イヤでイヤでどうしようもない場所に残らざるを得ないと思わせる出来事がありました(祈)†
1ヶ月ほど前、霊団が「ペナルティ」と言ってきた、ある物的災難がありました。それがまだ解決しておらず奔走されている状態で日々不愉快を味わわされていますが、それにまつわる事情から、僕がずっとイヤでイヤでどうしようもなくて何が何でも離れようとしている、霊団に閉じ込められ続けている“ある場所”に、今後も残り続けるより他にどうしようもないと思わせるような出来事がありました。
霊団はその僕の態度を「謙虚が足りない」という表現で言ってきますが、僕はそれは違うんじゃないかと思ったりします。これは謙虚の要請じゃなくって単なるイジメじゃないのか。霊団側の態度は徹頭徹尾「永遠の人生の中のホンの一瞬の物質界人生の些細な出来事も耐えられないで、帰幽後に至福の境涯に赴けるとでも思っているのか」という視点から僕の物質界人生をダメにする事ばかりをやってきます。
お花ちゃんの線画、間もなく描き終わります。即スキャンしてAffinityPhoto上の作業に移ります。どんなに不愉快な目に遭わされても絵は描きます。反逆は続行します。今回の物的災難と絵は別問題。とにかくまず1枚描き上げます。
本当はテキストと格闘しなければならない、しかしまだ絵を描きます。簡単には退きません。今回のようなイヤな物的出来事があってもまだ反逆をあきらめません。この程度の事であきらめてたまるか。積年の思いがあるんだ。
「悔し涙を拭う必要はありません」これは帰幽後に悲しみが喜びに変わるという意味です(祈)†
次第にあの土地の光輝と雰囲気が馴染まなくなり、やむなく光輝の薄い地域へと下がって行った。そこで必死に努力してどうにか善性が邪性に勝(まさ)るまでになった。その奮闘は熾烈にしてしかも延々と続き、同時に耐え難く辛き屈辱の体験でもあった。しかし彼は勇気ある魂の持ち主で、ついに己れに克(か)った。その時点において2人の付き添いに召されて再び初めの明るい界層へと戻った。そこで私は前に迎えた時と同じ木蔭で彼に面会した。その時は遥かに思慮深さを増し、穏やかで、安易に人を軽蔑することもなくなっていた。私が静かに見つめると彼も私の方へ目をやり、すぐに最初の出会いの時のことを思い出して羞恥心と悔悟の念に思わず頭を下げた。私をあざ笑ったことをえらく後悔していたようであった。やがてゆっくりと私の方へ歩み寄り、すぐ前まで来て跪き、両手で目をおおった。鳴咽(おえつ)で肩を震わせているのが判った。私はその頭に手を置いて祝福し、慰めの言葉を述べてその場を去ったのであった。こうしたことはよくあることである。†…続きを読む→
「これから闇の中へ出発します」明仁、文仁、徳仁、悠仁が地獄に赴くという意味です(祈)†
実情はそれどころではない。人間は霊界へ来たからとて地上時代といささかも変わるものではない。その好み、その偏執、その習性、その嫌悪をそのまま携えてくるのである。変わるのは肉体を棄てたということのみである。低俗なる趣味と不純なる習性をもつ魂は、肉体を棄てたからとて、その本性が変わるものではない。それは誠実にして純真なる向上心に燃える魂が死とともに俗悪なる魂に一変することがあり得ぬのと同じである。汝らがその事実を知らぬことこそわれらにとって驚異というべきである。考えてもみるがよい。純粋にして高潔なる魂が汝らの視界から消えるとともに一気に堕落することが想像できようか。しかるに汝らは、神を憎み善に背を向けて肉欲に溺れた罪深き魂も、懺悔1つにて清められて天国へ召されると説く。前者があり得ぬごとく後者も絶対にあり得ぬ。魂の成長は1日1日、一刻一刻の歩みによって築かれていくのである…続きを読む→
「行為のひとつひとつに責任を取らされます」僕の人生はやはりカルマの解消なのでは(祈)†
イエスは死を超越した真一文字の使命を遂行していたのであり、磔刑(はりつけ)はその使命の中における1つの出来事に過ぎない。それが生み出す悲しみは地上の人間が理解しているような“喜び”の対照としての悲しみではなく、むしろ喜びの一要素でもある。なぜならテコの原理と同じで、その悲しみをテコ台として正しく活用すれば禍転じて福となし、神の計画を推進する事になるという事でした。悲劇をただの不幸と受止める事がいかに狭い量見であるかは、そうした悲しみの真の“価値”を理解して初めて判る事です。さてイエスは今まさに未曾有の悲劇を弟子たちにもたらさんとしておりました。もし弟子たちがその真意を理解してくれなければ、この世的なただの悲劇として終わり、弟子たちに託す使命が成就されません。そこでイエスは言いました「汝らの悲しみもやがて喜びと変わらん」と。そして遂にそうなりました…続きを読む→
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