その後は7、8日の間隔で6、7回ほどフリッカー氏の治療所へ通った。治療はいつも同じだ。時おり冗談を飛ばす以外は「いかがですか、調子は」と聞かれて「おかげさまで、ずいぶん良くなりました」と返事をする、おきまりの会話しかしなかった。
やがて11月も半ばになった頃には私は完全に仕事に復帰できるまでになっていた。毎日列車で40マイルの距離を往復した。そんなある日、ホームドクターがやって来た。私が普通の生活をしている姿を見てびっくりした様子だった。
私の回復ぶりが信じられないらしく、改めて私に歩かせたり腰かけさせたり立ち上がらせたり、くるりと身体を回転させたりした。曲がっていた腰がしゃきっとしている。
コチコチだった全身が柔かく動かせる。憂うつそうだった顔が明るく輝いている。コルセットも付けていない。ステッキも手にしていない。医者は私の身体を細かく診察した。そして“完治”の宣言をした。
そのあと私と妻とが代わるがわる、それまでの一部始終を語って聞かせた。医者は目をパチクリさせながら興味ぶかげに聞き入っていた。が残念ながら、なぜ、どうして、という私の問いには答え切れなかった。私は、やはり自分で扉を叩くほかはないと覚悟した。
が、その前にやるべきことが1つあった。2か月前に手術の約束をした例の専門医を訪ねることだった。クリスマスが終ってからと約束してあったからだ。専門医はいきなり訪ねるわけにはいかない。そこでホームドクターにお願いして予約を取ってもらった。
ウィンポール街にある病院は優雅なドアをしていた。タクシーを降り立つ身も軽々と、運転手へのチップもはずんで晴々とした気分でステップを駆け上がり、ドアを開けた。
専門医の机の上には、これまで私がかかった何人かの医師のカルテとX線写真、そしてその専門医自身の診断書が置いてあった。「クリスマスが終ってからとの約束でしたので参りました。診察をお願いします」私はそう言った。
診察は30分余りかかった。前回と同じように徹底したものだった。背筋と脚のあらゆる筋肉をテストして反応を調べた。関節を動かす度に「痛みますか」と言う。そのたびに私は「いいえ」と答える。
医師は次第にけげんな表情を浮かべ始めた。ヒザもヒップも正常である。腰椎も正常であることは、つま先に手が届くほどの前屈運動をしても何ともないことで明らかだ。診察の途中で医師は一度診断書に目をやり、二度ほどX線写真を見た。そして私に聞いた。
「何かなさいましたね。どんな手当てをされましたか。」が私は言わなかった。少なくともその時は言いたくなかったのだ。私がどうしても言おうとしないので、やむなく医師はそこで診察を終えた。そしてこう言った。
「ほぼ完全に回復していますね。椎間板ヘルニアの症状は完全に消えています。4週間ないし6週間くらいすれば後遺症も完全に失くなるでしょう。これまであまり使わなかった部分が少し弱っているだけです。それも良くなります。まだ半年ほどは坐骨神経に痛みを覚えることがあるかも知れませんが、それも次第に和らいで、いずれ消えてしまうでしょう。
おめでとう。もう治療の必要はありませんし、もちろん手術の必要はなくなりました。ところで、一体あなたはどんな手当てをしてもらったのか、教えていただけませんか。」
私は言わなかった。それよりも、こちらから質問したいことが2つあった。1つは私が苦しめられたような椎間板ヘルニアが何の手当てもしないで自然に治るということが有り得るかということだった。
私は今この道のトップクラスの専門医の前にいる。その専門医の答えならそのまま受けとってもいいはずだ。彼は首を左右に大きく振って断言した。「あなたの場合、自然に治る可能性はゼロでした。まったくのゼロでした。」
続いてもう1つ尋ねた。「私の場合、心身症の可能性はありましたでしょうか」。最近とみに心因性の病気のことが言われるようになってきた。もしも私の場合もこの心身症だったとしたら、私にとって事は重大だと思ったのである。が彼はX線写真と彼の前に診察した医師の報告書、それに自分自身の診断書を指さしながら「可能性はありません。問題外です」と、きっぱり答えてくれた。
その2つの答えを得てから私はようやくフリッカー氏の話を告白した。あの日、すなわちその専門医から手術が必要との診断を受けた日の夕方、ハワード街のフリッカー治療センターを訪れ、わずか10分足らず手でさすってもらったこと、それだけで、帰る時はコルセットを手に持って帰ったこと、帰ってからベッドの板を取りはずして焼却してしまったこと、ステッキもそれ以来一切使っていないこと、間もなく仕事に復帰できたこと等を話した。
医師はただ黙々と真剣な面持ちで話に聞き入っていた。そして最後に私が前日のクリスマスにツイストを踊った話をすると、医師の驚きはその極に達した。言葉がなかった。ただただ圧倒されていた。生涯をかけた医師としての全体験を超えたことばかりだったのである。
圧倒されたのは彼だけではなかった。当の私が圧倒され続けているのだ。一体何が起きたのだろう。奇蹟的治癒を起こした人はいつの時代にもいた。イエスがそうだった。モーゼがそうだった。エジプトにも治療を専門にする聖職者がいた。
いつの時代にもほとんど全ての民族で奇蹟的治癒の話がある。世界の大宗教の聖典にはかならずその話が出ている。旧約聖書にも治療は神の業であると述べた箇所がある。本当に神が治すのだろうか。私はその秘密を知るべく、再びフリッカー氏を訪ねた。
フリッカー氏は快く迎えてくれた。ただし私の完全に回復した姿を見ても別段おどろきも見せなかった。氏にとっては日常茶飯事だからだ。私と同じような重症の患者を何千人と治している。何千人である。驚くべき数字だ。
話の中で氏は自分の治療エネルギーは神から授かると言った。治療に入ると色々と声が聞こえる。その声に従っているだけだという。それで大半の患者が治っていく。その殆んど全部が医学的に“不治”として見離された人ばかりだ。
そうした話をしたあと氏は「もしも心霊治療について詳しく知りたかったら、心霊週刊紙ツーワールズの編集長をしているモーリス・バーバネル氏に会ってみられるがよろしい。彼なら全ての質問に満足のいく解答を授けてくれるでしょう」と言った。
私は礼を述べて帰ろうとした。そして私の手がドアの取っ手にかかった瞬間のことである。フリッカー氏の口から出た一言が私のからだを巡っていた時の流れを一瞬止めてしまった。
「今なんとおっしゃいました?」私は尋ねた。フリッカー氏は同じ言葉をもう1度くり返した。その言葉が私のその後の人生を大きく変えることになった。氏は言った。
「あなたも心霊治療家です。生まれついてのヒーラーですよ。私がやってあげたのと同じことがあなたにも出来ます。生まれながらのヒーラーです。」
家に帰ると私はさっそくこのことを妻に告げた。妻はおどろき、且つ興奮した。誰か身近な人に試してみよう。2人ともそう思ったが、家族も友人もみな腹が立つほど健康だ。
私がフリッカー氏にすがりついたように誰か私の足もとに必死の思いで治療を求めて来てくれれば、と思うのだが、そんな人はいそうにない。患者がいなくては治療家にはなれない。しばらく時を待つしかないと自分に言って聞かせた。
それよりもまずバーバネル氏に会って心霊治療について勉強することの方が先決問題だった。
「我が身を疑うな」僕という霊媒が機能する事を疑うなという意味、もうウンザリだよ(祈)†
僕の正直な所感としては、その大キライで全力で離れようとしている場所に留まる事が僕の霊媒発動につながるとは全く思えません。まるっきり関連性がないと思っています。もしその場所に留まる事で僕という霊媒が機能して新規の霊言が降ってくるというのなら、あんたたち(霊団)はこの11年間なにをすっとぼけて見てやがったんだよ、という事になるからです。僕が全力で脱出しようとして霊団に最大級に反逆しているその場所が、霊的仕事に適した場所だというのなら、この11年、なぜオメィラは1度たりとも僕という霊媒を使おうとしなかったんだよ、僕を脅してずっとそこに閉じ込める事に成功してただろ、いくらでもチャンスがあったはずだろ、なぜ今をもってしても交霊会をやろうとしないんだよ、そこがどう考えてもおかしいのです。どうやっても納得できません。あげくの果てに「宇宙一のバカ」大量強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁を滅亡させるつもりがない、奴隷の女の子たちは完全に見殺しにするつもり…続きを読む→