくれた。入ってみると客間は患者でいっぱいだった。
その中を、まるでラッシュアワーの人混みをかき分けるような恰好でその女性のあとについて進むと、ダイニングルームのドアのところへ来た。いきなりダイニングルームは変だと思ったら、客間との中間の仕切りを取っ払っていたのだ。
そのドアを開けて入ると、そこは実はダイニングルームでなく、張り出し窓のところに質素な、というよりは安っぽい机が1つ置いてあるだけの、ただの部屋だった。その机に向かって腰掛けた助手の娘さんは、いかにも仰々しい手つきで、これまた時代もののタイプライターをパチパチとやりだした。
ゆか1面に敷物が敷きつめてある。その中央に低いテーブルが置いてあり、その上にカバーの取れた古い雑誌が無雑作に置かれていた。が、この部屋も患者でいっぱいである。といっても、この部屋では順番に従って壁づたいに列を作っている。みな壁に背を向け、腕と腕とが触れ合うほど詰めて腰掛けている。空いたイスは1つもない。
英国人というのはあまり人をジロジロ見ないものだ。私はドアにもたれて腰かけ(そこしか空いた場所がないのだ)、そして、おもむろに見まわして目で挨拶した。まわりの人たちも目で挨拶を返した。その時、奥のドアがベルの音とともに開いた。部屋全体にざわめきが起きた。
1人が治療を終って出て来て、代わってそのドアにいちばん近い人が次の人に挨拶して中へ入った。空いた席を順々に詰めていく。最後の私も1つ詰めた。するとドアが開いて新しく患者が入ってきて、今まで私の座っていたイスに腰かけた。また満員である。
患者はいろんな人がいる。バスの車掌がいる。制服のままである。喘息で呼吸が苦しそうだ。ルイ14世のようなヘアスタイルをした中年のブロンドがいる。片方の腕が枯枝のように細った子供を連れた母親がいる。いい身なりの黒人が何を思うのか静かに瞑想している。
汚れたジーンズにごついブーツをはいた2人の労務者風の男が新聞を見ながら何やらささやき合っている。見事な脚線美をした黒髪の端正な身なりの女性が、頬の醜いただれを見られたくないかのように視線を避けている。
老人がハンカチで口を押さえてせき込んでいる。そして、めそめそ泣いている子供がいる。みなそれぞれに病気をかかえている。が、その表情にはどこか希望の色が見える。
壁に目をやると、いろいろな新聞からの切り抜きが貼ってある。いずれもフリッカー氏による奇蹟的治療に関するものばかりだ。
“フリッカー氏また奇蹟を起こす”
“12年の歩行不能者が歩く”
“聾唖者が完治”
“私は松葉杖を棄てて帰った”
“奇蹟!医者を戸惑わせる”
“フリッカー氏は奇蹟の人か”等々
本当にフリッカー氏は奇蹟の人だろうか。そう思った時、またベルが鳴ってドアが開き、例のアンサンブルとツイードの女性が私の前まで来て「次はあなたさまの番です」と言った。
果たして奇蹟が起きるか。まさに運命の時が来た。私は今まさにその奇蹟の人の前に足を運ばんとしている。
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