【2/26】霊界通信 ベールの彼方の生活 2巻 「天界の高地」篇 4 神とキリストと人間

1913年11月18日 火曜日

地上の全存在の創造が完了した時、最後に1つだけ最も偉大なものが未完のまま残された。それが人間である。人間はその後の発達に任された。驚異的な才能を賦与されていたからこそ向上進化の道を啓示され、その道を自ら辿るに任された。

1人ぽっちではない。天界の全政庁が、人間がいかにその才能を駆使して行くかを見守っていたのである。今ここで地上の学者の説く進化論や神学者の説く堕罪と昇天について改めて述べるつもりはない。それよりも、もっと広い視野に立って人間本来の向上心と現状について述べてみたい。

また吾々にも人間の未来を勘案し神の子全ての前途に横たわる、奥深くそして幅広い天界のその少し先くらいは覗き見ることを許されているのである。
またその考察に当たっては、地上で説かれている神学的ドグマに捉われることがないことも承知されたい。

神学の世界はあまりに狭隘(きょうあい)であり、又あまりに束縛が多いために、広い世界に永く暮らしていた者が不用意に手足を伸ばせば、取り囲む壁に当たって傷を負いかねない。更に広く旅せんとしても、もっと苦しい災難がふりかかるかも知れないとの不安のために、つい躊躇してしまうのである。

よく聞くがよい。神学の教えをあたかも身体にとっての呼吸の如く絶対的なものを思い込む者には、衝撃があまりに大きく恐るべきものに思えるかも知れないが、吾々にとっては、道を誤らぬために神より賦与されている人間本来の意志と理性の自由な行使を恐れ、ドグマと戒律への盲従をもって神への忠誠であるかの如く履き違えている姿を見ることの方が、よほど悲劇に思えるのである。

考えてもみよ。神の不機嫌に恐れおののかねばならぬとは、一体その神と人間とはいかなる関係であろうか。自らの思考力を駆使して真摯(しんし)に考え、その挙句にたまたまドグマから逸(そ)れたからといって、神がその者を不気味な笑みを浮かべて待ち受け網をもって捕らえんとしているとでも言うのであろうか。

それとも“汝は生ぬるいぞ。冷たくもなく、さりとて熱くもない。よって汝の願いは却下する”と述べたというのはこの神のことであろうか。自由闊達に伸び伸び生き、持てる才能を有難く敬虔な気持をもって存分に使えばよいのである。

そしてたまたま過ちを犯しても、それは強情の故でもなく故意でもなく、善なる意図から出たことである。両足を正しくしっかりと踏まえ、腕を強くふりしぼって矢を射よ。1度や2度的(まと)を外れたとて少しも戸惑うことはない。恐れてはいけない。

神が却下されるのは自ら試みてしくじる者ではなく、勇気をもって挑もうとせぬ臆病者である。このことは自信をもって断言する。私はその2種類の生き方を辿った人間が地上からこちらへ来た暁に置かれる場所、更には高級界へと進み行く門を探し求めるその経緯(いきさつ)を見て、その真実性を十分に得心しているのである。

さて、天界の大軍の一員としての貴殿によくよく心して聞いてほしいことがある。改めてこう申すのも、これから私が述べることの中には貴殿の思考にそぐわないものがあるかも知れないからである。願わくば私の伝えるままを記してもらいたい。

キリスト教徒の中にはキリストを神と認めない者が多くいる。実はその問題に関しては地上のみならずベールのこちら側にても軽々しく論じられている。と言うのも、地上にかぎらず、吾々の世界でも、真理を知るためには自ら努力して求めねばならないという事情があるのである。

吾々には啓示の奇蹟は与えられず、と言って自由な思考が上級界より抑制されることもない。人間と同様に吾々も導きは受けるが、あれこれと特定の信仰を押しつけられることはない。それ故に吾々の世界にもキリストは神にあらずと説き、そう説くことで万事終わりとする者が大勢いることになる。

この度の私の目的はそれを否定して真相を説くことではない。それを絶対のものとして説くつもりはさらにない。それよりも私はまずその問題の本質を明らかにしたい。そうすることで、用語の定義づけを疎(おろそ)かにしてはこの種の問題が理解できないことを説きたいと思う。

ではまず第一に、一体〝神"とは何を意味するかということである。"父なる存在"を想う時の、1個の場所に位置する個人、つまり人間のような1人物を意味するのであろうか。

もしそうだとすれば、キリストが神でないのは明らかである。さもないと、それは2重の人物つまり2個の人物が区別のつかない状態で一体となった存在を創造することになる。

キリストが“私と父とは1つである”と言ったのはそういう意味で述べたのではない。対等の2人の人物が一体となることは考えられないことであり、理性が即座に反する。

それともキリストは父なる人間として顕現したものという意味であろうか。もしそうだとすれば、貴殿もそうであり私もそうである。なぜなら、神は全存在に宿り給うからである。あるいはキリストにおいて父なる神の全てが統一体としてそのまま宿ったということであろうか。

もしそうだとすれば、これ又、貴殿にも私にも同じように神は完全なる形で宿っていることになる。なぜなら、神は不可分の存在だからである。しかしそれを、神の全てがキリストに宿り吾々には宿っていないという言い方をすれば、それは単なる1個の俗説に過ぎず、それ以上の価値は無い。これは非論理的でもある。

何となれば、もしも神がそっくりキリストの中に宿るとすれば、キリストが即ち神となって両者の区別がつかないことになるし、必然的にキリストに宿る神が神自身の中には宿らぬという妙な理屈にもなる。これでは理性が納得しない。

それ故吾々が第一に理解しなければならぬことは、“父”というのは神について吾々が考え得るかぎりの“最高の要素”を指すための名称に過ぎないということである。もっとも、吾々にはそれすら本当の理解は出来ていない。なぜなら、正直に申して、父なる神は吾々の理解を超えた存在だからである。

私には父なる神を定義することは出事ない。まだ1度もその御姿を拝したことがないからである。“それより以下”の存在にその全体像が見える道理がないのである。私が拝したのはその部分的顕現であり、それがこれまで私に叶えられた最高の光栄である。

ならばキリストと父との一体性の真意も又、吾々の理解を超えた問題である。キリスト自身が吾々より上の存在だからである。キリストは吾々に思考し得るかぎりのことを述べておられるが、吾々にはまだその多くが理解できていない。

地上においてキリストは父なる神を身をもって証言してみせられた。つまり人間の身体によって顕現し得るかぎりの神の要素を吾々に示されたということである。それ以上のことは判らぬ。が、謙譲の徳と敬虔なる愛が深まるにつれて知識も深まり行くことであろう。

キリストが父と一体であるのと同じ意味において吾々はキリストと一体である。“人間性”と呼ぶもの“神性”と呼ぶものとの融合したキリストの中に存在することによって、吾々は父なる神の中に存在する。

キリスト自身が述べておられるように、父はキリストより偉大なる存在である。が、どれほど偉大であるかは語られなかった。たとえ語られたとしても、吾々には理解し得なかったであろう。

さて、以上の説を読まれて、これでは私は人間が組み上げてきた足場組みを徒(いたず)らに取り払うのみで、しかも結局は建物すら見えないことになるではないかと言う者もいるであろう。

が、私の目的は当初に述べたように、建物を構築することではない。今何よりも必要なのは確固たる基盤づくりであることを指摘することであった。脆弱(ぜいじゃく)な基盤の上に建てたものは、見ているうちにも、あるいは早晩かならず崩壊して多くの労力が徒労に終ることは必定(ひつじょう)である。

実は人間はまさにそれに等しいことをこれまで延々と続けてきたのである。そして自らはそれに気づいていない。明確であるべき多くのことが未だに曖昧模糊(あいまいもこ)としている原因がそこにある。“よくは知らぬ、がしかし…”というせりふで始めて断定的な事を述べるのは賢明とは言えない。

高慢は得てして謙虚な心の美しさを見えなくする。また深遠な問題に対して即座に答える者が叡智に溢れていると思うのも誤りである。何となれば、確信は得てして傲慢と相通じていることがあり、傲慢から真実は生まれず、また愛すべきものでもないからである。

貴殿と、守護霊としての私とは、永遠なる生命であるキリストにおいて一体である。キリストの生命の中において吾々は互いに相見(まみ)え祝福し合う。では私から祝福を述べるとしよう。そして貴殿から届けられた厚意に深く感謝する。†

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Posted by たきざわ彰人(霊覚者)祈†