1917年11月16日 金曜日
貴殿にとっては吾々の述べることの大半がさぞ不思議に思えることでしょう。吾々は現実に見ることも聞くこともできるが、貴殿はかつて一度も見聞きしていないのであるから無理もないことです。そこで何か不可解なことがある時は次のことを思い起こしてほしい。
すなわち、今貴殿が耐え忍ばねばならない霧は、かつて吾々も遭遇したことがあるということです。ということは、貴殿の今の苦しい立場も疑念も吾々にとって決して理解できない性質のものではなく、貴殿がたびたび見せる躊躇(ためらい)も吾々にとって少しも驚きではないということです。
が、それはそれとして、貴殿の脳裏に浮かぶものをそのまま綴っていただきたい。それをあとで容赦ない批判的態度で読み返してみられたい。完璧性には欠けるかも知れないが、実質においても外殻においても、苦心しただけの価値があることを認められるに相違ない。
外殻(がいかく)よりも実質の方が重要であるが、さらにその奥には核心がある。吾々の通信もその核心まで見届けてほしい。何となれば、もし吾々の通信に幾らかでも価値があるとすれば、そこにこそ見出されるであろうからです。
– 文章がいささか古めかしいですね。古い言いまわしの方が近代的なものよりお得意とお見うけします。私が近代的な語句を使用しようとしても、すぐに古風な言いまわしが割り込んできてそれを押し出してしまいます。そういうことがしばしばあります。
当たらずといえども遠からず、というところであろう。かつての古い語句や言いまわしのクセが顔を出し、その方が使い勝手が良いので、ついそちらへ偏(かたよ)ることは事実です。が、何なら貴殿の脳の中から近代的なものを取り出して使用するように努力しましょう。貴殿がそう望まれるのならそうしてもよい。
– それには及びません。私はただこうした傾向があまり一般的でないので述べてみたまでです。例えば私が教会で説教を行っている時に指導してくれる霊は古い言いまわしはしません。
それはそうであろう。吾々の仕事においては各自のやり方に少しずつ違いがあるものです。正直言って彼の場合も時たまはうっかり生前使い慣れた言い方をしそうになるに相違ない。が彼はそうならぬよう心掛け、貴殿の言い方に倣(なら)っている。
うっかり聞き慣れない言い方をすると聴衆が変に思い、貴殿がどうかしたのではないかと、牧師としての適性を疑いかねないでしょう。一方吾々は貴殿に書き取ってもらうことを前提としてしゃべるので、力強く印象づけないと使いものにならない用語や連語があり、そのために貴殿が戸惑い、書くのを躊躇することにもなる。が、それを避けようとすると肝心の目的からそれてしまうのです。
– では、どのようになさっておられるのか具体的に説明してください。
さて、さて、これは特殊な方法であるから、たとえ説明しても部分的にしか理解していただけないでしょう。が出来るかぎり説明してみよう。まず今夜ここに居合わせているのは7人のグループです。時にはもっと多いこともあるし少ないこともある。
何を述べるかは予(あらかじ)め大ざっぱにまとめてあるが、どのような表現にするかは貴殿の姿を見て精神状態を確かめ、同時に貴殿がそのあと何をする予定であるかを調べてから決める。それから貴殿から少し離れたところに位置をとる。
あまり近いと吾々の影響つまり数人の精神から出る意念の放射が1つにまとまらずにバラバラの形で貴殿に届けられ、貴殿の意識に混乱が生じる。少し離れていると、それがうまく融合して焦点が定まり、貴殿に届く時には1つに統一され、語法にも一貫性ができあがる。
貴殿が時おり単語や語句を変に思って躊躇するのは、あれは吾々の思想が混り合ったままで、用語が決まるまでにまとまっていない時である。それで貴殿は筆を止める。が融合作用が進行して1つにまとまると貴殿の頭に1つの考えが閃き、また筆を進めることになる。確か貴殿はそれに気づいておられるはずですが…。
– 気づいてました。ただ、なぜそうなのかが判りませんでした。
無理もないことです。では先を続けよう。吾々が思想を貴殿へ送るわけだが、時にはそれが貴殿の言うようにひどく古くさい表現となって、貴殿はとっさにその意味を捉(とら)えかねることがある。それを修正するために中間に近代的な濾過装置を用意している。吾々がこのたび語りたいのはこの濾過装置のことである。
それが実は他ならぬカスリーンです。カスリーンが間に入ってくれるおかげで吾々の思念を貴殿に届けることができるのです。これにはいろいろと理由(わけ)がある。霊的状態が吾々よりも貴殿の方に近いということがまず第一である。
つまり吾々にはこちらへ来てからの年数が長く、地球そのものから遠く離れているので、地上的習慣や手段との馴染(なじ)みが薄くなっていますが、その点カスリーンは比較的新しい他界者なので、しゃべる言葉がまだ貴殿に感応しやすい。
次にそれと関連した理由として、カスリーンにはまだ言語の貯えが残っていることが挙げられる。彼女は今でも地上の言語で思考することができる。しかもその言語は吾々のものより近代的である。もっとも吾々に言わせれば現代語は感心しない。何やら合成語のような感じがするし、適確さに欠けるように思う。
が、それなりの良さを持っているからには、吾々もアラ探しは控えねばなるまい。吾々とて相変らず偏見があり偏狭性を拭い切ってはいない。そうした人間的弱点はどこかに潜んでいるもので、こうして地上へ降りてくると、これまでの進化の道程で一度は捨て去ったはずのものが再び頭をもたげるのです。
地上に戻るとそうした人間的感情を再び味わうことになるが、それもまんざら悪いものでもありません。結構楽しいものです。そうした点においてもカスリーンの方が貴殿に近く、それで吾々の思念の流れをいったん彼女を通過させて貴殿に届けるのです。また吾々が貴殿から少し離れたところに位置しているのは、吾々が一体となった時の威力が貴殿を圧倒してしまうからです。
オーラという語を使用してもよい – この言葉はあまり好きではないが、ここでは使わねばなるまい。つまり吾々のオーラの融合したものが貴殿に何とも言えぬ心地良さ – 一種の恍惚状態 – に導いてしまう。が、それでは貴殿が書き取れないことになる。
吾々がこうして降りて来るのは貴殿ならびに他の大勢の人々に理性をもって読んでいただき、願わくは理解していただくために、文章として綴るのが目的なのですから。
貴殿は今タイムキーパー(時間記録器)の文字盤へ目を向けられた。それを貴殿らはウォッチ(時計)と呼んでおられる。なぜこのようなことを?吾々が古い言いまわしを好む一例として述べてみたまでです。ウォッチと言うよりはタイムキーパーと言った方が吾々にはぴったりくる。
が、吾々の好みを押しつけるつもりはありません。礼を失することになるでしょう。いま貴殿が文字盤それをどう呼ばれてもよいが – に目をやられた意味も判っております。そこでお寝みを申し上げるとしよう。貴殿ならびに皆さまに神の祝福のあらんことを失礼します。
カスリーンですが、私からもひとこと付け加えさせていただけますか。
– もちろん。どうぞ。
いま霊団の方たちが何かおしゃべりをされてます。まるで昔なじみのように、別れ際にはいつも暫くおしゃべりをされるのです。いよいよ行ってしまう時はすぐにそれと知れます。いつも最後は皆んなで私の方を向いて、有難う、さよなら、と言ってくださるのです。光り輝く素敵な男性ばかりです。
時には女性の方が付いて来ていることもあります。それは男性的精神構造では理解できない問題を扱うときだろうと私は思っています。その女性の方がどなたであるかは知りません。でも威厳のある、美しい、しかも優しい感じの方です。では今回はこれでお別れします。間もなくまた参ります。いっしょに筆記していただいて有難う。
– さよなら、カスリーン。有難うは私の方から言うべきだと思うけど。
でも初めはあまり気乗りがしなかったのではないですか?
– そうね。片付けなければならないことが沢山あるものだから。それに、4年前の通信(第2巻)の時の苦しさが今も忘れられないのでね。
でも、通信の再開の話は前もって打合わせてあったのでしょ?憶えてらしたのでしょ?それに、思ったほど苦痛は感じないでしょ?
– 両方ともおっしゃる通り。
とくに、苦痛が少なくなったのは間違いないと思う。このカスリーンが間に入っているからです。ですから、これから先も私の存在を忘れないでね。さようなら。そしてもう1度有難うと言わせていただきます。ルビーちゃん(*)なら“それにキスも”とでも言うところでしょうけど、それは娘だけの特権ね。私は愛と善意をこめて、ただ、さようなら、とだけ申し上げます。
カスリーン
(*オーエン氏の女児で、カスリーンが28歳で他界してから3年後にわずか15か月で他界している。 – 訳者)